外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

ヘブライ語とアラビア語

2011-03-08 19:14:48 | パレスチナ
      写真は、ウルパン(ヘブライ語の学校)の階段で出会ったユダヤ人の子供たち



ヘブライ語とアラビア語は同じセム系の言語なので、姉妹関係にあると言えましょう。アルファベットはそれぞれ違うが、どちらも右から左に書くし、短母音を表記しない。文法構造も基本的には同じだが、ヘブライ語のほうがアラビア語よりずっとシンプルで覚えやすい。現代ヘブライ語は古代ヘブライ語をもとにして近代的に作り変えたものらしいが、アラビア語は昔のままなので、そのへんの違いかもしれない。似ている単語も多く、「私は日本から来ました」という文をアラビア語では「ANA MINA L-YABAN(アナー・ミナ・ル・ヤーバーン)」、ヘブライ語では「ANI ME YAPAN(アニー・メ・ヤパン)」である。これを習ったときは「おんなじやん!」と心の中で叫びました。アラビア語の挨拶は「サラーム(サラーム・アレイクムの略)」。ヘブライ語だと「シャローム」だしね。

アラビア語の俗語表現がヘブライ語にそのまま入ったりもしていて、イスラエル人が別れ際に「ヤッラー・バーイ!」と言うのを聞いたときは、この人イスラエル人なのに、なんで突然アラビア語(アーンミーヤ)使うのん、と驚いたが、実はアラビア語からの借用表現だと後から知った。ちなみに罵詈雑言もアラビア語から入った表現が多いらしく、「くそ!」はアラビア語もヘブライ語も「KHARA(ハラー)」である。使ったことないけど、入植者に言ってみたら撃たれちゃうかな。考えるのがコワい。

イスラエル人の友人によると、彼らは学校で2年間アラビア語を勉強するそうだ。でもそのあと忘れてしまう人がほとんどみたいで、アラビア語をぺらぺら喋るイスラエル人はめったにいない。アラビア語は2年くらい学校で週2,3回義務的に習ってマスターできる言語ではないし、普段パレスチナ人と接することもないので、練習する機会もなく忘れていくのはしょうがないのだろう。イスラエル人がアラビア語会話を出来るようになれば、この2民族の間の相互理解も少しは深まるのではないか、と思うのだが。人間は自分の知らないものを恐れ、この恐怖から開放されるために対象を取り除こうとする、とよく言われる。相手の喋っている内容が理解できるようになれば、相手も自分と同じ普通の人間であり、怖れる理由はなにもないと分かるものだ。

逆にヘブライ語を話せるパレスチナ人はけっこういる。イスラエル領内に住んでいるパレスチナ人はイスラエル人と一緒の学校に行って、ヘブライ語で全ての教科を習うし、西岸や東エルサレムの人たちの中にも、仕事で必要になって覚えたという人が少なくない。家の近所でも、パレスチナ人の子供たちが私に「シャローム!」と声をかけたり、ヘブライ語はしゃべれるか、と尋ねたりすることが結構あった。私を見て、彼らの頭の中で条件反射的に、「ああっ外国人だ外国人だ、しゃべりかけたい、うずうず。外国人だから外国語でしゃべりかけなきゃ、でも英語はわからない、ヘブライ語の挨拶なら知ってるぞ」というかんじに思考回路が働いて、その結果ヘブライ語でしゃべりかけてくるのだと推察される。ヘブライ語なんかわからんっちゅうねん、アラビア語で喋ってくれよ、ややこしいから、と思うが、顔には出さずにとりあえずニコニコして、ローマ法王のように鷹揚に手を振る私であった。

ウルパンでヘブライ語を習う前は、あのヘブライ文字がとてもいかつく見え、まるで威嚇されているような気がしたものだが、アルファベットが読めるようになってからは、視力検査表を眺めているときのような、ニュートラルな気分で見られるようになった。アラビア文字に比べて丸みがなくて可愛げがないし、発音もドイツ語っぽくてごつごつした音だが、慣れてみたらそんなに不快でもなくなった。そしてヘブライ語に慣れるのと同時に、イスラエル人の存在にも慣れてきて、西エルサレムを歩くときにあまり身構えなくなった。言語を理解する(ほんの少しでも)ということの大事さを改めて実感した次第である。
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オリーブ山のアパート

