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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!

2010-07-11 08:17:16 | 映画(あ)
評価点:35点/2010年/日本

監督:本広克行

新しさもなければ、親しみもない。テーマまでない。

青島(織田裕二)は係長に昇進し、部下がつくようになっていた。
彼の最大の任務は、湾岸署の引っ越し。
滞りなく、かつ経費削減を目指し、三日かけて引っ越しを実行していた。
そんな日に、銀行の金庫が破られる事件が発生、またバスジャックも発覚。
現場に駆けつける捜査班だったが、被害は何もなかった。
不審がる青島、恩田すみれ(深津絵里)だったが、新湾岸署にあったはずの拳銃が三丁盗まれる。
当初、隠そうとした署長たちだったが、職員が知る前に何者かがネットに書き込み、明るみになってしまう。
その盗まれた拳銃には、青島、恩田のものも含まれていた。

フジテレビの十八番といえばドラマ制作だが、その中でも織田裕二主演の「踊る大捜査線」シリーズは看板といってもいい。
あるいはフジテレビのアイデンティティとも言えるほど、重要な意味合いをもっている。
もう続編は作らない、というような雰囲気があったが、やはり出してきた。
映画シリーズは三作目となった本作は、前作から7年もの時間が経っている。
基本的に時間軸は現実とそれほど変わらないため、青島たちも7年の時間を経験している設定だ。

「1」を見たとき、全くテレビシリーズを見ていなかった僕は、友人に連れられて映画館で感動したものだ。
」を見たとき、あまりのできの悪さと、非現実的な展開に閉口した。
一抹どころか、ほとんど笑いのネタにはなるだろうという程度の期待と不安を胸に、鑑賞した。

僕がここに何を書こうとも、観に行く人は観に行くだろうし、観に行かない人は観に行かないだろう。
だが、敢えて言おう「カスである」と。

▼以下はネタバレあり▼

「1」にあって「」になかったもの、それはリアリティだった。
現場と本庁との軋轢がきわまって、ついには室井さんは「現場に全て任せる」という指揮放棄を宣言した。
あまりにもリアリティに欠けるその展開に、僕は辟易した。
」にあって「3」にないもの、それはテーマである。

今回の「踊る」は、キャストが一新されたといっても良いくらい、これまでの主要人物が出てこない。
例えば筧さん。
他には水野美紀、あの婦警さんたち、もちろん和久さん。
代わりに、伊藤淳史、小栗旬、内田有紀などなど。
その意味では新たな展開を次につなげるようなキャスティングだったといえる。
これまで時間的なブランクを感じさせるとともに、変化の三作目となっている。

だから、観に行った多くの人が思ったはずだ。
あの人物が出てこない! なぜだ! と。
特にファンだった人物が出てこなかった場合、シリーズものとしては大ダメージだったはずだ。
作り手は三作目にして賭けに出たと言ってもいい。

では、キャストが新しくなって、新鮮さや新たな基軸を見せることが出来たか。
それが全く見えてこない。
究極のマンネリズムで、どこまでも同じようなノリと対立、やりとりが続く。
テレビシリーズの総集編を見ているかのような、今までと全く同じ雰囲気に支配されている。
まるでドリフだ。
確かにそれで満足できるという人もいるかも知れない。
だが、いつまで現場と本店との対立を描くのだろうか。
勿論、今でもその対立は現実にあるのだろう。
だが、映画の中では一作目二作目ときて、お互いの対立が見えてきたところだったはずだ。
それなのに、「現場は黙って引っ越しやってればいいんだ!」という超KY発言が飛び出す蓋然性が感じられない。
また、それに対して「東京オリンピックやるっていってこの署を建てたのにオリンピック来ないじゃないですか」という、全く抗議する相手を間違えた発言まで飛び出す。
おまえらは小学生か! と言いたくなるほど滑稽なやりとりだ。
問題は対立軸そのものにあるのではなく、その対立のあり方に、リアリティを感じられないことにある。
お互いの関係にほとんど進展がないことに、これまでシリーズを追いかけていたものにとっても、徒労感がある。

(そもそもドラマ「ハンチョウ」でもやっていたが、すでにこの本庁と所轄との対立はまだそんなに露骨なのものなのだろうか。
もう少しリアリティあるように撮ってもらわないとどんどん「形式」じみたやりとりに見える。
サスペンス劇場で取り締まりの時にカツ丼を出すくらい当たり前の光景になっていて、そこにドラマ性を感じられない。
そこまでなじみ深いものにしたのは「踊る」シリーズなのだが、映画としてはちょっとマンネリズムが強いよなぁ。)

それを打破するために用意されたポジションが鳥飼(小栗旬)だった。
彼は重要な調整役だったのに、全く立ち位置が見えてこない。
今回は大活躍して、なおかつ新たなヒール役として色を出したかったのだろうが、失敗している。
その一つは、彼の内面が全然見えてこないからだ。
クールに振る舞っているものの、彼がどの程度の権限を与えられているのか、なぜそれほど悪を憎むのか、見えてこない。
恩田すみれや雪乃さんが、観客の心をつかむのは、彼らのトラウマを上手く見せていたからだ。
ただクールな雰囲気だけの男に、観客は短い時間に嫌いにも好きにもなれない。
お互いの立場のせめぎ合いがおもしろかったシリーズだけに、このキャラクターの意味不明っぷりにはついていけない。
お気軽なキャラクターとして登場させたのならまだしも、そうでない主要なキャラに仕立てたいなら、こんな中途半端な描き方はいけなかった。

