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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

映画業界はこれからどうなっていくのか。

2010-10-28 22:57:06 | 不定期コラム
映画業界はネットの影響によって危機的な状況にある。
そうアイルランドの監督ニール・ジョーダンが語ったというニュースを書き込みいただいた。
ロイター通信のその記事によれば、映画制作に携わる者はみな、生き残りをかけて必死になっているという話だ。

確かに映画業界は、ここ十年の間に劇的にその環境が変化した。
一つはネット配信によって映像を楽しむという行為そのものが、映画館という箱を要求しなくなったということだ。
著作権の問題も当然ある。
著作権の問題が切実なのは、「アバター」をはじめとする超大作と呼ばれる映画が、次々と「3D」化していることに端的に表れている。
単純な撮影では録画できないというのと同時に、3D化することで、映画館でしか味わえない魅力を打ち出そうとしているのだ。

もう一つは、そうした技術的な変化とともに、人が「個人でいる」ことを望んでいるからだろうという気がする。
先日、職場で話をしていて、僕はこんなことを言った。
「電車の中であれほど人を意識しないでヘッドフォンをして音楽を聴いて、ゲームをしている光景は異常ではないか」
すると、こんな反論が返ってきた。
「むしろ逆で、あれだけ生活環境が違う人間たちが一所に集められていることに違和感を持つからこそ、他人をシャットアウトしているのではないか」
僕は意外に思ったが、確かにその通りなのだ。
きっと、人はあまりに赤の他人と一緒にいる空間や時間が多すぎる。
コミュニケーションがグローバル化しているからこそ、人はローカル化してその過剰を補おうとしている。
まるで素の自分自身を守るかのように。

映画館という公的な場を人はもはや望んでいない。
「映画って楽しいな、みんなで笑えば楽しさ100倍」なんていう歌もあるけれども、それでも一人だけの空間でそれを楽しむことができるなら、きっとそちらを選びたいのだ。

その意味で、アイルランド監督の話は抜き差しならない問題としてあるのだろう。
映画という業界を取り巻く変化は、劇的で決定的であるようだ。

だけれども、僕はそういう考え方はすでに時代遅れであるように感じる。
すでに環境の変化は起こってしまった。
それをとどめることはできない。
嘆いていても、仕方がない。
多くの場合、そういう変化に対して憂いを述べるのは、既得権益を守りたい人間たちだ。

すでにipadは出てしまった。
もはやそれをどうこうすることはできない。
これまで作家の利益をむさぼっていた出版業界は、もしかすると倒産するところも出てくるかもしれない。
けれども、それで人が書きたい、物語を綴りたいという欲求を押しとどめることはできないだろう。
もちろん、逆に読みたいという欲求においても同じだ。
良いものを読みたいという欲求は、メディア性を超えていくはずだ。
どんな形態であれ、おもしろい作品を求める気持ちは、とどめようがない。
それが、電子配信であろうと、紙媒体であろうと、関係がない。

映画についても同じ事が言える。
これまで売れていた作品は、同じように一定の需要があるはずだ。
映画業界を取り巻く事情が変化したところで、「ナイト・アンド・デイ」のようなエンターテイメント作品を人々はどこかで求めている。
だからなくならないだろう。
もちろん、規模は縮小されていくかもしれない。
けれども、それがイコール零になるという意味では必ずしもない。

逆に言えば、これまで映画監督でなかった人間が、映画のような作品を作る機会が増えるはずだ。
何千万もするような撮影機材を用いなくとも、十数万も出せば良いビデオカメラは買える。
映像の編集も、専門的な装置が必要ではなく、CG加工についても、ずいぶんお手軽になってきた。
素人がアイデアを出せば、それだけで目を引くような映画や映像を生み出すことは可能だ。
その中で淘汰されていくことになったとしても、作るという欲求や見せるという欲求は従来よりももっと満たしやすくなるだろう。

30年後くらいは、映画館という場所じたいがなくなっているかもしれない。
だが、それを恐れるのは、それまで観客を映画館という場所で閉じ込めてポップコーンで荒稼ぎしていた連中だけだ。
(もちろん、そうしないと映画業界が成り立たないことは百も承知だ。荒稼ぎすることがいけないとは全然思っていない。)

すでに時代は動いてしまった。
あとはその動く先にどのようなおもしろさを見いだせるかどうかだと思う。
従来のやり方で映画が撮れないのなら、もっと違うシステムを探し出し、今の時代でも映画を生み出せる形態を探せば良いだけの話だ。
それは簡単なことではない。
しかし、それを描ける人間だけが、次の時代を担う映画界の寵児になれるのだ。

だから僕は一観客として、それほど悲嘆にくれてはいない。
ただ、そうなるとますます映画を鑑賞する力や物語を楽しむ知識などは二極化していくだろうな、という気はする。
ちょうど昔は誰もが新鮮な魚を見分けることができたのに、今では一部の玄人しかそれができず、その他大勢がお手軽で安価な魚を買うのと同じようなものだ。
憂うのは僕がその玄人で、他の人が素人だという意味では全然ない。
そうなると映画という芸術を楽しむことじたいが先細っていくのではないかということを憂うのだ。
玄人だけが楽しめる難解な映画って、素人だけが楽しめる安直な映画と同様に、寂しい映画だと思う。

映画の価値は観客動員数や見た人間の数で決まるのではないけれども、良い映画を多くの人と共有したい。
そういう気持ちは、ずっとある。


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