薩摩の下級藩士の家に生まれた西郷隆盛は、どのようにして明治維新の中心的役割を果たすようになったのか。大河ドラマ「西郷(せご)どん」の時代考証を担当する著者が、西郷の真実の姿をわかりやすく紹介する。
塗炭(とたん)の苦しみ
明治4年、1871年11月から6年9月にかけて、岩倉使節団留守の間、実質的には西郷内閣といえる期間があり、
その間に西郷主導で次のような大きな政策が施行された。
● 府県の統廃合
● 陸軍省、海軍省の設置(兵部省から分離)
● 学制の制定(明治5年2月、国民皆学を目指して公布)
● 新橋・横浜間鉄道開通
● 太陽暦の採用:明治5年11月
● 徴兵令の布告
● 地租改正
明治6年4月29日、明治天皇のお供をして習志野での日本最初の大演習に参加している。
西郷の側近、篠原国幹(くにもと)の見事な指揮ぶりに感心した天皇が、
「篠原にならえ」と褒めた言葉から「ならしの」という地名が生まれた。
天皇が2日間野営されたとき、天候が悪化して天皇の天幕も激しい風雨にさらされた。
西郷はこのとき、天皇の天幕の周りを一晩中歩きながら警備に努めたといわれている。
明治天皇「西郷を殺すことはなかった」と嘆いた気持ちに沿うように、
12年後、明治憲法発布をきっかけに名誉回復が行われた。
明治天皇は、憲法発布の大典の際、西郷の賊名を除き、改めて正三位を追贈された。
「西郷は、どうも人に分からないところがあったよ。大きい人間ほどそんなもので、小さいやつなら、どんなにしたって、すぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうではないのう」勝海舟
「なるほど西郷というやつは、分からぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。
もし馬鹿なら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったが、坂本龍馬もなかなか鑑識のあるやつだよ。
明治天皇は西郷のことをとても気に入っていたことで有名。
西郷とは不倶戴天(ふぐたいてん)と言われた岩倉具視でさえ、それなのになであのような行動(西南戦争)を起こしたのかと残念がっていた。
「黒ダイヤのように光る大きな目をしているが、しゃべるときの微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった。」
通訳:アーネストサトウ
明治24年、西郷の銅像建設の計画
建設費用の金一封を最初に差し出したのは明治天皇で、宮内省から500円、いまの時価で200万くらいの下賜(かし)があった.
作者は木彫の彫刻家:高村光雲。高村光太郎の父。皇居前の楠木正成(まさしげ)像の制作にも関わった大家だった。
普通は正装で健立されることの多い銅像の中で、この像はかなり変わっている。
短い筒袖の着物に、短刀を一本差して煙草入れを下げて、草履を履き、ウサギ狩りの縄をはさんでの狩猟姿をしている。
しかも、傍らには、犬をひいている。
実は作者は、陸軍大将の正装で原型を作ったのですが、ある日、建設委員がきて
「西郷さんは偉い人だけれでも、賊軍の大将としての錦の御旗(みはた)に手向かった人が、陸軍大将の正装をしているのはおだやかではない」ということになり、まったく官を退いて、平和にウサギ狩りでもしている姿ならよかろうと。
設置場所も、結局、彰義隊との戦いで薩摩兵が奮戦したゆかりの地、上野公園の崖っぷちになったという。
この犬の作者は、動物彫刻の名手、後藤貞行。
未亡人・線子(いとこ)除幕式で
「アラヨウ!宿ンしはこげんお人じゃなかったこてエ!(あれまあ!うちの人はこんなお人ではなかったのに!」
すると、隣にいた隆盛の弟である従道(じゅうどう)が夫人の足を踏んで「シッ!」とたしなめた。
(三男の信吾)隆盛を「大西郷」従道を「小西郷」と呼ぶ。
