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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ランド・オブ・ザ・デッド

2009-04-29 10:01:19 | 映画(ら)
評価点:27点/2005年/アメリカ

監督:ジョージ・A・ロメロ

痛烈な社会風刺がウザイ。

ゾンビが地上を席巻して久しくなってしまった近未来。
人々は街にフェンスを張り巡らし、ゾンビたちの浸食から身を守っていた。
傭兵のライリー(サイモン・ベイカー)は、汚い仕事をしながら車を買い、カナダの誰もいない場所へ旅立とうと考えていた。
ところが、部下であるチョロ(ジョン・レグザイモ)が、街の有力者カウフマン(デニス・ホッパー)に反発し、強力な武器であるデッド・リコニング号を強奪した。
街から旅立つことを条件に、チョロをとらえることを約束させられたライリーは、ゾンビたちが次第に思考力を身につけていることに気づく……。

ゾンビといえば、ロメロ。
ロメロといえば、ゾンビ。
ゾンビのイメージやゾンビの常識をつくったのが、彼である。
ゾンビを語る場合、まず彼の名前が出てくる。
その人物が、最新作でゾンビの続編を撮った。
残念ながら上映館数は多くないが、ホラー映画ファンにとってそれは衝撃的であり、うれしい事実である。

僕はそれほどマニアックにゾンビ映画を極めているわけではない。
だが、ホラー映画で唯一まともに悲鳴を出せるゾンビ映画に、
大いなる期待を抱いて映画館に向かった。2004年に公開されたゾンビのリメイク「ドーン・オブ・ザ・デッド」が、エンターテイメントとして優れた作品であったことも、この映画に寄せる期待を大きくしたのも事実だろう。
 
▼以下はネタバレあり▼

非常に残念である。
映画館にいる間中、僕の心拍数と僕の血圧は一定値を保っていただろう。
興奮も、不安も、驚きも、何一つ味わうことができずに、エンドロールを迎えてしまった。
僕の期待は見事に裏切られてしまった。

理由は大きく二つあるだろう。
一つは、よけいなことに懲りすぎたこと。
もう一つは、ゾンビの位置づけがよくわからなくなってしまっていることだ。

ゾンビが怖い理由。
その一つには、狂ってしまった人間が襲ってくるということが、ほかのホラー映画よりももっとリアルに、現実味があるように迫ってくるからだろう。
もし自分の周りに突然そんなことが起こってしまったとしたら?
という自分に向かってくる問いかけとして、受け取れてしまうからだろう。
それはそれだけ人間社会が人間にあふれてしまっているという原因もあるのだろう。

それはともかくとして、身近に感じられる恐怖、これがゾンビ映画の肝であり、怖さを支えている要素だ。

この映画ではそれを忘れてしまっている、ようにしか思えない。

世界はゾンビであふれかえってしまった近未来。
ゾンビは当たり前に存在し、当たり前に倒され続けている。
おそらくゾンビが出現したとしたら、数年でそうなるだろうと予想させるほど、その世界観はリアルだ。
人々は完全に二極化し、戦う者はいつまでたっても戦い続け、守られる権力者は高いタワーに住み、その利権をむさぼる。
そこには、はっきりと現在のアメリカの社会不安を見つけることができるだろう。

だが、それはゾンビ映画ではない。
ゾンビ映画であえて描く必要があるような、そんな要素ではないはずだ。
敵あくまでゾンビでなければならない。
にもかかわらず、ここにはゾンビが介入する余地のないほど、人間対人間の構図が描かれている。

これがまずお説教くさい。

ゾンビという恐怖ではなく、二極化という社会不安のほうが丁寧に描かれている。
これによって、作品全体のテーマがぼやけ、「ホラー映画」を見に来ている観客は、いきなり「政治映画」を見せられてとまどってしまう。
この映画において、ゾンビは恐怖を生み出すテーマではなく、人々を閉じられた世界に閉じこめるための〈記号〉でしかない。
いわば、人間社会に対する〈他者〉としての機能しか有していない。
だから、ゾンビにおそわれてしまうかもしれない、という恐怖は希薄になり、ホラー映画として解体されてしまう。

