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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

NINE ナイン

2010-04-11 18:34:12 | 映画(な)
評価点:54点/2009年/アメリカ

監督:ロブ・マーシャル

あふれ出す感情が、あまりにもミニマム。

1965年、イタリア出身の映画監督グリド(ダニエル・デイ・ルイス)は、一世を風靡した有名監督だった。
彼が新作を撮影するということで、記者たちは彼に群がった。
プロデューサーとともに開いた記者会見で、具体的な話を一切せずに、彼は撮影現場から逃げ出してしまう。
彼には発表するべき内容をもっていなかった。
制作サイドは脚本を見せろとわめき立てるが、彼には一語たりともアイデアが浮かんでこなかった。
不安に駆られる彼の元に駆けつけたのは、妻のルイザ(マリオン・コティヤール)と、不倫相手のカルラ(ペネロペ・クルス)だった。

映画好きなら、ミュージカルを知らなくてもロブ・マーシャルの名前には聞き覚えがあるはずだ。
そう、あの「シカゴ」でオスカー作品賞をかっさらった、あのロブ・マーシャルである。
記憶に新しいあの興奮が、豪華キャストで帰ってきた。
しかも、フェデリコ・フェリーニの「8 1/2」のリメイクときたもんだ。
誰もが期待するこの作品をどのように見せてくれるのか。
映画館で楽しむべき映画だろうということで、半ば無理矢理に見にいくことにした。

ここからは「シャッターアイランド」「第9地区」「アリス」「グリーン・ゾーン」などなど注目咲くが目白押しなので、このタイミングを逃すと厳しい。
だが、僕はあんまり観るべき映画でもないかな、と思いますが。

▼以下はネタバレあり▼

先にアップしておいた「ライアーゲーム」を観る際にどちらを見にいくか迷って、結局連れの意向で「ライアーゲーム」を観た。
「やっぱりおもしろくなかったじゃん!」と思っていたが、「NINE」を見にいっても大して変わらなかったかも。

冒頭近くの楽曲の中で「プルーストになりたい!」という一節があるが、まさにこの映画はプルーストを思い起こさせる展開である。
もちろん「失われた時を求めて」なんていう名作は僕は読んでいないのだが。

要するに「アダプテーション」などと同じようなメタフィクションを描いた作品である。
例えがあまりにもマイナーなのでわかりにくいが、映画の終幕で映画じたいが完成するという、映画を描くことを描いた作品である。
それは早い段階で誰もが解っただろうし、リメイク前のフェリーニの作品を知っているのなら、観る前からわかっていたことだろう。
この映画の主眼は、結論そのものというよりは、むしろどのように映画を作っていくのか、という過程にある。

全く映画の内容が思い浮かばないグイドは、次々に女のとの交渉を思い出し、その記憶に思いをはせる。
現実からの逃避というよりは、なんとかアイディアを見いだそうと必死だったのだろう。
だが、それでもアイディアは見つからない。
不倫も妻からの呼びかけも、記者からの誘いも、そして母親からの心配も、何も彼を助けてくれるきっかけを与えてくれない。

そこには彼が今までいかに女性を利用し、自分の糧にしてきたかということが赤裸々に語られる。
一人の男と九人の女性という関係は、「8人の女たち」を思い出させる悪徳ぶりである。
だが、アイディアは自分で見いだすしかない。
結局彼は「イタリア」という大それたタイトルから何も生み出すことができずに、その苦悩を描いた「NINE」という映画を制作するに至るのである。

話は単純で、テーマも共感できるところは多い。
だが、この映画はミュージカル映画である。
楽曲を聴くために映画館に足を運ぶ。
楽曲と物語との兼ね合いがすべての映画である。

だが、残念ながらこの映画はその点において失敗しているようにみえた。
一つは「シカゴ」でも批判があった、すべて楽曲を舞台装置上で見せるということだ。
映画でありながら、それでも舞台の演出を見せたいというロブ・マーシャルの意図は理解できる。
しかし、そうすることで溢れる感情の吐露、という印象を受けない。
いくつかはそれでもよかったが、〈今〉、〈ここ〉の感情表出として、舞台へ追いやってしまうと、その場であるというスケール感とインパクトが薄れてしまう。
結果、強い感情を出しているようには思えない。

また、この映画がそもそも劇を書き上げる劇という、入れ子型構造になっている。
にもかかわらず、その感情表現を舞台という劇の中に追いやってしまうと、二重に入れ子型になってしまい、さらにミニマムな印象を受ける。
シカゴ」と違う点は、劇中劇という物語のあり方そのものだ。
だから、どうしても席を立ちたくなるような興奮は得られない。

さらに言えば、踊り手たちは、ほとんど他人と交渉することなく感情を表現する。
だからデュエットなるものはほとんどない。
没交渉のグイドだから仕方がないが、登場人物たちの掛け合いが観られないので、楽曲の幅も小さい。
さらに没交渉であることは、観客側へその感情が流れてこないことを同時に意味する。
よって、僕たちが受ける印象は、スクリーンと観客の間にある明確な区切りである。
感情移入どころか、ますますその壁は厚くなる。

テーマ性はおもしろい。
フェリーニの「8 1/2」は観たいと思う。
だが、その見せ方として舞台上での披露が正しかったかどうか、大いに疑問だ。

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