行雲流水の如くに

「しおれ」の美について

花がしおれると見苦しいのですぐカットしてしまうのが普通だ。

たまたま能の大成者とされる世阿弥の「風姿花伝」の一節が目に留まった。

花を極めたらん人は、しほれたる所をも知る事あるべし。しかれば、この「しほれたる」と申す事、花よりもなほ上の事にも申しつべし花なくては、しほれ所無益なり。それは「湿りたる」になるべし。花のしほれたらんこそ面白けれ。

私は、能は門外漢なのでよくわからない。しかし花にはそこそこうるさい。

だがうむー、とうなってしまった。これがわかる境地に達していないようだ。

しほれーー漢字にすれば萎れ

 

ゆり

 

芭蕉一統の森川許六の「十団子も小粒になりぬ秋の風」を芭蕉が「この句しをりあり」と評したという。

世知辛さを憤慨するのではなく、さらっといなした風情が良いのだろう。

この感じは何となくわかる。

 

薔薇(バレリーナ)

バラはどちらかというと咲き終わった花はどんどんカットしたほうが良いと言われている。

しかも大胆にだ。

萎れたあとに次の再生の芽を持っている、という意味では虚の中に実を見れということだろうか?

 


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