secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

サイレント・ヒル

2009-07-12 18:18:00 | 映画(さ)
評価点:77点/2006年/カナダ・フランス

監督:クリストフ・ガンズ

ああ、またサイレンが鳴った……。

ローズ(ラダ・ミッチェル)の娘シャロン(ジョデル・フェルランド)は、謎の夢遊病に悩まされていた。
突然意識を失い「サイレントヒル」と言い出すのだ。
薬物投与を続けていたが埒があかないことに焦りを覚えた母親は、娘をサイレントヒルに連れて行くことにした。
しかしサイレントヒルは地下火災が続いており、封鎖されていると地元住人に言われてしまう。
フェンスを破りなんとかサイレントヒルへ向かうが、白バイに制止を求められてしまう。
白バイの抑止を無視しようとすると、いきなり少女が目の前に現れ事故を起こしてしまう。
目覚めるとそこは一面の灰が降るサイレントヒルだった。

バイオ・ハザード」がカプコン目玉のホラーゲームだとすれば、こちらはコナミ・オススメのホラーゲームである。
残念ながら僕はやったことがない。
「バイオ」シリーズが映画として成功しているかしていないのか、よくわからないけれど、ゲームの映画化の流れのひとつであることは間違いないだろう。
ゲーム好きな日本人にとってそれはうれしいことなのだが、映画好きな日本人としては、ハリウッドもそろそろ限界なのか、と危惧する。
(そんなことをもう十年近く危惧している気もするが)

とにかく、「バイオ~」は全く原作無視のダメダメ映画だったことを考えれば、この「サイレントヒル」は映画としてのまとまりが感じられ、ホラー映画として十分体をなしていると言えるだろう。
ホラー映画が好きな人は、きっと面白いと思えるはずだ。
 
▼以下はネタバレあり▼

この映画はよくある「館での密室のオカルト」の変換版だといっていい。
映画の早い段階で、親子が迷い込んだサイレントヒルが、現実のサイレントヒルとは違う世界であることが示されている。
つまり、彼女たちは、「逃げられない」状況へと追い込まれるのだ。

また、日常的な世界からいきなり非日常的な世界への転換は、まさに往来の物語のパターンを示しているといえる。
いわゆる「成長譚」とは違うにしても、気絶という境界を堺に、日常・非日常の往来を果たすのである。

この映画は、真相がわかりにくい。
先にそれから説明してしまおう。

サイレントヒルの町が出来る前、サイレントヒルにはすでに小さな集落ができあがっていた。
彼らは(キリスト教徒から見れば)独特の異教の信仰を持っていた。
夫と離婚したダリア(デボラ・カーラ・アンガー)の娘・アレッサ(ジョデル・フェルランド)は、それをきっかけにいじめられるようになる。
ひとりぼっちになったアレッサは、追い打ちをかけられるように、レイプされてしまう。
穢れてしまったアレッサは、学校の先生でもあり、異教の中心人物でもあったクリスタベラ(アリス・クリーグ)から、魔女とののしられる。
クリスタベラは、ダリアと姉妹でもあった。

ようやくサイレントヒルの町ができあがった後も、信仰と迫害は続き、ついに、魔女は火あぶりにすべきだ、と結論づけられる。
火あぶりを行うとき、誤って火事になり、大勢が死んでしまった。
アレッサはなんとか一命をとりとめ、子どもを産み落とす。
以来、サイレントヒルは、地下火災が絶えない死の町になってしまう。

その子どもがシャロンと名付けられ、孤児院に預けられる。
シャロンを引き取ったのがダ・シルバ夫妻だったのだ。

ここから、世界は二分される。
現実世界のサイレントヒル。
魂のみの世界になってしまったサイレントヒルだ。

現実のサイレントヒルは、今も火災が続く死の町。
問題はこの火災の原因だ。
この火災は、アレッサによるものではない。
クリスタベラが未だに魔女を殺せていないという恐怖と、魔女を殺せなかったから自分たちが死んでしまったのだ、という無念さによるものなのだ。
なぜなら、アレッサは壮絶な火事現場から生き残ったからだ。
ここで、この火災がアレッサの怨念だとすると、つじつまが合わない。
そして、魂のみになってしまったサイレントヒル。
ここは、アレッサとクリスタベラたちとの怨念の世界だ。
クリスタベラはアレッサを殺せなかった未練と、
アレッサはクリスタベラに何とか復讐しようという思いとが、このゆがんだ世界を形成しているのだ。
だから、どちらが正で、どちらが悪だという一方的な解決では「成仏」しないのだ。
彼女たちは、ずっとお互いの魂の尊厳を賭けて、戦い続けているのである。
だから、話がややこしい。