さらにそれを壊しているのが、無駄に複雑なストーリーである。

世界観がそうした人間対人間の対立であるため、主要な登場人物たちも思惑をすれ違わせ、対立する。
だが、そのやりとりがあまりに複雑で、煩雑なため、ゾンビの存在がやはり希薄になってしまう。
ストーリーを複雑にしたため、よけいに人間描写が増え、ゾンビが画面の端っこに追いやられてしまっている。

これでゾンビ映画といえるのか、非常に微妙だ。
人間同士の戦いなら、ほかでやってほしかった。
もちろん、ゾンビ映画には人間同士の裏切り合いは必然的だが、それでもそれは生き残るための、ゾンビから逃れるための戦いだったはずだ。
ゾンビ無視のところに人間関係を配置されても、蛇足なだけである。

しかも、いただけないのが、その人間模様や世界観が、あまりにステレオ・タイプで、おもしろみに欠けると言うことだ。
誰もが思いつくような、一昔の設定に、今更感情移入することは難しい。
よほど丁寧に描くか、よほど意外性がなければ、もはや通用するレベルではない。
しかもそれがゾンビを見に来た観客に見せるため、どうしても社会風刺が目立ってしまい、お説教くさくなってしまう。
人間社会の二極化や、人間性の欠如など、どうでも構わないのだ。
もっとほかに描くべき点があったのではないかと思われて仕方がない。

それに拍車をかけているのが、ゾンビの進化論だ。
世界観を見せるため、オープニングのスタッフロールに、ラジオからの放送をみせる。
そこで、「もしこのゾンビたちが知能を持ったらどうなるのでしょうか」というようなコメントを出す。
このとき、「むむむ?! なんかおかしい方向に向かうんじゃ……」と一抹の不安がよぎった。
案の定、それが複線となり、ゾンビが思考力を手に入れるという、むちゃな進化論に発展して物語が進んでいく。

死体がなぜ思考するのか。
それはともかくとして、これまたゾンビの怖さをはき違えている気がしてならない。
ゾンビが怖いのは日常性に加えて、仲の良かった隣人が、いきなり「理性を失って」おそってくるという点がある。
その理性を失って、という部分が重要だ。
理性があるなら、凶暴化しても、交渉の余地がある。
だが、それすらないのだ。
だから、人々は泣きながら死んだ体を「壊す」のだ。

そのゾンビたちに思考力がついてどうする。
ゾンビが悩んでどうする。
それはもはやゾンビですらない。
ゾンビが殺されるシーンをあたかも殺戮のように見せる。
ゾンビにも人格があり、ゾンビにも生きる資格があるように描く。
だが、それは本当にゾンビなのか。
武器を持ったゾンビは確かに恐ろしい。だが、そんな死体は「ゾンビ」ではない。

ゾンビをそのように描くことで決定的にお説教くさくなってしまう。

それはイラクやイスラム教徒を悪として、戦争を強制した政府に対する痛烈な批判のように見えてしまう。
ゾンビは、イラク人や北朝鮮の人たちであり、人間は今のアメリカを隠喩している、そのように見えてしまう。
人に見えないゾンビ(敵国)も、実は「居場所を探している」のだ。
そう主張したいのだろう。
だが、それはあまりに陳腐な対立で、あざとい対立で、安易な対立だ。

そもそも、それをゾンビ映画で描く必要があるのだろうか。
これはゾンビ映画でさえない。
これは社会批判をした政治映画だ。
まさか、ゾンビを見に行って、政治や倫理の勉強をさせられるとは思っていなかった。

ホラーとしての完成度が高ければ、それもまた評価できただろう。
だが、ホラーとしての完成度が著しく低い本作は、政治を語る資格さえない。
 
(2005/9/7執筆)

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