評価点:78点/2016年/アメリカ/137分
監督:メル・ギブソン
敵のいない、戦争映画が訴えかける痛烈な問い。
1940年初頭、アメリカと日本の戦争が熾烈を極める中、第一次世界大戦で友人を無くした父を持つデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)は、志願してアメリカ軍に入隊する。
しかし、彼は厳しいキリスト教徒の戒律を守る青年で、銃を握ることができない。
小隊のメンバーも長官も彼を信用できない者として除隊を勧める。
しかし、彼はどうしても戦地へ赴き「衛生兵」として従軍したいと考えていた。
「アポカリプト」以来のメル・ギブソン監督作品。
2016年度のアメリカ・アカデミー賞作品賞にもノミネートされている。
結局受賞は逃したが、この初夏注目の作品の一つだ。
なぜなら、この作品の舞台となったのは、他でもなくあの沖縄本島だからだ。
敬虔なクリスチャンとしても知られる、メル・ギブソンが「パッション」を撮ったことも有名だ。
その彼が、アメリカ側から、沖縄の地上戦を描く。
これまで多くの映画監督が挑戦してきた題材である。
あるものは「何じゃこれ」となり、あるものは日本でも評判となった。
奇しくも沖縄鎮魂の日に近いこの時期に公開となり、何を見せられるのか不安の大きい鑑賞となった。
主人公は、「沈黙」でも牧師を演じたアンドリュー・ガーフィールド。
予告編の段階ではあまり見るつもりがなかったが、前田有一のサイトで取り上げられていたので、見ることにした。
▼以下はネタバレあり▼
私は沖縄のことを思うと気が重くなる。
簡単ではない問題を、一部の人間に大きな負担を強いることで問題を封じ込めてきたきらいがあるからだ。
地理的に、戦略的に、国際情勢としても、「しかたがない」のかもしれない。
だが、それだけではすまない負担を沖縄はずっと強いられてきた。
その対立を解消する糸口はなかなか見えない。
ここはその議論をする場ではないが、多様な角度から議論が必要だろう。
この映画はそうした議論に対する痛烈な意見を表明しているように見える。
この映画には敵が居ない。
少し前にYahoo!ニュースに、なぜ「沖縄」を高らかに謳わないのか、というような記事が出ていた。
見れば分かることだ。
この映画は、戦争を描いていながら、敵を必要としない映画だから、沖縄であろうとドイツであろうと、ベトナムであろうと、あるいはイスラム諸国であろうと、関係が無いのだ。
右や左といったそれまでの議論とは全く違う角度から、この映画は現代のあり方を問うている。
私は、おそらく他の観客と同じように不安だったと思う。
それは、日本を、敵側から描くとどうなるかという不安だ。
しかも沖縄をどのように扱ってくれるのだろうかという不安もあった。
しかし、先にも書いたように、この映画はそういうことを問うた映画ではなかったのだ。
物語は往来の物語パターンをとっている。
アメリカに住む青年ドスが、兵隊として志願し、訓練を受けた後に沖縄に出征し帰ってくるというものだ。
戦争状態にある国で、志願したはずの2等兵が、「私は銃に触れません」では話にならない。
当然のように、周りの隊員から異端の目で見られる。
いつ戦争に行くのか、というじれったい観客のつぶやきがきこえてきそうだ。
戦闘シーンばかりが予告編で流されるためおそらく見にいった多くの人が「あ、この映画はそういう映画だったのか」と面を喰らうだろう。
敵がいないことは、この前半のパートによく表れている。
ドスにとっては、戦争に行く前のほうが、重要な試練の時間だったのだ。
闘うべき相手は日本兵ではない。
一人銃を持たずに戦地に赴くとはそういうことだったのだ。
それでも誰かの役に立ちたい、という〈個〉がしっかりと描かれている。
実際には叔父に銃を突きつけたというエピソードが父親との関係に変換されているが、物語として洗練されただけで「事実の歪曲」と非難されるほどではないだろう。
その〈個〉が描かれることで、戦争への強いメッセージになっている。
それは、アメリカとか日本とかそういった個別の立場によって見方が変わるというようなものではない。
戦争とは何か。
私たちが、現在いま問われていることを浮き彫りにしている。
太平洋戦争、しかも沖縄地上戦ということが、日本やアメリカ以外の国にとってどれだけの意味をもつだろうか。
それだけで言えば、ほとんど描く必要が無い(もちろん、日本人にとってはそれは重要な意味を持つのだが)ほどの些事だろう。
それよりも、シリアやイラク、カタールなどの中東戦争を描く方がよほど現代のテーマを浮かび上がらせる。
だが、あえて70年前の戦争を、今問題にした。
それは、この出来事が、アメリカや日本という当事者の立場を越えた、普遍性があるからだろう。
私たちはこの戦争の悲惨さ、この戦争の無意味さを知って、なお、反知性主義に走り、自国の利益だけを追求し、他との軋轢を強くし、結果戦争を生み出すような施策を支持するのだろうか。
私たちは真剣にこの問いに対して、なんらかの行動を求められている。
あらゆることが外部に委託できるようになった世界で、それでも委託できないことがある。
それは、自国の政治選択は、平等に私たちが1票ずつ握っているということだ。
右翼的に考える人もいるだろう。
左翼的な意見をもつ人もいるだろう。
だが、どちらの立場にいるにせよ、他国の排除よりも、自国の繁栄や幸福を願っているはずだ。
私にはこの映画は明確に問おうとしているように思えるのだ。
戦争に向かおうとしているこの国際的な情勢の中で、私たちは何を選択するかを。
それが、「父親が息子を弔うこと」であるはずがない。
他国へ向けて銃を向ける準備よりも、別の何かをする時期なのではないか、と思わずにはいられない。
監督:メル・ギブソン
