外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

サマル先生の思い出~出会い編~

2012-01-05 23:58:40 | イタリア


サマル先生はマトリョーシカに似ている。
小柄だがしっかり肉がついた丸っこい体を、裾の長いコートに包み込み、顔を除く頭部全体を薄い布(ヒジャーブと呼ばれ、イスラームの信徒の女性が髪を隠すのに使う)で被ったその姿が、なんとなくあの有名なロシアの入れ子人形を思い出させるのだ。先生を2つにパカッと割ってみたら、中にちっちゃな先生が入れ子になって、いっぱい入っているのでは、という気がするくらいだ。
でもマトリョーシカに似ているのは体型だけで、浅黒い肌やくっきりした濃い顔立ち、そしてとりわけ、強い輝きを放つ大きな黒い目は、明らかにロシアや欧米のものとは異質な存在感を主張していた。彼女は私が人生で最初に知り合ったアラブ人である。

サマル(もう呼び捨て)はフィレンツェ大学文学部・東洋学科専属の、シリア人のアラビア語講師である。出会ったとき彼女はたしか50歳で、すでにイタリア在住17年というだけあって、イタリア語を流暢に話していた(ばりばりにアラビア語訛りではあるが)。出身はダマスカス郊外の小さな町だが、お見合い結婚を機にシリアを離れ(シリアでは結婚はほとんど見合いで決まる)、イタリアにやって来たのだそう。子供はなく、イタリアの大学を卒業して検死医として働いている、温和なシリア人の旦那さんと2人暮らしである。

以前「ポール先生の思い出」の回で、私はフィレンツェ大学文学部に2年間通って、英語とアラビア語とトルコ語を勉強した、と書いたが、サマルにお世話になったのは、そのときである。2年間、週3回彼女の授業を受け続け、アラビア語文法の基礎を叩きこまれると同時に、ダマスカスの美しさ、素晴らしさを吹き込まれて洗脳されたおかげで、私はフィレンツェを引き払って、ダマスカスに移住する決心をしたのだから、サマルは私の人生を変えた女だと言えるかもしれない。私にとって、ポール先生が「永遠のアイドル」だとしたら、サマル先生は「運命の女」なのだった・・・といったら、ちょいと大げさかもしれないが。

サマルはスゴイ。

どうスゴイかと言うと、まず名前がスゴイ。
最初の授業で自己紹介をしたとき、彼女は、「”サマル”という名前は、アラビア語で ”恋人同士が、夜に話し合う甘い会話”という意味なのよ」と説明してくれた。そんなピンポイントな意味の単語があること自体が、外国人にとっては驚きである。恋愛関係の単語の豊富さでは他の追随を許さないイタリア語にだって、そんな単語はないので、イタリア人の生徒たちも驚いていた。この単語をあえて和訳するなら、「閨の睦言(ねやのむつごと)」といったところだろうか。閨の睦言先生。
もちろん、サマルのすごいところは名前だけではなく、他にも色々あるのだが、それはおいおい説明したいと思う。

1年生向けのアラビア語講座の最初の授業とき、狭い教室から溢れ出しそうなくらい、大勢の生徒がつめかけた。当時イタリアの大学の文学部では、アラビア語や中国語などの、知っていると就職の際に役立ちそうな言語が人気急上昇中だったのである。ただでさえ不景気なイタリアで、就職にあぶれがちな文系の学生にとって、これらの言語の講座は救世主のように見えたに違いない。

そんな将来への希望と不安と不安と不安を抱えた1年生の大群(大半はイタリア人だが、私みたいな外国人もちらほらいる)を前にして、サマルはそんな風に自己紹介し、「みなさん、アラビア語の世界へようこそ!アラビア語はすごく簡単な言語です!これから一緒に楽しく勉強しましょうね!」と明るい笑顔で大ウソをついた。アラビア語が簡単どころか、ほとんど習得不可能の業の深い言語であることは、2,3ヶ月も勉強するうちに、骨の髄までしみてよく分かったが、その時はもう手遅れで、私はすっかりこの複雑怪奇な言語のトリコになっていた。その後私がしつこくアラビア語の勉強を続けて、曲りなりに読み書きができるようになったのは(会話は未だにできない)、サマルがあの時、きっぱりと大ウソをついてくれたおかげかもしれない。
コメント (1)
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