地下火災が止まないのは、クリスタベラがずっと聖域を確保しているということであり、逆にその聖域にはアレッサが浸食できていないということでもあるのだ。

解決策は、アレッサに復讐を遂げさせてやることと、クリスタベラが、実はもう死んでいるのだ、ということを認識させることである。
魔女として扱われていたとはいえ、信仰者でもあったアレッサには、クリスタベラが聖域としている場所には入れない。
そこで、娘であるシャロンとその義母であるローズを呼びよせたのだろう。
シャロンは、現実の娘だとは考えにくい。
30年燃え続けているという歳月と、彼女の年齢がつじつまが合わないからだ。
おそらくアレッサの怨念が作り出した霊のようなものなのだろう。

シャロンを「娘」として選ぶ = シャロンの「母親」であるアレッサ という符号が一致したのかもしれない。
第三者が彼らの均衡を崩さねば、復讐の戦いに幕を下ろせなかったのかもしれない。
とにかく、ローズは彼女たちの復讐劇に飲み込まれてしまうことになる。

よって、ローズはアレッサの復讐を成就させることによって、クリスタベラに「死」を教え、物語は終幕となる。

このあたりの「真相」を終盤ダイレクトに説明しすぎたのは、マイナス点だろう。
夫やそのほかの人物を使って、独白体で真相を語らせるという手法を避けたほうが、雰囲気を保ったまま真相を明かせたのではないだろうか。
終盤、ギャグになってしまったのが残念だ。

そもそもこの映画のみどころは、「意味がわからない」ということだ。
とくにサイレンが鳴り、世界が一変するという演出は、大きな効果を発揮した。
どういう世界なのかさえわからない状況で、意味が全くわからないクリーチャーに襲われる。
しかも、武器も何もない。
それどころか、警察官にかけられた手錠によって手足がきかない。
この状況で一体どうやって逃げろというのだろう。
その絶体絶命感が、たまらなく面白い。
とにかく武装しまくって、バンバン殺しまくるどこかの映画とは、180度違う。

クリーチャーの姿が丸見えで、怖さが半減しているのは確かだが、その存在の不明さが逆に怖さを増強している。

そのサイレンの演出が三回あるということも、非常に大切だ。
昔何かで聞いたことがある。
児童文学において、特定の演出を三回出すことで、期待とその達成により、それによる感情が増幅されるというのだ。
ここで言えば、サイレン → 恐怖という期待が三回起こることで、三回目には、大きな恐怖を味わうことになるのだ。

だからこそ、ラストの教会でのやりとりは、やりすぎた感が大きい。
変に気持ち悪い演出を多用してしまったことによって、逆にギャグ映画のように笑えてしまった。
そのあたりはマイナスとはいえ、全体的な雰囲気は秀逸だった。

また、その雰囲気を支えているのは、主要人物が女性だけだということだ。
すべての宗教は女性が――母の、子どもへの愛が――起源になっているという話をどこかで聞いたことがあるが、まさにその通りだろう。
こういうとき、夫や男の刑事は役に立たないのだ。
白バイにのった警官にしても、渦中に投げ込まれたのが女性ばかりという状況も、ミステリアスさと、「闘う」のではなく、「守る」のだという、映画全体を貫く共通の意志のようなものが生まれたと言える。

さて、ラストで、夫と妻子は別世界で邂逅する。これはどういうことだろうか。
現実世界にいる夫と、魂の世界に迷い込んでしまった妻子とは、まったく次元を異にする世界にいた。
よって、彼女たちは生死でいえば、冒頭の交通事故を起こしてしまった時点で「死」の状態になってしまったのだろう。
あるいは、厳密にいえば行方不明の状態だ。

だから、両者が再び同じ世界で出会うことはない。
30年以上続いた怨念の戦いに終止符を打つために、自らを生け贄としたという言い方さえ出来るだろう。
悲しい結末だが、ホラーとしては上出来の結末だと思う。

(2006/8/14執筆)

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