その夜、従道の邸で、一族の者が集まったとき、従道はこう言って訓戒したという。
「あの銅像は、故人の遺徳をしたって、世間の人々が金を出し合ってつくって下さったものでごわすから、
西郷家の者がかれこれ文句がましいことを言うてはなりもさん。ようごわすな」
糸夫人は、目を吊り上げた怖い目に描かれていることが気に入らず、
「じいさんは、目玉はたしかに大きかったけれど、まなざしは何となく慈愛のこもったものだった」
西郷隆盛は、一枚も写真を残していない。エドアルド・キヨッソーネの描いた肖像だけだった。
ちなみに、「除幕」という言葉は、西郷像のお披露目に際してわが国ではじめて使われた。
「たとえ陛下のご要望でも、臣下である自分が、醜い姿を撮って献上するなど、もってのほかのことだと考えたのでしょう」
エドアルド・キヨッソーネは実物の西郷に会ったことはなかった。
西郷の肖像画は「西南戦争」から6年後の明治16年1883年に描いたもの。
山形県中山町長崎小学校の校歌の第三番
「わが学びやのひらけはじめに
西郷卿(さいごうきょう)の臨席ありし
光めでたき礎守り
なおも磨かんいざいざ友よ」
この西郷は、隆盛ではなく弟の従道のことで、明治15年1882年に同校開校式に従道が臨席したことを、
大変な誉れとして後世に歌い継いだもの。
通常では、政治家・軍人などは、校歌に取り入れにくい題材ですが、
西郷家に対するこの庄内地方の特別な思いが、ここにも反映している。
身長は178cm、体重は110キロ。
歴史上の人物で身長がわかっている例
徳川慶喜 150cm
中岡慎太郎 153cm
勝海舟 156cm
他に諸説があるものの
村田新八 182cm
小松帯刀 176cm
川路利良 180cm
大久保利通 175~178cm
ちなみに篤姫と愛加那は155cm以上
西郷は奄美大島にいたころから肥満に。
酒は弱く下戸、脂身の黒豚肉やウナギの蒲焼が大好きで、また甘党であった。
人並みはずれた陰嚢を持っていたことで有名だった。「先生、大きゅうございますなぁ」
西南戦争後、首のない西郷の死体を本人だと特定するにあたって、巨大な陰嚢が決め手になった。
この真相は、沖永良部島に流刑になったとき、蚊に刺され、陰嚢水腫になったからだとされている。
隆盛は13歳のとき右ひじを斬られて剣が使えなくなり、息子の菊次郎も西南戦争で右足を切断
弟の従道は戊辰戦争で最初の戦場となった「鳥羽伏見の戦い」で、右耳に貫通銃創の重傷。
また大山巌は左目の視力がなく、まったく見えなかった。
(大山巌は西郷の従兄弟”)
明治の大人物を輩出した西郷家の人々には、障害者に近い人がたくさんいた。
「朝鮮半島は、ロシアが日本を攻めるときの通り道だ」
1850年「お由羅騒動」
斉彬は、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、船の帆を藩で作るために木綿紡績事業を興した。
藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉、溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業。
日本最初の国産蒸気船「雲行丸」
「雄藩」
西洋式軍艦「昇平丸」を建造し、幕府に献上。
「斉彬は、江戸の状況や天下のために、尽力するように西郷を使った」
「私には家来が大勢いるけど、役に立つものはいない。
ただ、西郷だけは、薩摩にとって貴重な宝です」
清水寺成就院の住職。月照(げっしょう)
「安政の大獄」
橋本左内斬首
近衛家から月照の保護を依頼された西郷は、薩摩が安全と考え帰郷。
しかし、父・斉興が実権を握っていた薩摩藩は保護しようとする気配はまったくなく、扱いに苦労した。
月照の追放を決め、西郷に「日向」へ送るように命令した。