2011-03-08 19:09:28 | パレスチナ
家の近所に止まっていた、マシュマロマンつきのトラックの写真


以前に何度も書いたが、パレスチナ滞在中、私は東エルサレムのオリーブ山にあるアパートを借りて住んでいた。

このアパートを見つけたのは幸運な偶然であった。

エジプトからターバ国境を越えてイスラエル入りし、翌日バスでエルサレムにやってきて、旧市街の安ホテルに泊まって家探しを開始した。エルサレムに知り合いがいるわけでもないので自力で探すのである。旧市街を当てもなくうろうろしていたとき、シオン門の外に停まっていたタクシーの運転手に、「ヘイ彼女、ベツレヘムツアーに行かない?安くしとくよ!」と誘われたので、いま家探し中でそれどころじゃない~と断ると、彼は急に真顔になって、自分の所有するアパートが空いているからそこに住まないか、と持ちかけたのだ。さっそく値段交渉を開始し、妥当な価格に落ち着いたが、電話番号をもらってその場はいったん別れ、別の場所で家探しを続行した。結局そこより条件がいい物件が見つからなかったので翌日その運転手に電話して、彼のアパートを見に行くことにしたのである。

余談だが、私の経験によると、アラブ世界で(少なくともシリア・エジプト・パレスチナで)貸しアパートを見つけるのはさほど難しくない。私がいつもやっていたのは、住みたい地域に出向いていって、道端でおしゃべりしている暇そうなおじさんたちに情報をもらうことである。アラブの街は井戸端会議をしている暇そうなおじさんたちで満ちている。彼らに話しかけるとたいてい誰かが「ああうちの隣のアパートが空いてるから、持ち主に電話してやるよ」とか「わしの持ってるアパートが近くにあるから、なんなら今から見に来るか?」とか言ってくれるのだ。近所の不動産屋に連れて行ってくれることもあり、私はこの方法で、エルサレム旧市街キリスト教地区で不動産仲介業者(本業は床屋だが)のところにたどり着いたが、みせてもらったアパートは窓のない陰鬱な地下室だったので遠慮した。ラマッラーの不動産屋さんにも行ってみたが、高い物件しかないのであきらめた。アラブの不動産屋は、手数料が安いのはいいが(家賃の半月分ほど)、そもそも物件を1つか2つしか持ってないことが多いので、あまり期待できないのだ。

翌日の夕方連れて行かれたのは、旧市街近郊の山の上にある、立派な庭付き一戸建てであった。門の上のアーチには白いジャスミンの花が咲きこぼれ、庭にはオリーブの木やマラミーヤ(セージ)やミントの茂みが植わっている。二階のテラスには沢山の洗濯物がはためき、その下にはニワトリ小屋まである。
建物の一階部分が貸しアパートであった。二階部分には大家さん一家が住んでいるが、玄関が別々なので独立性は保たれている。
玄関を入ってすぐ、立派なソファーセットを配置したリビングがあり、その向こうにキッチンが続いている。右手奥にはバスルームと寝室。たくさんある窓のブラインドは電動式で巻き上り、窓ガラスにはマジックガラスが使ってあって、昼間は外から見えない仕掛けになっている。全体に広々とした間取りで、毛布やお皿など最低限のものも一通りそろっているし、なにより窓からの眺めがいいのですっかり気に入ってそこに住むことに決め、大家さんに手伝ってもらって翌日ホテルから引っ越した。

アラブ世界には家具つきの貸しアパートが多いので、身一つで引越しできる。やっかいな敷金・礼金・更新料もないので余計な出費もないし、私のような短期滞在の外国人にはありがたいことである。
ちなみにアラブ世界で契約書や領収書にお目にかかることはめったにないが、この家も例外ではなかった。すべては口約束である。契約書による細かい規定がないので、慣れてしまえばこちらのほうが気楽ともいえる。肝心なのは大家さんの人柄である。大家さんが正直でまともな人であれば、契約書などなくても心配いらないのだ。

