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井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

文章という「芸」

2018年12月23日 | 日本語

ある国家規模のイベントの役員を仰せつかり、さんざん
逡巡して、人様のご意見を伺ったりなどして、
結局お引き受けしたのだったが、このほどそれに関する
文章を書いてくれという依頼で、これは身の丈に
余るので応じない気でいたら、ある方に「なぜ」と
問われ、歯に衣着せずにもの言うタイプなので、
慎重を要するそのての文章が不得手なのだと
答えたら、「そういう大人の分別で書く文章も
芸のうちでしょう、あなたもプロなんだから」
と言われ、生憎大人の分別の持ち合わせは微量なのだが、
「芸のうち」が腹にこたえ、結局書くことに
したのだった。
下書き程度の文章は思いの外さらさらと書けたのだが
上滑りの美辞麗句に走り過ぎていぬかと思われ、
しかし本音を入れればいいということでもなく「大人」は場により当然、
言葉の温度も質も変えねばならない。日頃、政治家の語彙とトークの貧弱さを
あげつらっている身としてはここは背伸びしても
「大人」にならねばならぬ。今はいい修業の場を与えて
頂いたと思っている。

音楽家やダンサー、アスリートが日々の訓練を怠らぬよう、文章も
日々の研鑽が必要なのだ。


気色悪いネーミング

2018年12月09日 | 日本語

山手線に加わる新駅の名称が「高輪ゲートウェイ」と
聞き、その気持の悪さに辟易としている。

日本の地名はその漢字が土地の由来を表すので、
妙ないじり方はして欲しくないのだ。

どこだったか、地名は忘れてしまったが
六本木は西麻布界隈だったか、住所表記統一とかで、
簡略化され、愕然として以来だ。

しかも公募して1位がまっとうに「高輪」であるのに
対して、「高輪ゲートウェイ」は下位。
何のための公募か、応募した人たちの時間を
奪った結果で、言えば詐欺っぽいこんな選考結果、失礼だろう。

そして何という言葉への鈍感さ。

高輪という響きのいい言葉に横文字をくっつけなぜ、三流の名称に
貶めるのか。貶めたことにも気づかないのだろうが、
一般には悪評さくさくで、それが救いだ。

決まったもの詮無いことだが、今後のことがあるので
各地、「高輪ゲートウェイ」のごときみっともない
ネーミング改悪はしないようにお願いしたい。

何とか撤回できぬものか、とまだ未練たらしく。東京の
地図の一画が汚された思い。


独擅場と独壇場

2018年11月29日 | 日本語

東雲(しののめ)時をやや過ぎた頃、カフェラテを求めに
コンビニまでご先祖にご挨拶を捧げつつ歩く道すがらの大気は、
鼻孔と胸を洗うようで
心地よく、たいそう幸せを感じた。
まずは健康がありがたい。

コメント欄に書き込みを頂戴し、そこでお答えするつもり
だったのだが、日がやや打ち過ぎこちらでお返し
することにする。

独壇場(どくだんじょう)と独擅場(どくせんじょう)の
差異についてである。

字義の由来は独擅場(どくせんじょう)が正しい。しかし、
現代では独壇場(どくだんじょう)が定着して、独擅場(どくせんじょう)を
退けた状態になっている。

土偏「土」と手偏(扌)の混同による間違いであるが、間違われた
ほうが現在では用いられている。

意味は、その人の得意分野における一人勝ちの状態、とでも言えば
いいのだろうか。

拙文の冒頭に東雲と書いたが、これは朝の空が闇から光へと転じて
ほの明るむ束の間を指す。「しののめ」と読むのは古代の明り取りが
篠竹を編んだ目であったことからの転用だと聞く。さすれば、
本来は「篠の目」であろうか。(これに関しては知らぬ、ただ私が
そう思うだけである)
篠の目からうっすらさす光を見上げ、夜明けを迎える古代人の姿を
彷彿させるではないか。
当時は危険も多く、身辺に漂い始めた光にさぞほっとした
ことであろう。冬場であれば、いずれぬくい太陽が
空気を温めてくれる安堵感もあったろう。
東雲の射しようによっては、雨の到来を知り農作物の
あれこれの手順に心を砕いたかもしれぬ。

