評価点:87点/2017年/アメリカ/115分
監督・脚本:マーティン・マクドナー
完成度が高い故に、嫌な映画だ。
ミズーリ州の田舎町。
ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、地元の広告代理店を訪れて看板の設置を依頼した。
地元警官が通りかかったとき、その看板を見て驚いた。
その広告は、7ヶ月前にレイプされて殺された少女の捜査が進まないことを非難するものだった。
ミルドレッドはその母親であり、警察署署長を名指ししたことが田舎町に広がり動揺していた。
しかし、その署長ウィロビー(ウディ・ハレルソン)は癌に冒され厳しい状況にあった。
アカデミー賞作品賞の呼び声が高いというクライムサスペンスだ。
監督は劇作家でもあるマーティン・マクドナー。
花があるようなキャスティングではないが、実力派たちがそろっている。
問題なく世界観に入り込むことができるだろう。
私はまったく予備知識無しで、「スリービルボード」の意味さえ知らずに映画館に飛び込んだ。
ネタバレされてしまうと面白み、緊張感がなくなってしまう。
ぜひ何も知らずに見て欲しい。
▼以下はネタバレあり▼
映画を見終わったとき、しばらく動けなかった。
こういう気持ちにさせられるのは、なかなか珍しい。
この映画を言葉にすることはそれほど難しいことではないだろう。
けれども、そのときふと頭によぎったのは、中学3年生のときに、国語の先生が魯迅の「故郷」を教えてくれたときの、言葉だ。
「こんなこというと、全くこの作品の面白みがなくなってしまうから嫌だけど、授業なので言っておきますね。
この作品に流れているのは、〈差別〉ですね。……」
「故郷」の話は全く覚えていないのだが、なぜだかこの言葉だけが私を捉えていた。
それは、いくつかの映画を観たときに感じる、それと同じだったからだ。
言葉にして、抽象化して、一般化してしまうと面白みを失ってしまう映画や物語がある。
この映画も、書けば書くことはできるだろうが、書いてしまうとそこにある重みや悲しみは薄らいでしまうだろう。
だから、むしろこの映画を楽しむには、語らないほうがいい。
書いてしまった瞬間、魅力は失われてしまうかもしれない。
その怖さをもって、敢えて書いていく。
私は観ながら、どうしても自分が親であることを離れることができなかった。
自分ならどうするだろう、と。
自分の子どもが同じように、無残な姿で発見され、その解決が一向に見なかったとしたら。
私はそのとき自分が保てるか、まったく想像できない。
だから、私はこのミルドレッドが的外れな行動をとっているようには映らなかった。
親であることのバイアスがかかっていることはご容赦いただきたい。
ミルドレッドはレイプされて殺された娘の事件をなんとか解決させるために、個人ができる一手を打つ。
それは、町外れの看板に意見広告を打ち上げることだった。
そうすることで、人々は嫌でもこの事件を思い出し、メディアに取り上げられれば何らかの進展があるように感じたのだ。
彼女がそこまでするのには、訳がある。
南部の田舎の無能な警察官に、捜査を任せられない。
何としてでも、犯人を捕まえたい。
それだけが、彼女の今を支えている。
なぜか。
犯人を捕まえることで、憎む対象を見つけ、娘が死んでしまった理由を確定させたいからだ。
彼女は気づいている。
「自分が娘を追い込んだことで、事件が起こってしまったのではないか。」
「あのとき自分が、娘に優しくする余裕があれば、事件がなかったのではないか。」
「あの事件は自分のせいなのではないか。」
だからはらはらと涙を流すことはできない。
涙が流せないのは、彼女の弱さだ。
もちろん、ミルドレッドのせいで事件が起こったのではない。
だが、当事者の親は、そう思わざるを得ないのだ。
周囲に辛く当たり、しかめっ面をしているのも、そのためだ。
そのことを認めてしまうと、もう、彼女は生きていけないからだ。
彼女は良い母親ではなかった。
テレビで出てくるような、被害者の家族、という非の打ち所のない人間ではない。
だから、せめて憎む対象が必要だ。
しかし、捜査は一向に進まない。
だから、憎む相手を、警察にスライドさせるしかない。
悲しいが、人間はそれほど正しいことばかりを選択できるわけではない。