これは「永送り(ながおくり)」といい、そこで亡き者にせよという命令だった。
恩人である月照を見捨てることのできない西郷は、とうとう、月照とともに死ぬ決意をした。
「ふたつなき道にこのみ(身)を捨小船(すておぶね) 波たたば立て風ふかばふけ」
藩は生き残った西郷に、奄美大島での潜居を命じた。
入水未遂は、本来、死に値する罪だったが、藩としても、斉彬が重用した西郷を無下に切り捨てるわけにはいかなかった。
流刑でなく、奄美大島に潜居という形。
西郷は「菊池源吾」と変名。
村の豪族:龍佐民の屋敷の離れに滞在
「ここは竜が隠れる地であるから、やがて潜っていた竜が天に昇ることもあるだろう」
大久保利通宛の手紙「島の女たちは美しく、京や大坂の女たちもかなわないだろう」
大柄な女性が好きだった。
愛加那も大きな女性で、京都祇園の茶屋女だったお虎も名前のとおり大柄で、お酒の好きな豪快な女性だったそうだ。
島民たちの野蛮さに閉口しながらも、その生活の厳しさに同情し、藩の島支配の過酷さにも言及。
松前藩のアイヌ民族に対する支配よりもひどいとまで言っている。
扶持米は6石から12石に増え、留守宅の弟・吉二郎には金25両が下賜されている。
西郷に「島妻」を世話しようとした。
島妻は連れ帰ることはできなかったが、子供が生まれれば島役人に採用されたり、妻にも手当てがついた。
「加那」は「愛しい人」という意味の愛称。
愛加那は毎朝、西郷の髪をすいて、その抜け毛をみな保存していた。
別れのときを考えて形見にしようとしたのかもしれないが、そのおかげでのちに西郷の血液型がB型と判明した。
「客人がいても、彼女のそばに寄り添い愛撫を惜しまなかったので、居合わす者が顔負けするほどであった」
ふたりが結婚したのは安政6年1859年、西郷は33歳、愛加那は23歳。
「奄美に来なかったら、西郷はあんなに大きな仕事はできなかったかもしれない」京セラ会長:稲盛和夫
徳之島への流罪
次男:菊草
さらに沖永良部島へ流罪
「島へ着いたら、牢屋に収容し、番人を二人つけ、一日中外へ出さないように厳重に監視しろ」
中原の温情で、二晩だけ親子らしい時間をすごすと、愛加那は島へ帰っていった。
和泊という港に用意された「ろうおく」の広さはわずか四畳。
壁はなく、雨戸もなく、牢格子で仕切ってるだけ。つまり、雨風ににさらされっぱなし。
冷たいご飯に塩を添えたものだけ。
「生麦事件」馬で行列を横切ろうとした英国人を、無礼者として殺傷した事件
「薩英事件」英国側の死傷者63名
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ」ニューヨーク・タイムズ紙
「第一次幕長戦争」
塩浸温泉・犬飼の滝
「第二次長州出兵」幕府の失敗に終わる
山内豊信(容堂)
「四侯会議」では、長州処分と兵庫港問題が緊急課題。
「薩土盟約」
小松帯刀は堂々と大政の返上を積極的に発言し、慶喜はこれを受け入れた。
「王政復古」
「小御所会議」まだ15歳の明治天皇臨席
「いざとなったら短刀一本あれば片付く」容堂暗殺
庄内藩等による江戸薩摩藩邸の焼討事件
鳥羽伏見の戦い
この時の京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた
薩長軍が錦の御旗を掲げた
日当山(ひなたやま)温泉
庄内藩、本間家の資金援助により最新式兵器購入
酒田飯森山:南洲神社
「南州翁遺訓」
指宿の鰻温泉
「私学校」校則
「正義公道を踏み、皇室を崇敬し、進んで国内に殉ずべき」
「吉野開墾社」
陸軍少将・桐野利秋:人斬り半次郎
明治9年「江華島事件」
大久保は同じ薩摩藩出身で大警視を務めていた川路利良に、薩摩の私学校に密偵を送りこむよう命じる。
「ボウズ(西郷のこと)、ヲ、シサツセヨ」という電報
「坊主を視察せよ」「坊主を刺殺せよ」とのふたつの解釈の仕方があることが、
のちの西南戦争につながったという説がある。
