secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

人生の特等席

2012-12-27 22:48:49 | 映画(さ)
評価点:75点/2012年/アメリカ/111分

監督:ロバート・ローレンツ

逆説的なアメリカ。

老年に至った野球のスカウトマン、ガス(クリント・イーストウッド)は体が弱ってきていることをいやおうなしに自覚し始めていた。
離れて暮らす弁護士の一人娘、ミッキー(エイミー・アダムス)は、身を粉にしてはたらき昇進の道を探っていた。
ガスはどこまでもアナログにこだわり、主流になりつつあるデータによるスカウトを毛嫌いしていた。
老年であることと、頑固なアナログスカウトに疑問を抱く球団GMはそろそろ彼に引退勧告をしなければならないかもしれない、と考えていた。
ガスの30年来の親友である、◆は、それを危惧して娘のミッキーに少しの間だけでも一緒にいてやれないかと持ちかける。
ミッキーは大事な仕事に区切りをつけて、父ガスのもとへスカウトの仕事を手伝いに向かうが。

グラン・トリノ」でカメラの前ではなく後ろに立つことを専念したい、と言っていたイーストウッドが、再びカメラの前に立つことを選んだ作品である。
ほれ込んだという脚本が気になり見に行くことにした。
監督業を兼務しない主演だけでの映画制作は実に「シークレット・サービス」以来となる。

平日の昼間の、誰も社会人なら行かないだろうという時間帯だったが、客席は半分ちかく埋まっていた。
もちろん、年配のお客が多かった。
公開してかなり時間が経っている。
見に行くなら、急いだほうがいいだろう。

▼以下はネタバレあり▼

やはり、イーストウッド、という映画である。
この映画を見ていると、漠然と物悲しい気持ちがしてくる。
たとえハッピーエンドであっても、この映画の根底に流れているのは、悲しみである気がする。

頑固親父のガス。
典型的なアメリカのじじぃで、古きよき時代のアメリカを象徴する。
そんな彼が突きつけられるのは、肉体の衰えと、今までのやりかたを否定するようなテクノロジーの進歩である。
緑内障の疑いがあり、目が見えにくくなっているにもかかわらず、どうしても自分のやり方を変えない。
娘とは疎遠になり、どこか苦手にしている雰囲気さえある。

娘も父親と距離を置きながら、自分の目標である共同経営者(パートナー)になろうと働き通している。
男社会で生きていくために、父親譲りの負けん気と頑固さで弁護士として一目を置かれる存在である。

二人はあるときを境に距離を置いている。
それが、スカウトの出張につれまわしているときに、ミッキーが襲われそうになり、相手の男にガスが暴力をふるってしまったという事件だ。
父親はこんなやくざな商売に娘を引き込むわけには行かないと考え、親戚に預けることを決意する。
自分の仕事に誇りを持っているが、それを娘に押し付けたり、共有してもらおうとは思っていない。
その恐怖は、老年の今になってもいまだ亡霊のように付きまとう。

娘は父親に捨てられたと考えている。
自分がいけないことをしたから、肉親である父親に捨てられてしまったのだと。
だから、父親が誇りに思えるような仕事をやりとげようと、弁護士になった。

二人のすれ違いは、興味深い。
ザ・アメリカ、というような設定は、図書館のどこかを引っ張ってこれば出てきそうなくらい、アメリカンな設定だ。
アメリカの国民的スポーツのベースボールと、アメリカの代表的な職業である弁護士。
しかも、「良かったころの」アメリカの老人と、負けん気は強いながら、父親を愛する深い気持ちを持っている娘。
これほど今のアメリカを象徴する親子はいないだろう。
田舎の夢を発掘する、スカウトマンと、都会の交渉を勝ち取る弁護士。

だが、この映画が感動できる理由はそこではない。
この映画は間違いなくおもしろいが、この映画が面白いことこそが、アメリカそのものの「失われた世界観」であることを象徴している。
この映画が面白いのは、この物語が、「今ではもうありえない世界」を描いているからだ。

話は飛ぶが、この映画で最も泣けるシークエンスはどこだろう。
僕の主観ではあるが、この映画で最も面白いのは、ガスが死んだ妻にお酒を捧げるシーンだろうと思う。
死んだ妻に、「お前がいなかったらだめなんだ」といいながら「You are my sunshine」を歌うイーストウッドを見ていると、僕は泣かずにはいられなかった。
この映画の名シーンだと僕は思う。
この映画のこのシーンで泣いてしまったのは、イーストウッドが俳優として優れているからだけではないだろう。
このシーンは、この映画が貫いている「失われた世界」を象徴するからだ。

妻を愛していた。
けれども、その妻を亡くしてしまった。
もう過去には戻れない。
ただ、その妻がいた世界を懐かしく、悲しみを癒すことなく生きていくことしかできない。

それは、アメリカがかつてあこがれの時代であり、順風満帆であり、誰もがあこがれる国であった時代へのノスタルジックな感傷である。
失われてしまったのだ。決定的に。

頑固親父は実際にはいない。
みな、デジタルの波に飲まれてしまった。
町中ですごい音を出している、化学の成績がBの豪腕の若者のもいない。
そんなアメリカンドリームは、どこにもない。
閉塞感しかない、アメリカにおいて、この映画はありえたはずの物語なのだ。
だから、この映画は面白い。

終盤、物語は慌しく展開する。
その展開の急変具合に、ある者は「おいおい都合が良すぎるだろ!」と腹を立てるかもしれない。
いきなり恋人がもどってきて、しょうもないクイズを出して、ゴールイン、なんていう映画はここ最近でもまれに見るほどチープな落ちである。
けれども、この映画をみた多くの年配のアメリカ人たちは、それでこの映画を批判することはないだろう。
なぜなら、この世界観こそ、彼らが求めていた世界であるからだ。
失われてしまったアメリカの「強さ」だからだ。

この映画がおもしろいと感じられるということそのものが、かつての「アメリカ」がもっていた記号性の凋落そのものなのだ。

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