secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ザ・ウォーカー

2010-06-23 21:22:37 | 映画(さ)
評価点:62点/2010年/アメリカ

監督:アレン・ヒューズ、アルバート・ヒューズ

その本で、その世界が救えるとは思えない。

近未来、30年前に起こった核戦争により、世界は核の炎に包まれた。
人類は絶滅したかに見えた。
だが、人類は生きていた。
一人の男イーライ(デンゼル・ワシントン)は、西へ西へと一冊の本を届けるために旅を続けていた。
ある日、街を興したというカーネギー(ゲイリー・オールドマン)が探していた本が、その男の本だと気づく。

ケンシロウは残念ながら出てこない。
だが、その世界観は、まんま「北斗の拳」である。
懐かしい雰囲気ではあるものの、勿論、ラオウを倒すような物語でもない。
人類に残された一冊の本を巡る物語である。

演じるのはデンゼル・ワシントンとゲイリー・オールドマン。
久しぶりの本格的な悪役で、「レオン」の悪徳警官を彷彿とさせるのは嬉しい限りだ。

ネタバレされてしまうとおもしろさはほとんどなくなってしまう。
おもしろいオチになっている、ということだけを知っておけば、それ以上の知識は不要だろう。
ちょっと谷間で、特にみるものがないと思っている人は、見ても損はないだろう。

僕は、意外性という意味で楽しめたが、まあまあだった。

▼以下はネタバレあり▼

見る前からその本のタイトルは、「聖書」であろうということは誰もが予想がつくだろう。
ちょうど荒木飛呂彦「スティール・ボール・ラン」で探す遺体がイエスであるようなものだ。
いや、たとえがわかりにくくて申し訳ない。
言われなくとも、その中身は確信できるほど、わかりやすい。
荒野の大地に苦しむ人々が救いを求め、結局たどり着くのが、信仰なのだという強いメッセージが見える。

このあたりは、非常にわかりやすい。
おそらく本の中身については、多くの人が予想したとおりだろう。
それを浮かび上がらせる伏線も数多く張られている。

例えば、この世界は、もちろん現実世界の隠喩にもなっている。
荒廃した世界は、モノがなくなった時代とされているが、それは現実世界にも当てはまる。
人の心が廃れてしまった世界は、明らかに現実を揶揄したものだ。
そうでなければ、映画として成り立たないし、そもそも僕たちが感情移入する余地もない。
だが、そうだとしても、特徴的な近未来を描写している。

一つは、多くの善良な人間がみな悪事に手を染めようとしているという点だ。
劇中後半で出てくる一軒家に住む老夫婦。
彼らは善良な人間、平均的な人間ということを代表するために置かれている。
彼らは、単なる善良な人間ではない。
彼らは襲い来る人間たちを罠にはめて、その肉を食べることで生きながらえてきた。
悪党たちがあえて襲ってくるような「立ち入り禁止」の看板を掲げるのも、生きる知恵だ。
むろん、彼らは食べたくて人肉をむさぼっているのではない。
それ以外に生きるすべがないために、仕方なく悪事に手を染めている。

カーネギーとて同じだ。
彼は街のヒーローだ。
確かに人々に恐れられて、コントロールしている。
だが、彼は水のありかを知っている。
本当に「北斗の拳」を思い出してしまうが、水はこの世界では何より大切なものだ。
少なくとも、カーネギーは間違いなく人を救っている。
野心はあったとしても、その事実は揺るがない。

そうした人間たちの心がすさんだ世界を照らし出すのが、聖書であるということだ。
それは、原点回帰と言われても仕方がないが、貫くこのテーゼは見事というほかない。
世界が破壊し尽くされた生き残りであるカーネギーやイーライたちにとって、その偉大さはとてつもないのだろう。

単なる聖書ではなかったことも、またおもしろい。
ここにはトリックがあり、聖書は点字で記されていた。
要するに、イーライは実は盲目だったのだ。
僕が注目していたことの一つは、この大陸はどこなのだ、ということだった。
なぜなら、西へ西へと冒険するにしても、アメリカ大陸なら、30年も旅することはあり得ないからだ。
おそらく人の足なら1年もかからずに歩ききることはできるだろう。
それなのに、アメリカ大陸を30年もさまよっているというのはどういうことだろう、と思っていた。
その答えが、盲目だった、ということなのだ。