大量の武器や弾薬を奪う
「しもうた」「わがこと止む」「なぜ弾薬など盗んだのだ、弾薬に何の用があるのか」
「自分が鹿児島にいれば、こんなことにはならなかったのに」大隅半島の根占(ねじめ)にいた。
「おいの体は差し上げもそ」
挙兵の大義名分「政府に尋問の筋あり」として、東京への進軍開始
庄内の松が岡開墾場
和田越の戦い
政府軍の実質総大将「山県有朋」
西郷直筆の解散令
菊次郎を託すと、二匹の犬も放し、
可愛岳:えのだけ「夜這いのごたる」
「そろそろ・・・」「まだ・・・」「まだ・・・」「晋どん、もうよか」
「腹を斬るのはさぞ痛かろう」
給料が500円と高給にもかかわらず、日本橋小網町の家賃は3円、生活費は書生たちの分まで含めて15円。
西郷を気に入っていた明治天皇は西南戦争のとき、公務をせず、乗馬の練習や勉強を拒否した。
天皇はさらに翌年、西郷を追悼するための歌会を開いている。
逆賊となった人間の追悼歌会など、前代未聞のできごとだった。
明治天皇:「西郷の罪を誹謗せず詠うように、今回の反逆のことだけ論じぬように、
そんなことをすれば、維新における大きな功績が覆い隠されることになるから注意するように」と述べられた。
「雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂」
熊本市田原坂西南戦争戦争記念館
西郷の牢屋敷
「西郷南州記念館」
塗炭(とたん)の苦しみ
明治4年、1871年11月から6年9月にかけて、岩倉使節団留守の間、実質的には西郷内閣といえる期間があり、
その間に西郷主導で次のような大きな政策が施行された。
● 府県の統廃合
● 陸軍省、海軍省の設置(兵部省から分離)
● 学制の制定(明治5年2月、国民皆学を目指して公布)
● 新橋・横浜間鉄道開通
● 太陽暦の採用:明治5年11月
● 徴兵令の布告
● 地租改正
明治6年4月29日、明治天皇のお供をして習志野での日本最初の大演習に参加している。
西郷の側近、篠原国幹(くにもと)の見事な指揮ぶりに感心した天皇が、
「篠原にならえ」と褒めた言葉から「ならしの」という地名が生まれた。
天皇が2日間野営されたとき、天候が悪化して天皇の天幕も激しい風雨にさらされた。
西郷はこのとき、天皇の天幕の周りを一晩中歩きながら警備に努めたといわれている。
明治天皇「西郷を殺すことはなかった」と嘆いた気持ちに沿うように、
12年後、明治憲法発布をきっかけに名誉回復が行われた。
明治天皇は、憲法発布の大典の際、西郷の賊名を除き、改めて正三位を追贈された。
「西郷は、どうも人に分からないところがあったよ。大きい人間ほどそんなもので、小さいやつなら、どんなにしたって、すぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうではないのう」勝海舟
「なるほど西郷というやつは、分からぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。
もし馬鹿なら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったが、坂本龍馬もなかなか鑑識のあるやつだよ。
明治天皇は西郷のことをとても気に入っていたことで有名。
西郷とは不倶戴天(ふぐたいてん)と言われた岩倉具視でさえ、それなのになであのような行動(西南戦争)を起こしたのかと残念がっていた。
「黒ダイヤのように光る大きな目をしているが、しゃべるときの微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった。」
通訳:アーネストサトウ
明治24年、西郷の銅像建設の計画
建設費用の金一封を最初に差し出したのは明治天皇で、宮内省から500円、いまの時価で200万くらいの下賜(かし)があった.