大家さんのフセインさんは50歳くらいのフレンドリーで小柄で痩せた男性で、髪の毛があんまりなかった。タクシー運転手だけあって外国人の扱いに慣れていて、英語も結構しゃべれる。奥さんのイマーンさんは40代半ばのどっしり落ち着いた教養のある主婦で、週二回アル・アクサー寺院に通ってコーランの読み方を習っていた。アルジャジーラなどのドキュメンタリー番組を見るのが大好きというだけあって、好奇心旺盛で、日本のことを色々質問してくる。彼女はアラブ人には珍しく、きちんとしたフスハー(標準語)を話してくれるのでありがたかった。彼らには子供が3人いるが、一人娘は結婚してサウジアラビアに暮らしているので、現在この家に残っているのは息子2人だけ。パレスチナ人の家庭は普通子沢山で、子供が9人という家も珍しくないので、ここの家庭は例外的に子供が少ない都会派・中流家庭といえましょうか。上の息子イスラームくんは20歳前後の背の高い若者で、看護学校卒業後とりあえずガソリンスタンドで働いているが、将来のことに関して、しょっちゅうお母さんとどなりあいの口喧嘩をしていた。階下にもよく聞こえてくるので、私は「や~イスラーム、お母さんにそんな口の利き方しちゃダメ~。私ならこんな息子はいらない~」と人知れずコメントするのが常だった。その点、下の息子である中学生のウサイドくんは温和な顔をしたラブリーなよい子で、いつも親の言いつけをよくきいてせっせとお手伝いをしていた。ヨルダンに出発する前夜、大家さんちに挨拶に行ったとき、イマーンさんに「ウサイドくんを私にくれない?」と冗談で言ってみたら、「だめ、ウサイドはだめ、フセインならあげるから持って行きなさい」と断られてしまった。フセインならあげるって、旦那さんもらってもしょうがないんだけど・・・。

彼らと全然顔を合わせない日もあったが、イマーンさんに冬用の暖かいパジャマをもらったり、ウサイドくんがご飯を運んでくれたりと、なにかと親切にしてもらった。それに加えて、家に引きこもって勉強したり、新聞を読んだりしているとき、ふと目を上げると、野良猫が窓辺にいてこっちを眺めていたり、庭をせわしなく駆け回るニワトリの足音が聞こえたりするので、あまり淋しい思いをしないのだった。イスラームの犠牲祭のときには、フセインさんがヤギを買ってきて庭にヤギ小屋をつくった。私がパレスチナを離れるときは、メスのヤギが2匹飼われていたが、2匹ともが妊娠中で、もうすぐ子供が生まれるのだとフセインさんが嬉しそうに言っていた。

オリーブ山には、由緒ある有名なキリスト教会が幾つかあって、重要な観光スポットのひとつとして数えられているが、基本的にはディープに庶民的なアラブ・ムスリム地区である。道を歩くと子供たちが「ニイハオ!」「チャイナ?チャイナ?」「ハッロー、ワッツユアネイム?」としきりに話しかけてくるし、ちゃんとした歩道がないので歩きにくいし、道端はごみだらけで、ごみ捨て場周辺は猫のたまり場と化しているという、いかにもアラブらしい地域で、私の好みにぴったりだったが、他の外国人の姿はあまり見かけなかった。一般に外国人が好んで住む地域ではないのかもしれない。

街の中心へは、小型のアラブバスかセルビス(乗り合いバス)で15分くらいである。アラブバスはパレスチナ人の経営によるもので、停留所はなく(当然時刻表もない)、好きなところで手を挙げて乗り込み、お金を払って席に着く。チケットをくれる運転手もいれば、そうでない運転手もいる。車内には宗教関係の啓蒙ポスターやイスラエルへの抵抗運動キャンペーン・ステッカーなどがべたべた貼ってあり、乗客は乗降の際、運転手に「こんにちは」、「お疲れ様」などと一声かけていくという、非常に人間味あふれた乗り物である。日が暮れてから家に帰るとき、このバスの窓から夜景をみるのが私のささやかな楽しみであった。