勿論、彼だけではない。
今回は誰1人として内面をしっかりと描けていた人物がいない。
犯人の圭一も、裏で糸を引いていた小泉今日子も、犯人像が見えてこない。
確かに資料などで説明はされている。
それだけでは不十分だ。
犯人の内面に踏み込まなければ、事件解決のカタルシスが小さく、何より怖くない。
事件にある怖さのようなものがないため、事件解決への緊張感が生まれない。
僕は、ずっとこれからおもしろくなるのだろうと期待しながら見ていたが、結局気づけばエンドロールだった。
今回の「踊る」は、山場がない。
婦女子をターゲットとして「やをい系」を目指すなら問題ないだろうが、これでは映画ではない。

そして何より致命的なのは、所轄の刑事や警察官が捜査しないことだ。
ずっと引っ越ししている。
引っ越している最中に、閉じ込められて、団扇で扇いだり、スカンクから逃げ回ったりしているだけだ。
そんな彼らにあこがれや誇りを感じろと言うことがどだい無理な話だ。
事件に大きいも小さいもない、といいながら、普段の地道な捜査をする職員がいない。
現場と本店との対立がしぼんで見えるのも無理はない。

そこから引き起こされる事件も全然リアリティがない。
日向真奈美(小泉今日子)がソーシャルワーカーをそそのかして、脱獄を図り、衝撃的な自殺を計画する。
いちソーシャルワーカーが、爆弾を作ったり、リスクの高いバスジャックや警察署の侵入を手伝わせる仲間を募ったりする。
さらに、セキュリティのハッキングどころか、セキュリティシステムのマニュアルを本物そっくりに偽造したりする。
いや~、すごい若者がいたものだ。
そこにリアリティを感じろと言うことが無理だ。
リアリティがなければ、社会的な意味合いも少なくなる。
社会的な重さの欠いた「踊る」にどこまで魅力を感じられるか、微妙なところだ。

説得力のない犯人像に、ドラマが冴え渡るはずもない。
織田裕二のますます冴える「俺ってカッコいいだろう?」というスローモーションによる「どや顔」もうんざりだ。
かっこうよくもない、それほど重要でないシークエンスでちょいちょい挿入されると、見ていて腹が立つだけだ。
サンドラ・ブロックか! と突っ込みたくなる。
特にひどいのは、閉じ込められた「仲間」を救うために、杭でがんがん打ち込むシーンだ。
どうしようもない組織の壁に、無謀にも闘いを挑むという象徴としてのシーンだろうが、それがもはや野暮ったい。
僕はあれで壁が破れたらどうしよう、おもしろすぎるやんけ、と期待してしまった。
もしくは、モールス信号でも送っているのだろうかと別の展開を想像した。

その後に続く「もう青島君は長くは生きられないの」という演説に閉口する。
今回の映画はこの一連のシークエンスに全て端的に表れているような気がする。
早い段階で、いや、医者が呼び出しているという話が出た時点で、その後の展開は読めるようになっている。
「肺に影がある」という誰もがわかる勘違い(嘘)を物語終盤まで引っ張る。
その事実を聞かされてへこんでいる青島は、滑稽でしかなく、どんなに迫真の演技でそれを示しても「結局嘘」でしかない。
だから、そこからの物語は茶番であり、全く感情移入できない。
お約束どおり、勘違いということが示されて、そのことをさも感動的にすみれが演説したところで、どこに感動できる要素があるだろうか。
嘘だと言うことを知りながら、その迫真の演技を見せられても、こちらは苦痛以外に何も感じることはできない。

どれだけお祭り騒ぎ、テロ騒動を見せても、それは結局「嘘」なのだ。
そこに真実を追究しようとする態度はないし、エンターテイメントとして人を巻き込もうとする危害もない。
その作り手の態度は、お気軽に、安直に、観客動員数を稼げればいい、という薄っぺらい金儲け主義でしかない。

映画を普段見ない人も、こういう映画だけは劇場で、という人は多い。
大作、話題作と言われる作品にはそういった単館上映作品にはない社会的な役割が存在すると思う。
おもしろい映画を見せることで、観客や視聴者を引き上げるという責務だ。
よりおもしろいもの、より確かなもの、より善いものを提供することで、映画界だけではなく、社会的な役割を果たすべきだ。
お金儲けはもちろんすればいい。
だが、作り手としての誇りを見せることで、もっとおもしろいものを君たちは求めなさい、というメッセージを出せる機会でもある。

「2」は正直失敗作だった
だが、冒険はしていた。
メッセージ性もあれば、テーマ性もあった。
それが幼稚な発想だったので、ただリアリティがなかっただけだ。
この三作目は、それすらもない。

観客をなめるのもいい加減にしろ。
フジテレビとしてのメディアのあり方、作り手としてのあり方といった、アイデンティティそのものを疑われる作品と言えるだろう。

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