secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

トイ・ストーリー(V)

2010-07-16 22:49:49 | 映画(た)
評価点:90点/1995年/アメリカ

監督:ジョン・ラセター

なぜ今まで誰も作らなかったのか。

保安官の人形ウッディ(声:トム・ハンクス)は、持ち主のアンディが誕生日を迎えることにはらはらしていた。
彼は今までアンディの惜しみない愛をほしいままにしていたが、新しいオモチャが与えられることで自分の座が危うくなるかもしれない、と思っていたからだ。
アンディのオモチャ仲間とともに様子を探ると、なんと今流行しているバズ・ライトイヤーのオモチャだった。
アンディの不安は的中し、ウッディの座はバズに奪われてしまう…。

ピクサーの名を世に知らしめた名作である。
もう今更書く必要もないし、だれも解体を要求していないだろうが、ここらで鑑賞しておいた。
まさか、見ていない人はいないだろうが、もしそんな人がいたら、これは絶対に見るべきだ。
どれだけピクサーがすごいのか、10分でわかるだろう。
ディズニーが買収に走るのも、無理はない。
こういう映画を観てしまうと、本当に日本のアニメは大丈夫かな、と不安に陥ってしまう。

▼以下はネタバレあり▼

アメリカにならどこにでもあるような風景。
子ども部屋のオモチャの群れ。
だれもが与えてもらったことがあるだろう、オモチャたち。
もし彼らが意志を持っていたとしたら?
その想像は誰もが思いついても良さそうなのに、ピクサーがこの映画を作るまではその必然性に誰も気づかなかった。

映画や小説を受けて、現実の世界が今まで違って見えるようになる。
そんな経験は誰にでも一度くらいはあるはずだ。
それを文学の世界では〈異化〉という。
この映画は、まさに異化効果抜群の映画といえる。

オモチャたちに視点を下げて映画を撮るというだけの単純なアイデアに、キャラクター性のリアリティを付け加えるだけで傑作となった。
オモチャたちは主人に遊ばれたがっている。
彼らにとって死活問題は、新しいオモチャによって自分の座を奪われてしまうこと。
そして、飽きられて、やがて捨てられてしまうこと。
彼らにとって、遊ばれることが最大の存在理由なのだ。

ウッディはお調子者の保安官。
主人のアンディのお気に入り。
だが、これまで愛されてきたことで新しいオモチャに対して、慢心と不安を感じている。
バズが愛されるようになって、嫉妬を感じる。
バズに周りのオモチャからも人気を奪われて、焦りを感じ、いたずらしてしまう。
その流れがいかにも自然だ。
彼のキャラクター性を短い時間で完全に観客に提示してしまった。
だから彼の焦りも感動も、反省もすべて「必然」なのだ。

対するバズは、アンディから愛されるも、自分のことを本物のスペース・レンジャーだと勘違いしている。
その愛くるしいナイーブさは、すぐに観客の心をつかむ。
自分自身がオモチャに過ぎないということを知ってしまった時の挫折感も、僕たち観客は完全に共感できてしまう。

乱暴に扱われながらも、それでも遊んでもらえるうれしさを堪えながら、沈黙を守っているその姿に感動すら覚える。

この映画を観ながら、僕たちは感じている。
もしかしたら、僕のオモチャも同じように遊ばれたいと思っているのではないか。
実はこっそりどこかへ出かけたり、作戦を練ったりしているのではないか。
その想像は、映画館を出た後までも引きずることになる。
トランスフォーマー」も同じようなわくわくがあった。
だが、車よりももっと身近な存在であるオモチャのほうが、よりその思いは強くなる。
そして、子どもだからと言うそれだけの理由で、あり得そうな感じがしてくる。
モノに魂を見いだす日本人にとって、よりその感情移入の度合いは高いだろう。

おもしろいのは、オモチャたちが勝手に動いても人間たちは全く気にしていないという点だ。
こんなところにオモチャを出しっぱなしにして!
僕のウッディはどこにいったの? ここに置いておいたはずなのに!
それもなぜか妙な説得力がある。
子どもの頃、なぜかオモチャが消えたり、出てきたりした経験は誰にでもあるはずだ。
その経験が実は、オモチャたちが勝手に動いていたのだと想像するだけで、ますますおもしろく感じられる。
その「絶対にないが、あり得るかも」と思わせる説得力が、この映画にはある。

丁寧に描く中にも、オーソドックスなアメリカ映画的要素がふんだんに盛り込まれている。
ジルという「オモチャを大切にしない」子ども。
彼の記号性は、まんまアメリカ人の敵そのものだ。
勧善懲悪の世界を描き出しているにもかかわらず、そこに違和感やお説教臭さはない。
オモチャを愛するという正義の視点を確固として描くため、ジルは悪そのものなのだ。

また、ジルがどうしようもなく強力な存在として描かれている点も、セオリー通りだ。
アメリカは巨大な存在を嫌う気質がある。
政府にしても、CIAにしても、NSAにしても、ソ連にしても、大企業にしても、強大なものは悪だ、という考えがある。
ここでも同じだ。
オモチャにとって強力すぎる存在としてジルを描くため、それに対抗しようという観客の感情を勝ち取ることができる。
ラストで、改造されたオモチャたちが団結してジルに仕返しするときには、大きなカタルシスを得ることになる。

改造されたオモチャたちもまた記号性に満ちている。
彼らは異質な存在としてウッディやバズの前に対峙する。
それは異文化交流や、黒人や黄色人種を象徴している。
キリスト教でいうなら、隣人愛にも似た邂逅である。
この辺りの描き方も、セオリー通りで、安定感がある。
それがさりげないために、すんなり受け入れることが出来る。
それは「ファインディング・ニモ」にも受け継がれているピクサーの十八番だ。

小さい世界を描きながら、その世界から眺めた人間の世界は冒険に満ちている。
それは僕たちが子どもの頃に感じていた、世界の広さに他ならない。
誰もが共感できる、オーソドックスなアメリカ映画。
教科書通りの記号性。
それなのに、何度も見たくなるほどおもしろい。

こんな映画を子どもたちに見せてやりたい、そういう映画。

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