「もし僕の墓碑銘なんてものがあるとして、その文句を自分で選ぶことができるのなら、このように刻んでもらいたいと思う……
村上春樹
作家(そしてランナー)
1949-20××
少なくとも最後まで歩かなかった」
世界的に著名な作家になった村上春樹だが、じつは1982年秋、それまで経営していたジャズクラブをやめ、専業作家としてスタートしたときから走りつづけているランナーでもある。
この『走ることについて語るときに僕の語ること』(文芸春秋)と言う本は、村上自身が「走ること」と「作家としてあること」について、深く思考をめぐらしながら書いたメモワール。
たまに「走る」という情報をエッセイやコメントあたりから得ていたけれど、こんなに本格的に走りつづけてきたとは驚きだ。
毎年のようにフルマラソンに参加し、100キロマラソンも走破している。
本格的なランナーだ。
村上春樹ファンには常識かもしれないが、そうでない向きには、この作家に対する見方が変わるほどの、別の側面が浮かびあがってくる。
そしてリスペクトと親近感が生まれるのだ。
村上自身が前書きでこう書いている。
「走ることについて正直に書くことは、僕という人間について(ある程度)正直に書くことでもあった。途中からそれに気がついた。だからこの本を、ランニングという行為を軸にした一種の「メモワール」として読んでいただいてもさしつかえないと思う。
ここには『哲学』とまではいかないにせよ、ある種の経験則のようなものはいくらか含まれていると思う。たいしたものではないかもしれないが、それは少なくとも僕が自分の身体を実際に動かすことによって、オプショナルとしての苦しみを通して、きわめて個人的に学んだものである。汎用性はないかもしれない。でも何はともあれ、それが僕という人間なのだ」
作家として新しい境地を獲得していくために、走ることは修行という位置づけになるかもしれない。
とはいえ、「走る」ことを苦行としているわけでもない。
「しかし思うのだけれど、意志が強ければなんでもできてしまう、というものではないはずだ。世の中はそれほど単純にはできていない。というか正直なところ、日々走り続けることと、意志の強弱とのあいだには、相関関係はそれほどないんじゃないかという気さえする。僕がこうして二十年以上走り続けていられるのは、結局は走ることが性に合っているからだろう。
……人は誰かに勧められてランナーにはならない。人は基本的には、なるべくしてランナーになるのだ。」
つまりは走ることが好きなのだ。
人間、好きなことでなければ続かない。
世界各地での走る風景が描かれている。
ハワイのカウアイ島、マサチューセッツ州のケンブリッジ、ニューヨーク、ボストン、ギリシャのアテネ、北海道サロマ湖、そして東京。
「いかに走るか」、そして「作家としてどのような道のりをたどってきたか」がリアルに描かれている。
一つの作品としても面白い。
村上作品の中で、もっとも心に残る本になるかもしれない。