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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ドラゴンボール エボリューション

2009-03-25 22:22:06 | 映画(た)
評価点:31点/2009年/アメリカ

監督:ジェームズ・ウォン

喩えるなら、ただのまずいカレー。

ハイスクールに通う悟空(ジャスティン・チャットウィン)は、師匠の悟飯に拾われて格闘家として育てられた。
ある日、同級生からからかわれることに堪忍袋の緒が切れた悟空は、一泡吹かせてしまう。
誘われたパーティーの日は悟空が18歳の誕生日だった。
いやな予感がした悟空は家に帰ると、悟飯が瀕死の状態だった。
ピッコロ大魔王というかつての支配者が、復活したのだと告げられる。
ピッコロを封じ込めるためには、武天老師(チョウ・ユンファ)と呼ばれる人を探すように支持される。
お守りであり形見となったドラゴンボールを手に、悟空は旅立つのだが…。

待ってました、いよいよ公開の実写版ドラゴンボール。
映画化されるという吉報を聞いた誰もが、耳を疑ったことは疑いない。
キャストが発表されるたびに、もはやドラゴンボールとはどんな物語だったのか、自分の記憶の方がおかしかっただろうかと思う始末だ。
欧米人が悟空を演じ、あのエイミー・ロッサム(「オペラ座の怪人」など)がぱふぱふのブルマで登場し、ピッコロ役間違いなしだと思われたイタリアのサッカー主審コリーナさんはノミネートされず。
果たしてどんな映画になるのか、誰もが不安しか抱かないという状況になっていた。

こうなったら映画好きの僕たちには、この映画を見てコケにするしか道は残されていない。
「なんでそんな映画見に行くの?」と白い目で見られようとも、そこは鉄の意志で決行した。
喩えるなら、カレーに甘納豆をぶち込むがごとき所業に、誰もが「まずいだろうけれど、どんな味がするのか楽しみだ」と思いながら口にするのと同じ心境だ。
意外においしいかもしれない、まずくても、それはそれでおもしろいかもしれないと思いつつ、映画館に突入していった。

▼以下はネタバレあり▼

結果は、意外に、どころか、全く持って「ただのまずいカレー」だった。
予想はされたことだが、まさかここまで「まずいカレー」だとは思わなかった。
少なくとも、鳥山明は無理でも原作ファンの日本人に企画の段階で関わっていてほしかったと悔やまれてならない。
ドラゴンボールの良さを、1%も醸し出していない本作に、「ドラゴンボール」を語る資格はない。

そもそも、原作「ドラゴンボール」は、「父殺しの物語」であったことは、すでに書いた
気になる人は、コラム「ドラゴンボールはどんな物語か」をお読みください。
「ドラゴンボール」の魅力は、もちろん父殺しの物語、というテーマ性を抜きにしても、随所に発揮されていた。
一つは、ネーミングのシュールさ。
ブルマ、ヤムチャ、プーアル、ウーロン、ピッコロなどなど、あげればキリがないほどにシュールな世界観を演出するための「脱力系ネーミング」が笑いを誘った。
それを英語で「Chi chi」とか発音されても、全く表現できていない。
せめて牛魔王が出てこないと、「Chi chi」である理由がない。
欧米人丸出しの青年が「Goku」とか呼ばれていても、違和感しかない。

技のネーミングも同じだ。
なぜ「かめはめ波」なのか、という点を理解していない。
せめてアロハシャツを着た「亀仙人」のキャラクターを丁寧に描いて、「カメハメハ大王」とかけていることをとらえられるようにしてほしかった。
そうでなければ、カッコよさよりも、恥ずかしさの方が目立って仕方がない。

シュールさは、ギャグにも表れている。
武天老死と呼ばれているにもかかわらず、エロいとか、ヤムチャの女の子好きの不自然さとか、そういった少年誌らしからぬおもしろさは完全に見られない。
ネーミングにしても、そこに魅力があるのに、機微が全く理解できていないので、大味な世界観に終始している。