敵のいない、戦争映画が訴えかける痛烈な問い。
1940年初頭、アメリカと日本の戦争が熾烈を極める中、第一次世界大戦で友人を無くした父を持つデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)は、志願してアメリカ軍に入隊する。
しかし、彼は厳しいキリスト教徒の戒律を守る青年で、銃を握ることができない。
小隊のメンバーも長官も彼を信用できない者として除隊を勧める。
しかし、彼はどうしても戦地へ赴き「衛生兵」として従軍したいと考えていた。
「アポカリプト」以来のメル・ギブソン監督作品。
2016年度のアメリカ・アカデミー賞作品賞にもノミネートされている。
結局受賞は逃したが、この初夏注目の作品の一つだ。
なぜなら、この作品の舞台となったのは、他でもなくあの沖縄本島だからだ。
敬虔なクリスチャンとしても知られる、メル・ギブソンが「パッション」を撮ったことも有名だ。
その彼が、アメリカ側から、沖縄の地上戦を描く。
これまで多くの映画監督が挑戦してきた題材である。
あるものは「何じゃこれ」となり、あるものは日本でも評判となった。
奇しくも沖縄鎮魂の日に近いこの時期に公開となり、何を見せられるのか不安の大きい鑑賞となった。
主人公は、「沈黙」でも牧師を演じたアンドリュー・ガーフィールド。
予告編の段階ではあまり見るつもりがなかったが、前田有一のサイトで取り上げられていたので、見ることにした。
▼以下はネタバレあり▼
私は沖縄のことを思うと気が重くなる。
簡単ではない問題を、一部の人間に大きな負担を強いることで問題を封じ込めてきたきらいがあるからだ。
地理的に、戦略的に、国際情勢としても、「しかたがない」のかもしれない。
だが、それだけではすまない負担を沖縄はずっと強いられてきた。
その対立を解消する糸口はなかなか見えない。
ここはその議論をする場ではないが、多様な角度から議論が必要だろう。
この映画はそうした議論に対する痛烈な意見を表明しているように見える。
この映画には敵が居ない。
少し前にYahoo!ニュースに、なぜ「沖縄」を高らかに謳わないのか、というような記事が出ていた。
見れば分かることだ。
この映画は、戦争を描いていながら、敵を必要としない映画だから、沖縄であろうとドイツであろうと、ベトナムであろうと、あるいはイスラム諸国であろうと、関係が無いのだ。
右や左といったそれまでの議論とは全く違う角度から、この映画は現代のあり方を問うている。
私は、おそらく他の観客と同じように不安だったと思う。
それは、日本を、敵側から描くとどうなるかという不安だ。
しかも沖縄をどのように扱ってくれるのだろうかという不安もあった。
しかし、先にも書いたように、この映画はそういうことを問うた映画ではなかったのだ。
物語は往来の物語パターンをとっている。
アメリカに住む青年ドスが、兵隊として志願し、訓練を受けた後に沖縄に出征し帰ってくるというものだ。
戦争状態にある国で、志願したはずの2等兵が、「私は銃に触れません」では話にならない。
当然のように、周りの隊員から異端の目で見られる。
いつ戦争に行くのか、というじれったい観客のつぶやきがきこえてきそうだ。
戦闘シーンばかりが予告編で流されるためおそらく見にいった多くの人が「あ、この映画はそういう映画だったのか」と面を喰らうだろう。
敵がいないことは、この前半のパートによく表れている。
ドスにとっては、戦争に行く前のほうが、重要な試練の時間だったのだ。
闘うべき相手は日本兵ではない。
一人銃を持たずに戦地に赴くとはそういうことだったのだ。
それでも誰かの役に立ちたい、という〈個〉がしっかりと描かれている。
実際には叔父に銃を突きつけたというエピソードが父親との関係に変換されているが、物語として洗練されただけで「事実の歪曲」と非難されるほどではないだろう。
その〈個〉が描かれることで、戦争への強いメッセージになっている。
それは、アメリカとか日本とかそういった個別の立場によって見方が変わるというようなものではない。
戦争とは何か。
私たちが、現在いま問われていることを浮き彫りにしている。
太平洋戦争、しかも沖縄地上戦ということが、日本やアメリカ以外の国にとってどれだけの意味をもつだろうか。
それだけで言えば、ほとんど描く必要が無い(もちろん、日本人にとってはそれは重要な意味を持つのだが)ほどの些事だろう。
それよりも、シリアやイラク、カタールなどの中東戦争を描く方がよほど現代のテーマを浮かび上がらせる。
だが、あえて70年前の戦争を、今問題にした。
それは、この出来事が、アメリカや日本という当事者の立場を越えた、普遍性があるからだろう。
私たちはこの戦争の悲惨さ、この戦争の無意味さを知って、なお、反知性主義に走り、自国の利益だけを追求し、他との軋轢を強くし、結果戦争を生み出すような施策を支持するのだろうか。
私たちは真剣にこの問いに対して、なんらかの行動を求められている。
あらゆることが外部に委託できるようになった世界で、それでも委託できないことがある。
それは、自国の政治選択は、平等に私たちが1票ずつ握っているということだ。
右翼的に考える人もいるだろう。
左翼的な意見をもつ人もいるだろう。
だが、どちらの立場にいるにせよ、他国の排除よりも、自国の繁栄や幸福を願っているはずだ。
私にはこの映画は明確に問おうとしているように思えるのだ。
戦争に向かおうとしているこの国際的な情勢の中で、私たちは何を選択するかを。
それが、「父親が息子を弔うこと」であるはずがない。
他国へ向けて銃を向ける準備よりも、別の何かをする時期なのではないか、と思わずにはいられない。
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