確かに、「臭う」といった表現や音が聞こえるといった言動が多かった。
そして、見えているという描写は逆に一切なかった。
それらの伏線により、実はイーライは盲目の牧師であり、西へ西へとさまよいながら、アルカトラズ島にたどり着いたのだという事実へ至る。
燃やされずに一冊だけこの本が残ったのもうなずける。
人々はその本がどんな本なのか、理解できなかったのだ。
だから残った。
そしてイーライがかたくなに本を見せなかったのも、二つの意図があったとわかる。
一つは、聖書を見せずに守り続けること。
もう一つは、自分が盲目であることを悟らせないためだ。

多くの人が「どうせ聖書なんでしょ」と考えていたところへ、実は「座頭市」でした、というミスディレクションは確かにおもしろい。
なぜあんなに銃の扱いが上手かったのか、ちょっと解せないが、まあ、今まで生き残っていたことを考えると、さもありなんだ。

しかし、僕はこの映画に違和感を覚えずには居られない。
もしかしたら、僕がアメリカ人なら、もしくはクリスチャンなら、別だったかも知れない。
だが、残念ながら僕はそのどちらでもない。

違和感が極限に達したのは、アルカトラズ島に到着した時だ。
ザ・ロック」の舞台にもなった元監獄の島は、今や文化の発信源となりつつあった。
僕が違和感を持ったのは、その島の主であるロンバルディ(マルコム・マクダウェル)の様子だ。
ロンバルディが話す内容は、確かに価値あることだった。
けれども、彼には決定的に欠如していることがある。
それが、貧困であり、困窮だ。
島に守られた彼はいかにして物的裕福さを保っているのかはわからないが、ロンバルディにはあの老夫婦のような困窮はない。
もっとはっきり言ってしまえば、彼が聖書に興味を抱けるのは、彼が衣食住に困っていないからに他ならない。

例えば、あの老夫婦に聖書の思想を理解できる感性や教養があったとしても、結局彼らは人肉を食するという選択をとっただろう。
彼らが光を失っているのは、聖書を知らないからではない。
衣食住が足りていないからだ。

なぜそう言えるのか。
一つは、30年前に起こったという戦争の原因が明かされないということがある。
宗教戦争だったというような台詞が劇中にあるが、それならば焚書坑儒も仕方がない。
それならば、聖書で新たに出発しようという発想自体が、「昔に返れ」というノスタルジーにすぎない。
だが、そうではないはずだ。
彼らが求めているのは、水であり食料だ。
カーネギーが英雄であるのも、彼が思想的にすばらしいからではない。
水を持っていたからだ。
聖書を彼は執拗に求めるが、聖書があっても水がなければ彼にカリスマ性は生まれない。

そこに、この映画の視野狭窄がある。

もし、聖書こそがこの世界を救う手立てだ、というのなら、あんな島にのうのうと過ごす爺やが印刷機を回すオチを用意してはいけなかった。
むしろ、そこには30年前に起こった戦争の悲惨さであり、原因を示すべきだった。
そうでなければ、内容のない、単なる布教映画に過ぎなくなってしまう。

一般人が狂う様子を丁寧に描くなら、答えは経済でしかなかったはずだ。
もしくは、水を無尽蔵に生む出す技術書でなければ、人は救えない。
文字も読めない連中が、果たして聖書を手にして狂喜乱舞するだろうか。
あるいはそれで世界は多少は浄化されるかも知れない。
けれども、そこから結局必要になるのは、やはり豊かな土地だ。

少なくとも、映画の世界観を見る限り、核戦争が起こった原因は、パイを奪い合ったということではなかったのか。
そのパイを独占していたのは、キリスト教徒であり、聖書を手にしていた民族だったはずだ。
だからこそ、焚書坑儒にいそしんだのだろう。

勿論、これらは深読みだ。
だが、世界を救う手立ては、やはり戦争の原因がなんだったのか、という究明であり、決して盲目かどうかではなかったはずだ。

きれいに製本された聖書で、どれだけの人間がこれまで苦しんできたのか。
僕はキリスト教を否定する気はない。
だが、この映画は脇が甘すぎるし、安易すぎる。
それは、銃で腹部を撃たれても何故か生きて歩いているイーライの姿に象徴されている。

こんな「奇跡」では、キリスト教徒以外の人間は誰も救済されない。

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