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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

天空の城ラピュタ(V)

2008-12-23 09:33:15 | 映画(た)
評価点:84点/1986年/日本

監督・原作・脚本・ほか:宮崎駿

誰もが知っている物語をもう一度問い直そう。

ある日、工場で働くパズー(声:田中真弓)の元に、女の子が降ってくる。
不思議なことに、その少女シータ(声:横沢啓子)は、ゆっくりと降りてきた。
シータは、「飛行石」と呼ばれる石を持っているため、海賊と、謎の男達に追われていた。
男達から何とか逃がそうとしたパズーだったが、シータは捕らえられてしまう。
気を落として家に帰ったパズーを待っていたのは、海賊達だった。
シータを取り戻したいパズーは、海賊達と手を組む事にする。

ストーリーを書く必要もないほど有名なアニメ作品である。
今でもテレビで放映すると、ある程度の視聴率を稼ぎ出すということから考えても、国民的人気の高さが伺える。
僕にとっても非常に大きな影響力をもっている映画でもある。
ストーリーはもちろん、台詞も殆んど覚えているのに、文章として文字化するのに長い時間がかかったのはそのためだ。

▼以下はネタバレあり▼

この物語はいろんな角度から語ることが可能である。
冒険の物語、未知との遭遇、あるいは科学技術への警鐘……僕は、この物語を「父親の克服」の物語として考えてみたい。

この物語は、単純にいえば往来(往還)の物語である。
「浦島太郎」型あるいは、「赤ずきん」型の話である。
主人公があるところから違う世界に出掛ける。
そしてまた、こちら側に戻ってくる。非常に使い古された展開であると言える。

それでは行って帰ってきて、主人公にどんな変化があったのだろう。
変化は、「パズーの成長」ではない。
なぜなら、パズーは、自身の存在を問い直したり、葛藤に陥ったりという「迷い」はないからである。
むしろ、一番大きな変化は「父親の克服」である。

パズーに父親はいない。
父親は冒険家で「ラピュタを見た」と言ったため、うそつき扱いされて死んでしまっている。
パズーは「いつか父さんの見たラピュタを見つけるんだ」と眼を輝かせてシータに話す。
その姿を見る限り、パズーは父親と対立するような関係ではない。
しかし、それは父親がパズーにとっての呪縛であることと、殆んど同じである。

パズーは、父親が嘘つきであるということで、周りから白い目で見られていたという裏のプロットを読み取ることができる。
一般的に言って、嘘つき呼ばわりされる中で死んだ父親の息子が、社会に溶け込むことは非常に難しい。
要するに、パズーは父親を愛しているものの、父親の名誉回復をしなければ、自分という存在を開放してやることが出来ないのである。
それには、ラピュタが存在することを証明するしかない。

シータも同じである。
シータにとっての「父親」とは、ラピュタ一族の血筋であり、ムスカである。
シータにとって飛行石は、便利な道具ではない。
ラピュタ一族に繋ぎとめられているという呪縛の象徴に他ならない。

滅びの呪文を唱えることで、シータは初めてその呪縛から解き放たれるのである。
それは正に父親の克服なのである。
ムスカが婚姻を要求するが、シータはそれを受け入れることができない。
当たり前である。
シータにとって、ムスカは「父親」と同義なのだ。
シータにとって、対等でない擁護されるだけの存在であるムスカと結婚することは、自己をさらに呪縛のしがらみへと向かわせるだけである。

ラスト、ゆっくりと地上へパズーとシータが、すがすがしい表情をしている理由は、まさにそこにある。
二人は、それぞれの「父親」という存在を克服したのである。

この物語によって、パズーとシータが大人になったというのではない。
あくまで父親の克服でしかない。
先ほども言ったように、彼らは全く葛藤しない。
二人は、その純真さでムスカの野望と戦うが、その純真さが正しいかどうか、という視点は獲得しないで、
ムスカを打ち砕いてしまうのだ。
言い方を換えれば、子どもの純真さだけで打ち勝ってしまうのである。
子どもらしい純真なエネルギーで、大人のエゴを否定するだけである。
そこに大人への成長があるはずもない。

そもそも、この映画の中の人物は、どれも一面しか持ち合わせていない。
良いか悪いか、という二色しかない。
海賊たちのように、一見悪そうに見えて根は良い人、という人物はいる。
しかし、一人の人物が悪から善、善から悪へという変化は見せない。
勧善懲悪に支配された葛藤のない人物ばかりである。
人物形象は、すべて「人間」ではなく、アニメ的な「キャラクター」にすぎない。
そんな一色の「キャラクター」に支配された世界に住む主人公に、大人への成長はあるわけがない。
あるのは、その手前、父親の克服、あるいは自己の確立なのである。

ここに「天空の城ラピュタ」の限界性が見える。

確かに面白い。
僕にとっても大切な作品である。
世界観、細かい画、ユーモア溢れるキャラクター達、それまでのアニメにはなかった音へのこだわり、などなど、非常に魅力ある映画に仕上がっている。
しかし、「アニメ」としての限界性を超えていない。
勧善懲悪に支配された世界は、出来の良い童話にすぎないのである。

科学と自然というギリギリのせめぎあいはない。
科学はただ、悪としてしか描かれていない。
だから「科学の否定」があったとしても、科学の発展への警鐘は、重みはなく形だけにすぎない。

葛藤というのならば、「風の谷のナウシカ」のほうが遥かにきちんと描かれている。
だから「ナウシカ」は物語に重みがある。

逆にそこが今でもなお人々をひきつけてやまない点でもある。
葛藤のない完全自己肯定の物語であり、自身を束縛するものからの開放をテーマにしたこの映画は、大人にとっても、子どもにとっても、心をつかんで離さない。
もちろん、僕もその一人である。

(2004/9/30執筆)

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