その一番の理解者は、おそらく署長のウィロビーだ。
彼は娘を愛し、娘のようにミルドレッドの娘を悼んでいた。
だから、なんとしてでも犯人を挙げたかった。
だが、南部の街ではそんなに簡単に捜査は進まない。
部下を大事にしたい気持ちもある。
牧歌的な街に愛された署長は、難事件を解決できるほど予算も人脈もない。
レイプ殺人を捜査する一方で、自分に襲う病魔は確実に進んでいく。
助けるべき相手に、吐血を浴びせてしまった彼は、その責任を全うすることも、家族を守る義務を果たすこともできないと悟る。
ある意味で最もミルドレッドを理解していたウィロビー署長が自殺するのは必然的だ。
この映画に強者はだれもいない。
万能な人も、きれい事を貫ける者も、ヒーローも、善人すらいない。
しかし、真っ当でない生き方は、だからこそ人間なのだ。
物語は当然明かされるべき「真犯人」を描ききらずに終わる。
非常に据わりの悪い、しかしこの終わり方しかない終わり方で終幕する。
物語のテーマは何だったのだろう。
それを解く手がかりは、もう一人の主人公とも言えるディクソンを考えることで見えてくる。
ディクソンは愚直で、物事をうまく捉えることができない典型的な田舎警官だ。
直情的で、しかし義理堅く、多くのことを同時に理解したり処理したりすることはできない。
黒人は悪だと決めつければ、その色眼鏡を外すことなんてできない。
それは母親の影響もあるだろう、女性を愛せないという負い目からくるものかもしれない。
ミルドレッドがどうしようもない母親として周囲に有名であると同時に、彼もまたどうしようもない警官であることが周囲は理解している。
だから署長が自殺したとき、その理由がビルボードであると理解し、広告代理店の責任者に暴行してしまう。
それは彼にとって象徴的な出来事であり、なんら不自然なことではない。
尊敬するウィロビーを死に追いやった、その広告を出させた男を許して良いはずがない。
それは、レイプされた娘の事件を一向に捜査しない(ようにみえる)警察を非難する母親とほとんど同じだ。
しかし、その真意を署長から明かされたとき、彼は「奪われたから奪い返す」という論理の不毛さを知る。
また、「耐えて悪をくじく」警官の本懐を知る。
半後殺しにした相手にもらったオレンジジュースを飲みながら、彼は復讐よりも使命を全うすることに目覚める。
だが、目星を付けた相手が、真犯人でないことを告げられるとはじめてそこで、ミルドレッドがどのような思いをしてあの看板を出していたのかを知る。
憎むべき相手がいないことの悔しさ、悲しさ、いやそれは恐怖ですらある。
ウィロビーの敵でもある真犯人を挙げることに全力を傾けていたのに、それを見失ったとき、はじめて「復讐する相手が必要である」意味を理解するのだ。
だから、ミルドレッドに電話し、彼女とともに「許されざる者への復讐」を果たそうとする。
一方、息子と元亭主から母親としての自分を見つめ直すきっかけを与えられたミルドレッドは、デートした理解者からも「しかめっ面女」としてきされる。
そのことで、彼女は自分の怒りの鉾先が、どこに向いているのかを考えさせられていく。
あのとき歩いて行け、と言ってしまった自分か。
娘の年と変わらない女を愛してしまった亭主か。
いつまで経っても捜査を進展させられない警察署か。
娘を殺した真犯人か。
彼女はディクソンとともに復讐の車で、はじめて自分の罪の告白をする。
自分が焼いてしまった相手に対して、謝罪したのと同じだ。
いや、後悔の言葉と言っても良い。
そしてディクソンもまた、はじめて「赦しの言葉」を述べる。
「他にだれが警察署なんて焼くやつがいるか」
二人は既に、問題の本質が「アンジェラ殺害事件」ではないことを知っている。
許せなかったのは誰か、その答えを出して、物語は終幕するのだ。
これ以上ない、終わり方だ。
最も愛しているものを奪われたとき、けがされたとき、許せるだろうか。
許すこと、自分と向き合うこと。
この映画を観ていて、物語がどういう展開に転んでいくのか片時も目が離せなかった。
それは人物が映画の中で迷っている、逡巡しているからだろう。
予想がつかない展開まで、人物を描きながら、それでいて終わった瞬間「これ以上ない、終わり方」だと感じさせる脚本と演出。
二度も三度も見たいとは思わないけれど、良い映画だ。