また、「ドラゴンボール」は、冒険譚であり、成長譚である。
冒険はスケールの小さな話からいつしか世界全体を救うという大きな話になっていくから、おもしろいし、そのスケール感を覚えるのだ。
いきなり大きな話にしてしまった時点で、空々しい、説得力のない荒唐無稽な話になってしまう。
話を急ぎすぎたために、成長というファクターも捨象されている。
悟空は負けない。
ピッコロにさえ、負けることがない。
よって、ピッコロの凶悪さもさることながら、倒したときのカタルシスにも欠けてしまう。
かつてジャンプが掲げていた友情、努力、勝利という方程式を体現していたのは「ドラゴンボール」だった。
そこに、この漫画のおもしろさがあったはずなのに、完全に無視されている。

以上のような「ドラゴンボール」にあった魅力を1%も描ききれなかった本作は、もはや「ドラゴンボール」と冠するに値しない、なんでもない映画になってしまっている。
はっきりいえば、別に「ドラゴンボール」でなくてよかったのだ。
キャラクターの名前を変えてしまえば、全く何の話かわからなくなっている。
これで本当に観客は満足すると思っているのか。

とはいえ、文化圏の違う制作の環境を考えると、それを単純比較しても始まらないのかもしれない。
僕が求めていたのは、漫画の魅力を100%出し切った実写化ではなく、映画として楽しめるか、ということだった。
だが、ひどいのは、「ドラゴンボール」の実写化という次元でとどまらない。
映画としても全然おもしろくない。
奇をてらった作品でもなく、「ただのまずい」カレーと称したのはそのためだ。

一つには、キャラクターが全く不透明なまま物語が進行するということだ。
現代の印象を残しながら、具体的な時間、場所を設定されないために、世界観が曖昧になっている。
さらにそこにいる登場人物たちは、どんな役割を担って、どんな性格を背負っているのかが曖昧だ。
世界観が現実でないなら、少なくとも人物については丁寧に描いておかなければ、感情移入する余地がない。
しかも、原作の内容を完全に再現したという人物造形でもないのだから、この映画の悟空がどんな人物なのか、もっと丁寧に描くべきだった。
チチにしても、ブルマにしても、亀仙人にしても、ピッコロにしても、ほとんど説明がない。
特にピッコロがどうして復活したのか、その手下のマイはなぜ僕として働いているのか、なぜ不細工なのに、胸ばかり強調するのか、説明不足だ。
だからハテナマークがずっと出ている状態でクライマックスまで迎えてしまう。

それにしてもヤムチャ役の役者(ジューン・パーク)のミスマッチ度は計り知れない。
キスしそうになって、できなかったのは、エイミー・ロッサムが断固拒否したからだと思うのは僕だけだろうか。
ヤムチャ(飲茶)と呼ばれる若者が、明らかに不細工な韓国人で、もはや中国でも日本でもないテキトーなアジア人が配役されていることに、この映画の意気込みを感じる。

だが、それも仕方がないのかもしれない。
この映画の本質的な問題は、テーマがないことなのだから。
何を描きたかったのか、何をメッセージとして打ち出したいのか、全く見えてこない。
だからそれにまとわりつく要素も曖昧になり、説明できるシーンがなくなっている。

確かに、原作にあった様々な小道具は効かされている。
ホイポイカプセルや、大猿と悟空との関係、天下一武道会、亀仙人のポルノ好き、などなど、原作を全く知らない人が作ったのではないことは理解できる。
ピッコロとの戦いをメインにするために大幅な脚色がされているが、筋じたいはそれほど違和感もなかった。

だが、それらは柱となるテーマがしっかりしていてこそ、生きてくるものだ。
「映画」を作りたいのではないなら、映画を世に出すな、と言いたい。
アメリカの映画業界が低迷だからといって名作をスポイルすることは許されないはずだ。
同じ予算で、僕が作った方が、絶対にいいものができただろう。
それは僕がすごいといいたいのではない。
この映画があまりにもひどいのだ。

鳥山明には同情しか思い浮かべられない。

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