日本語の芳醇なさまを説明するのに私ならずとも
「四十八茶百鼠」を上げようが、他にもし日本語の
繊細多様な性質を表すには、あかつき、しののめ、あけぼのを
示したい。

四十八茶百鼠茶とグレーの色彩の位相(グラデーション)を示すなら、
あかつき、しののめ、あけぼのは徐々に明るむ朝の時間の推移を表す。

もっと細分化すれば、

明け(あけ)・夜明け(よあけ)・暁(あかつき)・東雲(しののめ)・曙(あけぼの)・黎明(れいめい)・払暁(ふつぎょう)・彼誰時(かわたれどき)と移行する。

かわたれどきは、昔は夕方にも使われていたが、やがて朝に限定されるようになり、
夕方は現在「たそがれ」誰ぞ彼、である。
光が不分明になり、誰何(すいか=あなたは誰かと問うこと)せねば
見分けがつかない状態であり、三島由紀夫ならこういう時「おぼめく」と
いう言葉を使う。小説中に(「金閣寺」であったか)その表現が
あったことを記憶している。

 

あかつき(暁)は現代ではすでに明るくなった状態を言うが、
いにしえでは、まだ夜が開け放つ前の暗がりを指していた。

と、こういう日本人の細やかであった感性を下敷きに置くと、
清少納言の「春は曙」と言い切る言葉そのものに、嬉しい心はずみが
みなぎる。

とこう書けば、言葉の芳醇さに於いて日本の独擅場だと
思われるが、漢語にも
朝・旦・晨・早という書き分けがある。
不勉強で一語一語の字義は知らぬ。ざっと調べてみたが
さほど細かな字義の違いはないように思える。

いずれにしても東洋人特有の感性ではあろう。と漢語も讃えつつ、
しかしそれでも日本語がその繊細さに於いて優るのではないかと、
思いたがっている日本人であるわたくしがいる。といって、闇雲に
そう思い込むのではなく、漢語にはない平仮名・カタカナを
わたくしたちが保持しているからという理由はある。

言語学者ならぬ、所詮素人の拙文、もし遺漏あらばいずれ
訂正させていただく。


暑中御見舞い申し上げます

2018年08月01日 | 日本語

お暑うございます。
皆様いかがお暮らしですか。

私は元気だし食欲も落ちないのですが、基本は納豆、ミョウガや高菜の
油炒めをのせた豆腐、果物、未精製豆乳で
シェークした青汁、エゴマ油とだし汁とごまをたっぷり振りかけた昆布、
それにローストしていないアーモンド三粒、クルミ粒、飲み物は
コーヒー系と、梅干しを入れたほうじ茶・・・・・時折ある会食では
ほぼ食べ放題、と栄養学の見地から言えば不埒な食生活なのですが、
顔色もいいし元気なので、これでいいやと思っています。

こんな質素な食生活なのに、いったんは10日間果物だけで
過ごしぺったんこになっていたお腹がまたふっくらして来たので
困ったものです。
他はすっきりしているので、たぶん腹部の筋肉が弱っているのでしょう。

ところで、表題の「暑中御見舞い」の文言をいつから残暑見舞いにすべきか
迷っていた時期があり、それで自分の誕生日8月6日以降出すのは
残暑見舞いとファジーに構えていたのですが概ね、立秋は
7日なので、間違いではなかったようです。

といっても諸説なので、8月半ばぐらいまでは感覚的にOKの
気がします。

こう暑くては、残暑見舞いも言語感覚的に違和感があるので
「立秋とは名ばかり」という定番が登場するのですが、
今どき暑中お見舞を出す人も、めっきり少なくなっているのでしょうね。