監督・脚本:マーティン・マクドナー
完成度が高い故に、嫌な映画だ。
ミズーリ州の田舎町。
ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、地元の広告代理店を訪れて看板の設置を依頼した。
地元警官が通りかかったとき、その看板を見て驚いた。
その広告は、7ヶ月前にレイプされて殺された少女の捜査が進まないことを非難するものだった。
ミルドレッドはその母親であり、警察署署長を名指ししたことが田舎町に広がり動揺していた。
しかし、その署長ウィロビー(ウディ・ハレルソン)は癌に冒され厳しい状況にあった。
アカデミー賞作品賞の呼び声が高いというクライムサスペンスだ。
監督は劇作家でもあるマーティン・マクドナー。
花があるようなキャスティングではないが、実力派たちがそろっている。
問題なく世界観に入り込むことができるだろう。
私はまったく予備知識無しで、「スリービルボード」の意味さえ知らずに映画館に飛び込んだ。
ネタバレされてしまうと面白み、緊張感がなくなってしまう。
ぜひ何も知らずに見て欲しい。
▼以下はネタバレあり▼
映画を見終わったとき、しばらく動けなかった。
こういう気持ちにさせられるのは、なかなか珍しい。
この映画を言葉にすることはそれほど難しいことではないだろう。
けれども、そのときふと頭によぎったのは、中学3年生のときに、国語の先生が魯迅の「故郷」を教えてくれたときの、言葉だ。
「こんなこというと、全くこの作品の面白みがなくなってしまうから嫌だけど、授業なので言っておきますね。
この作品に流れているのは、〈差別〉ですね。……」
「故郷」の話は全く覚えていないのだが、なぜだかこの言葉だけが私を捉えていた。
それは、いくつかの映画を観たときに感じる、それと同じだったからだ。
言葉にして、抽象化して、一般化してしまうと面白みを失ってしまう映画や物語がある。
この映画も、書けば書くことはできるだろうが、書いてしまうとそこにある重みや悲しみは薄らいでしまうだろう。
だから、むしろこの映画を楽しむには、語らないほうがいい。
書いてしまった瞬間、魅力は失われてしまうかもしれない。
その怖さをもって、敢えて書いていく。
私は観ながら、どうしても自分が親であることを離れることができなかった。
自分ならどうするだろう、と。
自分の子どもが同じように、無残な姿で発見され、その解決が一向に見なかったとしたら。
私はそのとき自分が保てるか、まったく想像できない。
だから、私はこのミルドレッドが的外れな行動をとっているようには映らなかった。
親であることのバイアスがかかっていることはご容赦いただきたい。
ミルドレッドはレイプされて殺された娘の事件をなんとか解決させるために、個人ができる一手を打つ。
それは、町外れの看板に意見広告を打ち上げることだった。
そうすることで、人々は嫌でもこの事件を思い出し、メディアに取り上げられれば何らかの進展があるように感じたのだ。
彼女がそこまでするのには、訳がある。
南部の田舎の無能な警察官に、捜査を任せられない。
何としてでも、犯人を捕まえたい。
それだけが、彼女の今を支えている。
なぜか。
犯人を捕まえることで、憎む対象を見つけ、娘が死んでしまった理由を確定させたいからだ。
彼女は気づいている。
「自分が娘を追い込んだことで、事件が起こってしまったのではないか。」
「あのとき自分が、娘に優しくする余裕があれば、事件がなかったのではないか。」
「あの事件は自分のせいなのではないか。」
だからはらはらと涙を流すことはできない。
涙が流せないのは、彼女の弱さだ。
もちろん、ミルドレッドのせいで事件が起こったのではない。
だが、当事者の親は、そう思わざるを得ないのだ。
周囲に辛く当たり、しかめっ面をしているのも、そのためだ。
そのことを認めてしまうと、もう、彼女は生きていけないからだ。
彼女は良い母親ではなかった。
テレビで出てくるような、被害者の家族、という非の打ち所のない人間ではない。
だから、せめて憎む対象が必要だ。
しかし、捜査は一向に進まない。
だから、憎む相手を、警察にスライドさせるしかない。
悲しいが、人間はそれほど正しいことばかりを選択できるわけではない。