ヨルダンへの出発も近づいたある日、大家さんの家にお邪魔しておしゃべりしているとき、イスラエル政府による東エルサレムの家屋破壊の話題になり、この家は大丈夫ですよね、と私が何気なしに言ったら、イマーンさんが「なにいってるの。この家だって建築許可がないからいつ壊されてもおかしくないのよ。この辺の家は全部そうよ。イスラエルがパレスチナ人の家には建築許可をくれないから」と顔をしかめた。この辺の家はどれもお金持ちの別荘みたいな立派は建物なので、不法建築だとは思い当たらなかったが、よく考えたら東エルサレムのパレスチナ人の家のほとんどは無許可なので、当然と言えば当然である。フセインさんが脇から説明してくれたところによると、10年前にこの家を建てるときに許可を申請したがどうしても降りず、しょうがないので許可なしで建てたら、市当局から取り壊しを通知されたうえ、かなりの額の罰金を払わされたそうである。その後10年間、毎月きちんと固定資産税を払い込んでいるが、いつ壊されるかわからない状態なのだそうだ。いまのところは大丈夫そうだが、将来いつ入植地計画が持ち上がらないとも限らない。ちなみに家を壊される場合、取り壊し費用は壊される側のパレスチナ人が払わなければならない。自分の家が壊されるのに、その費用まで払わされるんですよ、あなた。この費用が結構馬鹿にならないので、取り壊しを予告された家の人たちが費用節約のため、自分で壊すケースも時折見られる。自分の手で自分の家を壊す人たちの気持ちを考えると、気分が暗くなりますね。

東エルサレムのパレスチナ人は家屋破壊や追いたてと隣りあわせで生きている。フセインさんの妹はシェイフ・ジャッラーハ地区に住んでいたが、イスラエル人に家をのっとられてしまったので、今は別の場所にアパートを借りて住んでいるそうだ。イマーンさんの実家は、シルワン地区に土地を持っていたが、そこにユダヤ教にゆかりのある公園をつくる計画が持ち上がったため、イスラエル政府に差し押さえられてしまった。もちろん無償・強制差し押さえである。


出発の朝、フセインさんが山の下まで自分のタクシーで送ってくれ、ヨルダン行きのセルビス乗り場でお別れした。いつでももどってきていいからね、と少し少し淋しそうに言い残して、フセインさんは去っていった。
それからもずっと、オリーブ山のあのアパートのことはいつも気にかかっている。みんな元気にしているだろうか。子ヤギたちは無事に生まれただろうか。フセインさんの仕事は順調だろうか。イスラーム君がお母さんを困らせていないだろうか。次にパレスチナを訪れるのはいつになるか分からないが、それまであの家は存在し続けているだろうか。

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オリーブの雨の音はボツボツと

2011-03-08 18:58:32 | パレスチナ
パレスチナでオリーブ摘みのボランティアをすることは、私のひそかな野望のひとつであった。

そんな野望がどこからわいてきたのかなぞだが、よく考えてみればオリーブ摘みへの憧れは、イタリアのフィレンツェに滞在していた頃にすでに私の心の中に芽生えていたようである。澄み切った秋空の下、たわわに実を結んだオリーブの木の下で陽気なカンツォーネを歌いながら、農家の人たちと競い合ってオリーブの実を摘み、そのあと搾油所に運んでいってオイルを作り、絞りたてのほろ苦いバージンオイルを、焚き火で炙ったパンにかけて食べるんです。この秋収穫した葡萄で作った新ワインも振舞われ、収穫を祝って皆で乾杯!ああうっとり・・・ようするに、イタリア留学者にありがちな安易な憧れであるが、結局これを実際に体験することもなく、イタリアを離れることになってしまったが、このオリーブ摘みへの憧れは私の潜在意識に音もなくするりと入り込み、日の目を見る機会をひそかに窺っていたようだった。

