外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

サマル先生の思い出~なぞなぞと異文化バトル編~

2012-01-21 23:06:59 | イタリア


一年生の始めの頃の授業で、サマルはよくなぞなぞを出した。

アラビア語の授業で最初に教わるのは、当然アルファベットである。
アリフで始まり、ヤーで終わる28文字を少しずつ教えながら、サマルはそれぞれの文字で始まる単語をいくつか黒板に書き、私たちのほうに向き直って、「さあ、この単語の意味はなんでしょう?」と質問するのだった。

アラビア語を習い始めたばかりのヒヨコの私たちに、そんなことがわかるはずがないと、サマルは百も承知であった。だから必ずヒントをくれた。
例えば、「これは外側が緑色で、中が赤い果物です。私は夏にこれを食べるのが大好き!」といった具合である。それを聞いて、生徒たちが口々に「わかった、スイカだー!」と言い当てる。こういう会話はもちろんイタリア語で行なわれるので、サマルのなぞなぞがアラビア語学習となんの関係もない、ただの遊びであることは明白だった。

スイカなどは簡単だが、文化的な観点の違いが出る単語だと、少しむつかしかった。

ある日のなぞなぞはこうだった。
サマル「これは人間にとって、とても大事な存在です。いつもそばにいる友達のようなものです。さて、なんでしょう?」
イタリア人生徒たち「人間の友といえば・・・犬? 」 当然、私も犬だと思った。
しかしサマルは首を振り、勝ち誇ったように言ったのだ。
「違います、答えは“本”です!
アラブ文化における犬の地位は低く、人々から蔑まれているという事実を、当時の私たちはまだ知らなかった。
サマルのなぞなぞはむつかしい・・・、と私たちはため息をついたものだ。

意味を言い当てるべき単語が抽象名詞ともなると、難易度はぐいっと跳ね上がる。

ある日サマルはいつものように、黒板にアラビア語の単語をひとつ書き、おもむろに質問した。
「これは、私たちみんなにとって、とってもとっても大事なものです。世界で一番大事といってもいいくらい。人間が必要とするものです。さて、これはなんでしょう?」
イタリア人生徒たちは口々に、「お金?」とか、「家?」とか答えたが、サマルは首を振るばかり。
少し沈黙が続いた後、クラウディオというやせっぽっちの男の子がふいに大声をあげた。
「DONNA?!」
DONNA(ドンナ)とは、イタリア語で女性という意味である。
サマルは少し戸惑ったように、「え?」と聞き返したが、クラウディオは自信たっぷりに、「女性でしょう、世界で一番大事なものといえば。それ以外考えられない!」と言い募るのだった。周りの男子生徒たちも、納得したようにうなずき、「そうだ、そうだ、その通り!!」とエールを飛ばす。
サマルはというと、顔をしかめて、たしなめるようにこう言った。
「違うわよ、クラウディオ!何を言ってるの?答えはSCIENZA(科学)です!!
科学ときたか・・・!
この答えには、イタリア人の生徒たちはみんな、完全に意表をつかれて黙り込んでしまった。
一方私は、このやりとりの間中、必死に笑いをこらえて下をむいていた。

このなぞなぞに私は、アラブ・イスラーム文化とラテンなイタリア文化の間にある、深~い溝を見たのである。
こういった異文化バトルこそが、サマルの授業の醍醐味のひとつなのだった。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の理想のお葬式

2012-01-21 00:08:02 | 日本における中東
ヨルダン王国のイルビッドという町でケバブを焼く兄弟。そっくりや~。



私の思い描く理想のお葬式について説明しよう。

かつてイタリアで暮らしていた頃、おそらく私は世界で一番暇だった(今もそうだが)。
そのため、イタリア語の勉強も兼ねて、毎日テレビばかり見て暮らしていた。
イタリアのニュース番組は日本のニュースと違って、国際ニュースをたくさん取り上げるので、見ていて飽きない。
EU関係の話題が多いが、中東関係のニュースも常に大きく報道される。アメリカのイラク侵攻、自爆テロ、イスラエルの封鎖下にあるガザ地区の人々の窮状、イスラエルのレバノン空爆・・・などなど。そんな映像を日々眺めるうちに、いつしか私の関心はこの地域に向かうようになったみたいである。

さてさて、そんなある日、私はいつものようにTVをつけた。画面に映っていたのはパレスチナ・ガザ地区で、イスラエルによる空爆の犠牲になった人々の葬列であった。イスラームの鮮やかな緑色の布で包まれた何本もの棺を、怒りと悲しみを露わにした大柄な男たちが荒々しく担いで、今にも走り出しそうな勢いで行進してゆく。それを取り囲む群衆も、怒って拳を振り上げたり、泣き叫んだりしている。

私はそのシーンをうっとりと眺め、こう思った。
私もいつかこんな風に、大勢の怒りまくった男達に荒々しく担がれる、数本のお棺のうちの1本になりたい!
なんでまたそんなことを思いついたのか、自分でもナゾであるが、とにかく政治的背景とは無関係に、純粋にビジュアル的に、その光景にいわれのない憧れを感じたのだ。
今のところ、これが私の理想のお葬式である。

でもこれを実現するためには、高くそびえ立つハードルを幾つもクリアしないといけない。
具体的にいうと、
(1) イスラーム式のお葬式をしてもらうため、イスラームに入信する。
(2) イスラエル封鎖下のガザ地区に潜り込む。
(3) イスラエルの空爆の犠牲者になる。
(4) しかも単独の死亡ではなく、私以外にも何人か犠牲者がいる。
といった具合である。一番目のハードルを超えるのが、すでに不可能(だって無神論者なんだもん)。残念ながら、この理想は実現せずに終わりそうである。

このように、「理想のお葬式」の実現については諦めモードの私だが、「理想の死に方」はというと、いくらか実現の可能性を秘めているといえる。
この「理想の死に方」は、昨日突然、私の心の中に出現したものである。

先日、イタリアの豪華クルーズ船「COSTA CONCORDIA」号がジーリオ島付近で座礁し、死傷者と行方不明者が出た事件がありましたね。あの非常にイタリア人的な船長が、乗客を置いて真っ先に逃げたという事件。
沈みかけの船で乗客の1人が撮ったビデオを、昨日イタリアの新聞のサイトで観ていて、私は考えた。
・・・将来もし船の沈没や、飛行機の墜落事故で命を落とすとしたら、イタリアの船や飛行機で、こんな風にワイワイきゃあきゃあ騒ぎまくるイタリア人の群れに埋もれて死にたい。あの人たちを見てると愉快な気分になって、くすくす笑いながら死ねるに違いない・・・。
これがもしイタリアではなく、アラブのどこかの国の船だったら、乗客は一斉にアッラーに祈り出したことだろう。それはきっと壮観な眺めに違いない。そっちも捨てがたいな・・・。

そんなわけで、私の「理想の死に方」は、イタリアかアラブの船、または飛行機の事故で、大勢の現地人に囲まれた状況での死亡、ということになる。
こんな不吉なことばかり考えるのも、毎日暇にまかせてニュースばかり見ているせいだと思われる。やはり、なんとかしてお金を稼いで、早く海外へ脱出せねば・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする