secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ノーカントリー

2008-04-27 16:53:48 | 映画(な)
評価点:83点/2007年/アメリカ

監督:ジョエル&イーサン・コーエン

象徴に満ちた荒野の事件。

アメリカの荒野に住むモス(ジェシュ・ブローリン)は、何者のかが殺し合った現場に居合わせてしまう。
一人以外は全滅していたが、死んだ男が持っていたのは大金だった。
危険を承知でその金を持って去ったが、生き残った男が水がほしいと言っていたことを思いだし、現場に戻る。
だが、生き残っていたはずの男は何者かに殺されていた。
そこへ別の誰かが現場に現れ、モスは命からがら逃げる。
金を取り戻そうと襲ってきたと、察知したモスは、妻をおいて逃げることにする。
一方、殺し屋、アントン・シガー(バイエル・バルデム)は、逮捕した保安官を殺し、金を持って逃げたモスを殺そうとするが……。

2007年度のオスカーで、作品賞、監督賞などの四つの賞に輝いた作品だ。
日本では、思ったより話題にならなかったようだ。
派手な映画ではないから、上映しているシネコンも少ないように思う。

もし日本で同じような映画を撮っても、日本アカデミー賞などの賞には選ばれないだろう。
わかりやすい映画ではない。
しかし、なぜこの映画がオスカーに選ばれるのか、という一点を凝視しして観てもらいたい。

コーウェン兄弟の映画は観たことがなかったが、良い監督のようだ。

▼以下はネタバレあり▼

一人の男が偶然汚い金を手に入れてしまい、それを取り返そうとする殺し屋シガーから逃げるという物語。
単純化すれば、ただそれだけの映画である。特別な手法があるわけでもなければ、難解な謎があるわけでもない。

だが、この映画を見た多くの人が、それだけの映画と納得できずに、どこかわだかまりを覚えるはずである。
全てが明瞭であるはずなのにそれが作品全体の擬態であるかのような腑に落ちない感覚にさいなまれる。
まるで、巧妙に仕組まれた仕掛け絵のように。

この映画全体は、一人の保安官の目によって語られる。
何代も保安官だった彼の家系は、彼の代になって、危機的な状況に陥る。
彼は保安官であることに疑問を持ち始め、口癖が“変な事件が多すぎる”になっていた。

映画のタイトル「ノー・カントリー」は原題の後半が省略されている。
原題は「NO COUNTLY FOR OLD MAN」である。
直訳すれば「老人にとっての国などない」。
もう少し意訳すれば、「老人に祖国はない」くらいだろうか。
ちなみに、飛行機の中では「血と暴力の国」という邦題が付けられていた。
このタイトルのほうがうまいだろう。

保安官はかつてない理不尽な世の中に何を信じるべきなのか、わからなくなっている。
自分が使えている国の形が自分の想定とはあまりにもかけ離れた事件が多いからだ。
このシガーとモスとの出来事は正に彼の心象を投影したかのような事件である。
彼がこの事件後に保安官を辞めてしまうことでも、それは言えるだろう。

では、シガーとモスは何を象徴しているのだろうか。

シガーの行動は、暗殺(殺人)という意味において、あまりにも完璧である。
いや、もっと別の言い方をすれば、彼は“死”そのものである。
彼は、彼の考えるやり方とルールによって多くの死を与える。
その徹底ぶりは異常なほどだ。
だが、ほかの多くの者にとっては、その理由は理不尽でしかない。
そのもたらす死は、正に保安官が描く現代の死そのものなのだ。

そもそも、彼の個人的な人物としてのアイデンティティはほとんど明かされない。
過去も、素顔も、知る人はいない。
ただあいつの手にかかれば必ず殺される、ということだけだ。
執拗に殺そうとうする姿は人間性をたたえながらも、全く〈人間性〉のかけらもない。
けがをしながらも相手を追う姿は潔ささえ感じさせる。

シガー = 死 と考えると、彼が与える死が、他の者にとって全くの偶然であるということに気づく。
彼のコイントスが表なのか裏なのか、必然性はない。
彼と出会うことそのものも必然性はまるでないのだ。
だから、多くの者はシガーがもたらす死を納得して受け入れることなどできない。
必死に抗う者もいれば、直視できずに「私を殺しても意味はない」と無駄な交渉を試みる者もいる。
死そのものに対して抵抗する術などない。
モスも必死に戦おうとするがやはり死んでしまう。
理不尽な死に意味など最初から無いのだ。

彼が訪れるのは荒野のアメリカだ。
ここで確認しておきたいのは「アメリカの荒野」ではないということだ。
なぜなら、「荒野」は具体的な場所を示しているのではなく、「アメリカという国の象徴」であるからだ。
舞台がニューヨークあろうと、そこがアメリカであれば、荒野であることにはなんら変わりはない。

荒野のアメリカにいる理不尽な死神。
その死神が追う男が手にしたのは死を賭けるにはあまりにも安い金だ。
この金は、かつて誰もが夢見たアメリカンドリームだ。
汚れた金を夢見て、レースするアメリカンドリーム争奪戦は、その実態があまりにも悲壮なものであることを暴く。
安易にその夢を手にかけた者で、負けた者は、思わぬ死が待っているのだ。

結果的にモスは死に、アメリカに絶望した保安官は一線を退く。
現状はなにも変えられず、ただ死ぬ者と生き残る者がいるだけだ。
そこには何の合理性も、論理性もない。
この結末は、あまりにも悲壮で過酷なものでありながら、不思議と悲哀に満ちた映画にはなっていない。
それは、ラストのエドが見る夢の示唆しているものが、絶望ではないからだ。
父親が導いていたという夢は、おれも同じ道を歩んできたのだ、これからも、戸惑いながらも、その光を渡すのだ、というメッセージなのだろう。

二つの夢。
一つは、父親の金を受け取りながら、それを「なくしてしまう」という夢であり、二つは、「寒く暗い夜の山」で震えながらも「焚き火をしていた」という夢だ。
父親の後を追い続けているという暗示に他ならない。

シガーはずっとこの国に居たのだ。
ただ、それに気づいたのが、「old man」になってからだということだろう。
エドはこれからどのようにして生きていくのだろうか。

とはいえ、この映画には多くの「間隙」と「象徴」が隠されている。
一度だけではなく、二度三度みたい映画だ。
機会があれば、もう一度シガーの〈解体〉に挑みたい。

(補足)
機会を得て、二度目を鑑賞することができた。
わかっていなかったところがあったので、上の文章も少し修正した。
細かいところを確認できてよかった。

たとえば、モスの妻が語る、「俺の運命はコイントスの運命と同じだ」というような台詞がある。
これも、「死神」の象徴であることを示している。

その後のシーンで、モスの妻の家から出るとき、シガーは足元を気にしている。
ここから、モスの妻は殺されている(=血を気にしている)ことがわかる。

その後の交通事故。これにも象徴的な意味を読み取ることができるかもしれない。
死神とお金で取引するあたりが、アメリカの資本主義の表れかもしれない。

いずれにしても、オスカーは納得の映画だ。

(2008/6/21加筆・修正)

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