私がパレスチナに来たのは9月の終わり。10月に入るとオリーブ収穫のシーズンが始まり、国際ボランティアが収穫の手伝いに各地で大活躍していると、新聞・テレビで大きく取り上げられていたのだが、誰に言えば参加できるのかよくわからずあせっているうちに、いたずらに日々が過ぎていくのだった。

オリーブの木は地中海沿岸全般で育てられている。降水量が少なくてもよく育つし、実を塩漬けにしたり、オイルを絞ったり、そのオイルから石鹸を作ったり、木を切って木工細工に使ったり、と多彩に活躍するので重宝がられているが、特にパレスチナ人はこの木に対して、「神に祝福された木」として特別に深い思い入れを持っており、彼らのオリーブ収穫作業は一種祝祭的な趣さえある。それなのにイスラエルの入植地の近くにあるオリーブ畑では、入植者の放火により木を燃やされたり、夜のうちに実を盗まれたり、農地に行くのを邪魔されたり、挙句の果てには銃で撃たれて怪我したり、と苦労が絶えないのである。入植者の嫌がらせのほかに、イスラエル兵に作業を中断させられたり、通せんぼされたりすることもあるらしい。そこで登場するのが国際ボランティアである。外国人ボランティアがオリーブの収穫を手伝うことは、パレスチナの秋の恒例行事のようになっている。外国人ボランティアの意義は、デモ参加のときと同じで、「危険地帯で作業するパレスチナ人のそばに存在すること」にある。外国人がいたら入植者のいやがらせも少しはましになるし、イスラエル兵の態度もよくなるからである。つまり作業効率などは二の次、のはず。

そんなある日、ISMのトレーニングの場で知り合った、ミシガン・ピースチームというアメリカのNGOの女性2人組みに誘われ、彼女たちと一緒にオリーブ摘みをさせてもらうことになった。小柄で痩せていて、早口で冗談を言いながら活発に動き回るのがリーダー格のミリアム、ぽっちゃりとした体型で、いつもおっとりと笑っているのはサンディー。作業前夜はナブルス近くのフーワーラという町の、彼女達のアパートに泊まりこんだ。

朝5時に起きて、作業着の古ズボンとシャツに着替え(彼女たちに貸してもらった)、急いで朝ごはんを済ませて準備する。強い陽射しを避けるため、ミリアムはバンダナで髪を覆い、サンディーと私は帽子をかぶる。お昼ごはんは農家の人が用意してくれるので、持って行くものは飲料水のボトルと熊手だけでよい。この熊手はオレンジ色のプラスチック製で、長さ50センチくらいのハンディーサイズ。これを手に持って、枝を引っかいて実を落とすそうだ。孫の手代わりに背中を引っかくのにも使えそうだが、ちょっと痛いかもしれない。

タクシーで現場まで行き(タクシー代は自費。ボランティアってお金がかかるのだな)、ISMから来ているほかのボランティアの人たちと合流する。その日摘む予定なのは、3軒の農家のオリーブ畑で、広さに合わせて適当に人数を調整する。私たち3人は、オサマ・ビン・ラディンにちょいと似た哲学的な風貌で、英語が少し喋れる、オマルという名前の農夫のオリーブを摘むことになった。ミリアムによると、彼女たちが以前このオマルのお手伝いをしたとき、イスラエル兵が邪魔しにやってきたが、彼は彼女たちを置いて一人だけ安全地帯に逃げたそうである。初めてのオリーブ摘みなのに、そんないわくつきの人のために働くのか、と思うとなんだかやる気がくじかれるような気もしないではない。

彼の家族はだれも手伝いに来ておらず(家族総出でやるのが普通らしい)、私たちは4人だけで作業を開始した。オマルの末の息子が一緒について来ているが、この子はまだ小さいので作業には参加せず、その辺で遊んでいる。
まずオマルが木の下にビニールシートを敷き、それから皆で熊手を使って、実を落としていく。終わったら実を集めて大きな袋につめ、別の木に移動する。その繰り返しの単純作業である。高いところにある実は木に登って取る必要があるが、私は落ちるのがこわいのでやらなかった。オマルとミリアムは身軽に木に登ってどんどん実を落としている。

