光が丘からこんにちは

光が丘の不動産屋が日々のこと、綴ってます!

オトナの集まり in 光ヶ丘

2013年08月27日 | 日記

昨日は、ホテルカデンツァ光が丘で地元色濃いイベントに参加してまいりました。
『音菜の集まり』 おとなのあつまり  と読みます。
おとな、大人、つまり若者から卒業した方々が音楽を通して楽しむ会。



数年前から、地元に関わりある有志でバンドを組んでるっていう話しは聞いてましたが、今年はここまで盛大におやりになるとは思ってませんでした。



途中からステージ上の年齢もアップし、70代の心意気を見せてくれました。



私達なんて、まだまだ、ひよこ・・・
地元の熟年パワーを感じた一時でした^ ^

 

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光が丘からこんにちは~

2013年08月23日 | 旅行

先日、日帰りで山梨まで出かけました。
友人が小淵沢の近くに家を建てることになり、地鎮祭に招かれたからです。



普段なら静かな別荘地も、さすがにオンシーズン。人も車もそれなりに賑わっていました。


お清めは、こちらのお店のギネスです。

Irish Pub BULL&BEAR   通称パブ です。





クリーミーな泡がたまりません。

電車まで少し時間があったので、リゾナーレ八ヶ岳に立ち寄りました。

星野リゾートが手がける、八ヶ岳 山麓に佇む高原リゾートです。
リゾート気分を味わうなら、ここは最適でしょう。



ピーマン通りで開かれる、八ヶ岳マルシェ。









近隣の生産者が丹誠こめて育てた新鮮な農産物やおしゃれな雑貨が並びます。











そして、『あずさ』に揺られ、2時間で新宿に到着。

つかの間の休日でありました。

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光が丘からこんにちは~

2013年08月15日 | 歴史

光が丘の歴史 3・・・・・〈インターナショナルな街へ〉

昭和22年、成増飛行場跡地に米軍宿舎グラントハイツが建設されてから10年余り、施設の内容はだんだん縮小され遊休化してきました。

昭和35年頃から土地返還運動が高まってきます。

数々の交渉後の接収解除ののち、返還の展望が開けた昭和44年に区域全体に『光が丘』の町名がつきました。

そして、昭和48年9月30日に念願の全面返還です。

当時、私は小学生。 有刺鉄線に囲まれた敷地内には危険なので入らないようにという朝礼の校長先生の言葉に好奇心を掻き立てられました。

同年代の尾崎豊が1985年に発表したアルバム『壊れた扉から』には、ここグラントハイツを歌った「米軍キャンプ」が入っています。

彼は、練馬区春日町で少年期を過ごし、グラハイ(当時、私達はそう呼んでいました)の周りが遊び場だったようです。

写真は、平成8年の光が丘北部の航空写真です。

グラントハイツ跡地には、光が丘公園・集合住宅街(光が丘団地)・商業施設・体育館・図書館・清掃工場・保育園・小中高校などなどが造られ、ニュータウンが誕生しました。

そして、都営大江戸線の開通。

都心へのアクセスがよく、とても便利になりました。 緑も多く暮らしやすい街です。

(光が丘公園はこちらのブログで)

 最近は、子どもの数が激減し、小学校の統廃合が・・・

昨年、公立小学校の跡地には、アオバ・ジャパン・インターナショナルスクール光が丘キャンパスが開校しました。

再びインターナショナルな街へ

国際的で平和な街になっていくのでしょう

 

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光が丘からこんにちは~

2013年08月14日 | 歴史

光が丘の歴史 2・・・・・〈グラントハイツの話〉   

戦争が終わって、成増飛行場は『つわもの共の夢の跡』となってしまいました。

敗戦によりここは、連合国に接収されます。

昭和22年練馬区が独立した年(それまでは板橋区でした。練馬区は都内で23番目の区です)、連合国軍が飛行場跡地をグラントハイツと改称し、アメリカ陸軍航空軍の家族宿舎を建設しました。

明治12年(1879年)に来日したこともあるアメリカ合衆国第18代大統領グラント将軍にちなんでの命名です。

 昭和20~30年代、貧しさのなか復興を遂げていく日本人社会とはまた違った世界を覗いてみましようか・・・

入口の検問所。ここで、許可証を提示しないと中には入れません。

父は、グラントハイツの一部を通らないと中学校へ通えなかったそうで、パスのようなものを見せて通学したと言ってました。

映画館。どうも消防訓練中のようですね

 郵便局

 教会

メインストリート

PX ポスト・エクスチェンジ  購買部でしようか・・・

あらゆる生活用品がノータックスで買えたようです。

父は白子川で泳いだそうですが、ここにはプール

なんだか、映画の世界ですね。

グラントハイツ周辺には日本土産のお店が・・・

「ALWAYS三丁目の夕日」みたい

施設内には、鉄道がひかれ、駅・バスターミナル・ヘリポート・診療所・免税店・礼拝堂・学校・消防署・プール・映画館・ゴルフ練習場・将校クラブ・下士官クラブ・モータープール・空調施設内燃工場(ボイラー室)などがあり、メイドやボーイ、運転手として働いていた日本人も多かったようです。

父が真冬の通学時に米軍住宅を覗くとみんな半袖姿。「こっちは寒くてたくさん着込んでいるのになぁ・・・」と

日本人にはストーブすら使えない時代にセントラルヒーティングなんですから、羨ましい限りですよね!

そして、昭和35年頃から土地返還運動が起こります。

つづく

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 上記の写真は、岡修身様のHPより、ご快諾をいただいて掲載したものです。グラントハイツに勤務していたアメリカ陸軍のジム・カーベンター氏が写した写真です。

 

 

 

 


光が丘からこんにちは~

2013年08月13日 | 歴史

光が丘の歴史 1…・・〈成増飛行場の話〉  

今年も終戦記念日が近づいています。

毎年この時期、私の中では、光が丘←グラントハイツ←太平洋戦争←成増飛行場 という光が丘の歴史を確認したい気持ちが強くなり、今年はブログに綴ってみることにしました。

戦争と光が丘の関係・・・光が丘の今むかし。

お時間あったら、おつきあいくださいね。

 

光が丘は東京都練馬区北部に位置する新興住宅地。

練馬区のイメージ『緑と太陽のまち』にちなんで名づけられ、1969年(昭和44年)に住居表示が施行された比較的新しい地名です。

(ちなみに、この年は弊社増田住宅が不動産屋を開業した年なんですね。)

戦前は田んぼや大根畑に謳われた静かな農村地帯。

そんな静かな村でしたが、1942年(昭和17年)戦局が激しくなると、日本陸軍は首都防衛のため、この地に飛行場を建設しました。それが「成増飛行場」です。

C) CLEAREO FOR TAKEOFF  (C) AXLS Plane Gallery  (C) WarBird Photos

戦中は、特攻隊の出撃基地ともなった成増飛行場。

きな臭い日の丸がついてますね・・・

The Narimasu airfield in snow, Type 4 Fighter HAYATE (C)松永弘志氏

色々と調べたら・・・

大雪の後は、近隣の女性たちが飛行場の雪掻きをしました・・・なんていうエピソードつきでリアルな写真が見つかりました。

昭和10年生まれの私の父は、近くに飛行機の格納庫があった話や飛行場をねらってB29が富士山のほうから低空飛行できた話を

時々します。

近隣の住民は、さぞかし怖かったでしようね・・・

 

そして、東京は丸焼けとなり、戦争は終わりました。

つづく

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