無事に秋を迎えましょう、というのも健康面だけではなく
このところの天候不順で、いつなんどき異変に見舞われるかもしれず
それも含めてのことです。

台風も東京の水瓶を潤うほどのこともなかったようで、このところあてにならない
記憶にある限り、東京が台風に荒れ狂うのは久しくないような気がします。
予報で警戒しながら肩透かしということが続いています。

台風は私、嫌いなほうではなく大きな風雨、雷など自然のエネルギーを
感じてわくわくするほうなのです。無論、災害レベルに至らない限りは、
です。

そうでなければ台風も、とりわけ東京には浄化の風雨であるように
感じています。野良猫たちが、どうしているか・・・・とそれで
気をもみはするのですが、彼らは私のように脆弱ではないので、
本能でどこかに、ひっそり身を守っているのでしょう。

ちなみにシャスタ山にいる方に金粉について更にうかがったら
私の場合、高次元からのメッセージというよりは
私に備わった物質化の能力であるかもしれない、とのこと。

となれば、私と会った後も金粉が出現する人は物質化の資質が
あるのかもしれません。私の場合、ほぼ一度だったと思うのですが
金粉ではなく、ダイヤモンドを微細に砕いたようなキラキラした
白金の粒が無数に衣服に現れたこともあります。

どうせなら、粒でなく塊でくれ。金粉を金塊に変えるほどの
物質化の力があればよいのに。

でも金粉でも、物理的な世界のすぐ脇に別の世界があることを
知っていただくには歓迎すべき現象なのかもしれませんね。

 

誤変換他、後ほど。

 


歌で学ぶ言葉

2018年07月28日 | 日本語

なにかのきっかけで、「雨に咲く花」という昔流行った歌を思い出し、
青江三奈さんや美空ひばりさん・・・など他の人達がカバー
した歌を聴きそれぞれが作曲家と作詞家の提示した世界観を
歌うのが興味深かったのですが、途中で歌詞が一箇所
人により違っているのに気づき・・・・
調べたら、とっくに話題になったことがあるのですね。

「窓に涙のセレナーデ」

「空に涙のセレナーデ」

で窓と空、一語ですが文字数の少ない歌詞の世界では
深みと情緒が、がらりと違うのです。

私は「窓」が正解だと思っています。

最初に出たレコードが「空」と歌っているので空だ、と結論づけする
人がいて、それがシンプルな答えかというといささかレコーディングの
現場を知っている立場で言わせて頂くと、その時の作詞家と
ディレクター、そして歌い手との力関係によるのですが、
井上ひろしさんが当時それほどの力を持っていたわけではないので、
ディレクターがここは「空」だとして、ひょいっと変えた
可能性があるのです。

想像の範疇でしかないので、これが事実かどうかは解りませんが
とりあえず、たまの作詞家としての私の感性から言わせていただけるなら
絶対に窓なのです。

というのは作詞家の生理として、意図的に用いる場合以外は
一曲中に同じ単語を重ねることは避けます。

「雨に咲く花」では「呼んでみたとて 遠い空」と
2コーラス目ですでに使われているので、3コーラス目で「空に涙のセレナーデ」
と「空」を重ねることは、作詞家の生理としてまずありません。

それに、「空に涙の セレナーデ」では、単に雨を表現しているだけで
タイトルで提示された雨を単純にリピートしているに過ぎません。
それに遠近法で言えば、空と空では幅がないのです。
「窓」と視線を下ろしたことで、窓を流れる水滴、かすかな雨音と
音までが添い、硝子に微かに映るこの歌のヒロイン、と情景が広がるのです。
空二つでは、ヒロインが空ばかり見上げて動きも単一です。
優れた作詞はカメラアングルを変えます。

1コーラス目がヒロインの心象風景

2コーラス目がヒロインが雨の戸外にいて、雨に打たれている花を見る

3そして室内でむせぶ

と、心の内側 ⇒ 雨降る戸外 ⇒ 室内 と構成もきれいです。

私のこの説が正しいという根拠はありません。ただ、一語でも
解釈がこうも違うということを述べてみたかったのです。

「空」をいつしか「窓」と歌い変えている歌手がいることが
私の説のいささか補強になるかもしれません。

作詞家が後から申し入れたのか、歌い手かディレクターの
感性で変更したのか、興味のある所ですが真相は解りません。
ただ「空」でしっくり納得できない人たちがいたことは
事実です。