熊手で枝を引っかくと、面白いほど実が落ちて、シートの上でボツボツと音を立てる。大粒の雨のような音である。緑の実と黒い実が混ざり合った、美しい色の雨。葉っぱや小枝も一緒に落ちるので、あとで袋詰めするときに、目立つものは取り除かないといけない。

2時間も働くと私はもう疲れてくたくただった。「オリーブ摘み」という牧歌的なイメージにうっかりだまされていたが、要するにこれは農作業であり、肉体労働なのである。ああ働くってなんてしんどいことなのかしら、あたし身体弱いのにい・・・。私がためいきをつきながらさぼっている間も、アメリカ人たちはてきぱきと働いている。彼女たちはどちらも孫がいる年齢なのだが、わたしよりもずっと体力と意欲があるようだった。素晴らしい。

近くの木につながれたオマルのロバが、時折すっとんきょうな大声で「アーイー、オーイー」と鳴く。まるで何かを訴えかけているようなので、「僕はお嫁さんがほしい!と言ってるのかな」と私が推測すると、ミリアムが笑いながら「オマル、僕と遊んでよ、と誘ってるんじゃない」と応じる。「暑いからアイスクリームが食べたい!と言ってるのかも」とサンディーも参加する。オマルは黙って笑いながら実を落としていく。

12時ごろにオマルが昼ごはんを用意してくれた。家から持ってきたホンムス(ヒヨコマメのペースト)やムタッバル(ナスのペースト)のタッパーやパン、ザアタルとオリーブオイルの入った器を地べたに並べ、サラダ代わりのトマトをナイフで切り、小枝を集めて火を起こし、お茶を用意してくれる。簡素な食事だが、どれもオマルの奥さんの手作りである。なんでも手作りが一番だ、身体にもいいし、とオマルが自慢げに述べる。作業の後でお腹がすいているので、みんなひたすら食べた。辺りはとても静かで、風に揺れるオリーブの葉の音と、小鳥の声しか聞こえない。

お昼ごはんが終わったらまた作業を再開したが、私の身体はすでにスイッチが切れて、お昼寝体勢に突入してしまったので、しょっちゅうしゃがんで休憩していた。そんな私を見るオマルの視線が険しかったが、そもそもボランティアなのであまり文句もいわないだろう、とたかをくくって受け流した。こういう横着な性格の人はボランティアに向いてないのは明白ですね。

午後2時を過ぎたら、学校帰りのオマルの息子たちが続々と現れて手伝いだした。計5人、みんな小さくて、まだ小学校低学年くらいである。オマルには全部で9人子供がいるそうだ。パレスチナ人は子沢山なのである。奥さんは一人だけなのに、ご苦労様なことだ。子供たちは猿のように木に登って、父親とにぎやかにおしゃべりしながら働いている。オマルは嬉しそうに子供に囲まれていそいそと働いている。

ミリアムたちに用事があるので、3時ごろに仕事を切り上げることになった。オマル・アンド・チルドレンに別れを告げながら、ああ終わった、アルハムドゥリッラー(アッラーのおかげ)と心の中でつぶやく私。疲れのせいか、帰りのタクシーではみんな無口だった。私は彼女達のアパートで服を着替え、しばらく休憩させてもらったあと別れを告げて、バスに乗ってエルサレムに戻った。

そんな訳で、初めてのオリーブ摘みボランティアはさえない結果に終わってしまった。これが最初で最後の体験になるかもしれないと思うと、少し情けない気がしないでもない。それにしても、肉体労働は自分の得意分野ではないと前々から自覚していたものの、10年にわたる無職生活のせいか、それとも地中海沿岸諸国に暮らしているうちにこの地域特有のキリギリス文化に影響されたのか、自分の怠け者度がグレードアップしているのが気にかかった。このままでは日本に戻ったとき、社会に適応できないのではないかと心配である。どうしよう・・・
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