その一番の理解者は、おそらく署長のウィロビーだ。
彼は娘を愛し、娘のようにミルドレッドの娘を悼んでいた。
だから、なんとしてでも犯人を挙げたかった。
だが、南部の街ではそんなに簡単に捜査は進まない。
部下を大事にしたい気持ちもある。
牧歌的な街に愛された署長は、難事件を解決できるほど予算も人脈もない。
レイプ殺人を捜査する一方で、自分に襲う病魔は確実に進んでいく。
助けるべき相手に、吐血を浴びせてしまった彼は、その責任を全うすることも、家族を守る義務を果たすこともできないと悟る。
ある意味で最もミルドレッドを理解していたウィロビー署長が自殺するのは必然的だ。
この映画に強者はだれもいない。
万能な人も、きれい事を貫ける者も、ヒーローも、善人すらいない。
しかし、真っ当でない生き方は、だからこそ人間なのだ。
物語は当然明かされるべき「真犯人」を描ききらずに終わる。
非常に据わりの悪い、しかしこの終わり方しかない終わり方で終幕する。
物語のテーマは何だったのだろう。
それを解く手がかりは、もう一人の主人公とも言えるディクソンを考えることで見えてくる。
ディクソンは愚直で、物事をうまく捉えることができない典型的な田舎警官だ。
直情的で、しかし義理堅く、多くのことを同時に理解したり処理したりすることはできない。
黒人は悪だと決めつければ、その色眼鏡を外すことなんてできない。
それは母親の影響もあるだろう、女性を愛せないという負い目からくるものかもしれない。
ミルドレッドがどうしようもない母親として周囲に有名であると同時に、彼もまたどうしようもない警官であることが周囲は理解している。
だから署長が自殺したとき、その理由がビルボードであると理解し、広告代理店の責任者に暴行してしまう。
それは彼にとって象徴的な出来事であり、なんら不自然なことではない。
尊敬するウィロビーを死に追いやった、その広告を出させた男を許して良いはずがない。
それは、レイプされた娘の事件を一向に捜査しない(ようにみえる)警察を非難する母親とほとんど同じだ。
しかし、その真意を署長から明かされたとき、彼は「奪われたから奪い返す」という論理の不毛さを知る。
また、「耐えて悪をくじく」警官の本懐を知る。
半後殺しにした相手にもらったオレンジジュースを飲みながら、彼は復讐よりも使命を全うすることに目覚める。
だが、目星を付けた相手が、真犯人でないことを告げられるとはじめてそこで、ミルドレッドがどのような思いをしてあの看板を出していたのかを知る。
憎むべき相手がいないことの悔しさ、悲しさ、いやそれは恐怖ですらある。
ウィロビーの敵でもある真犯人を挙げることに全力を傾けていたのに、それを見失ったとき、はじめて「復讐する相手が必要である」意味を理解するのだ。
だから、ミルドレッドに電話し、彼女とともに「許されざる者への復讐」を果たそうとする。
一方、息子と元亭主から母親としての自分を見つめ直すきっかけを与えられたミルドレッドは、デートした理解者からも「しかめっ面女」としてきされる。
そのことで、彼女は自分の怒りの鉾先が、どこに向いているのかを考えさせられていく。
あのとき歩いて行け、と言ってしまった自分か。
娘の年と変わらない女を愛してしまった亭主か。
いつまで経っても捜査を進展させられない警察署か。
娘を殺した真犯人か。
彼女はディクソンとともに復讐の車で、はじめて自分の罪の告白をする。
自分が焼いてしまった相手に対して、謝罪したのと同じだ。
いや、後悔の言葉と言っても良い。
そしてディクソンもまた、はじめて「赦しの言葉」を述べる。
「他にだれが警察署なんて焼くやつがいるか」
二人は既に、問題の本質が「アンジェラ殺害事件」ではないことを知っている。
許せなかったのは誰か、その答えを出して、物語は終幕するのだ。
これ以上ない、終わり方だ。
最も愛しているものを奪われたとき、けがされたとき、許せるだろうか。
許すこと、自分と向き合うこと。
この映画を観ていて、物語がどういう展開に転んでいくのか片時も目が離せなかった。
それは人物が映画の中で迷っている、逡巡しているからだろう。
予想がつかない展開まで、人物を描きながら、それでいて終わった瞬間「これ以上ない、終わり方」だと感じさせる脚本と演出。
二度も三度も見たいとは思わないけれど、良い映画だ。