八代亜紀さん、高橋真梨子 さん(したたるように色っぽい)、来生たかおさんの「雨に咲く花」を聴いてみましたが、八代さん、高橋さんが「窓」派でした。
台湾バージョンの歌手も字幕によると「窓」です。

それと「わたし」と歌うか「あたし」とするかでヒロイン像が微妙に変わります。
八代さんが「あたし」でした。皆さん当然だがうまい。
来生さんも女性歌手とは違う味わい。井上ひろしさんは男女の中間みたいな
歌い方です。

ヒットチャートの二位に駆け上った「夜に抱かれて」をN.Yの
スタジオにいた久保田利伸くんと電話で話し合っているとき
彼がどうしてもピッタリと来ない歌詞の部分があったのですが、
私がひょいと思いついて「禁じられぬままで⚫⚫⚫⚫恋は」と
いうところ、⚫の部分に「届かない」と入れ替えたら、久保田くん、
「やりましたね!」と納得した、とそんな経緯がありました。
私自身もあるべき箇所に、あるべき言葉が収まった快感がありました。


 
「知りたくないの」の作詞家であるなかにし礼さんがお書きになっていて、
覚えているのですが「あなたの過去など知りたくないの」の「過去」が
歌の言葉として硬すぎる、と菅原洋一さんから意見が来たそうで、
どういうやり取りがあったかは知りませんが、当初の「過去」でいいのです。
この「過去」を他の言葉に置き換えたら、そもそも詞の世界観が
壊れます。

それに故意に、耳に抵抗感のある言葉を使うのも作詞家の芸のうちで、
「燃える思いをぶっつけたいの」と、これもなかにし礼さんが
書いていましたが、敢えて「ぶつけたいの」ではなく、それまで
歌には登場しなかった言葉「ぶっつけ」を用いたのだと。
聞き手の耳へのインパクトとして。

「知りたくないの」も、ぶっつけたいの(曲名失念)も、
大ヒットしたので、なかにしさんの読みのほうが正しかったわけです。

私は日本語を学ぶ方法として、文部省唱歌と大正・昭和の
歌謡曲の詞を渉猟するよう、薦めています。
いい言葉がたくさん、拾えます。

昨今は、詩であり得る詞が少なくなったように感じています。
「音」サウンド優先で、言葉が耳に残らない事が多いのです。
これは良いフレーズだな、と感心することもないではないのですが、
日本語としての深みと精錬度という意味では昭和です。

平成もじき御代が改まり、文字通り昭和はいよいよ遠くなります。
日本語がまだ生き残っていたのが、昭和でした。

 

補遺 ああ。私の感性で正しかったのかもしれません。井上ひろし版がオリジナルだと思いこんでいたのですがこの歌、昭和10年にすでに出来ていました。
そのまさしくオリジナル詞が「窓」になっていました。
それと実を言うと「あたし」は違うだろうと思っていたのですが、これも正解、
作詞者は「わたし」とひらがなで指定しています。

ただ八代さんは「あたし」で八代ワールドを歌い上げているので、それはそれで。

昭和10年の動画には、当事の世相も織り込まれていて独特です。

更に追記するなら、「空」派の来生さんが谷村新司さんと歌っている時は「窓」になっていました。実に面白い。自ら作詞を手がけ言葉に繊細なセンサーを持つ谷村さんの助言か?

しかし解ってみれば、作詞の言葉のチョイスが昭和初期です。

「及ばぬことと」「むせぶ」「儘になるなら」など。

映画の主題歌だったのですね・・・・・。ハモンドオルガンの哀切なメロディーが
後の「君の名は」につながります。(アニメではありません。取って替わられた印象ですが)

 

関種子-雨に咲く花、映画主題歌、昭和歌謡・カラオケ、オリジナル歌手、中国語の訳文&解說

 

 

誤変換他、後ほど。