作者は木彫の彫刻家:高村光雲。高村光太郎の父。皇居前の楠木正成(まさしげ)像の制作にも関わった大家だった。
普通は正装で健立されることの多い銅像の中で、この像はかなり変わっている。
短い筒袖の着物に、短刀を一本差して煙草入れを下げて、草履を履き、ウサギ狩りの縄をはさんでの狩猟姿をしている。
しかも、傍らには、犬をひいている。
実は作者は、陸軍大将の正装で原型を作ったのですが、ある日、建設委員がきて
「西郷さんは偉い人だけれでも、賊軍の大将としての錦の御旗(みはた)に手向かった人が、陸軍大将の正装をしているのはおだやかではない」ということになり、まったく官を退いて、平和にウサギ狩りでもしている姿ならよかろうと。
設置場所も、結局、彰義隊との戦いで薩摩兵が奮戦したゆかりの地、上野公園の崖っぷちになったという。
この犬の作者は、動物彫刻の名手、後藤貞行。
未亡人・線子(いとこ)除幕式で
「アラヨウ!宿ンしはこげんお人じゃなかったこてエ!(あれまあ!うちの人はこんなお人ではなかったのに!」
すると、隣にいた隆盛の弟である従道(じゅうどう)が夫人の足を踏んで「シッ!」とたしなめた。
(三男の信吾)隆盛を「大西郷」従道を「小西郷」と呼ぶ。
その夜、従道の邸で、一族の者が集まったとき、従道はこう言って訓戒したという。
「あの銅像は、故人の遺徳をしたって、世間の人々が金を出し合ってつくって下さったものでごわすから、
西郷家の者がかれこれ文句がましいことを言うてはなりもさん。ようごわすな」
糸夫人は、目を吊り上げた怖い目に描かれていることが気に入らず、
「じいさんは、目玉はたしかに大きかったけれど、まなざしは何となく慈愛のこもったものだった」
西郷隆盛は、一枚も写真を残していない。エドアルド・キヨッソーネの描いた肖像だけだった。
ちなみに、「除幕」という言葉は、西郷像のお披露目に際してわが国ではじめて使われた。
「たとえ陛下のご要望でも、臣下である自分が、醜い姿を撮って献上するなど、もってのほかのことだと考えたのでしょう」
エドアルド・キヨッソーネは実物の西郷に会ったことはなかった。
西郷の肖像画は「西南戦争」から6年後の明治16年1883年に描いたもの。
山形県中山町長崎小学校の校歌の第三番
「わが学びやのひらけはじめに
西郷卿(さいごうきょう)の臨席ありし
光めでたき礎守り
なおも磨かんいざいざ友よ」
この西郷は、隆盛ではなく弟の従道のことで、明治15年1882年に同校開校式に従道が臨席したことを、
大変な誉れとして後世に歌い継いだもの。
通常では、政治家・軍人などは、校歌に取り入れにくい題材ですが、
西郷家に対するこの庄内地方の特別な思いが、ここにも反映している。
身長は178cm、体重は110キロ。
歴史上の人物で身長がわかっている例
徳川慶喜 150cm
中岡慎太郎 153cm
勝海舟 156cm
他に諸説があるものの
村田新八 182cm
小松帯刀 176cm
川路利良 180cm
大久保利通 175~178cm
ちなみに篤姫と愛加那は155cm以上
西郷は奄美大島にいたころから肥満に。
酒は弱く下戸、脂身の黒豚肉やウナギの蒲焼が大好きで、また甘党であった。
人並みはずれた陰嚢を持っていたことで有名だった。「先生、大きゅうございますなぁ」
西南戦争後、首のない西郷の死体を本人だと特定するにあたって、巨大な陰嚢が決め手になった。
この真相は、沖永良部島に流刑になったとき、蚊に刺され、陰嚢水腫になったからだとされている。
隆盛は13歳のとき右ひじを斬られて剣が使えなくなり、息子の菊次郎も西南戦争で右足を切断
弟の従道は戊辰戦争で最初の戦場となった「鳥羽伏見の戦い」で、右耳に貫通銃創の重傷。
また大山巌は左目の視力がなく、まったく見えなかった。
(大山巌は西郷の従兄弟”)
明治の大人物を輩出した西郷家の人々には、障害者に近い人がたくさんいた。
「朝鮮半島は、ロシアが日本を攻めるときの通り道だ」
1850年「お由羅騒動」
斉彬は、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、船の帆を藩で作るために木綿紡績事業を興した。
藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉、溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業。
日本最初の国産蒸気船「雲行丸」
「雄藩」
西洋式軍艦「昇平丸」を建造し、幕府に献上。
「斉彬は、江戸の状況や天下のために、尽力するように西郷を使った」
「私には家来が大勢いるけど、役に立つものはいない。
ただ、西郷だけは、薩摩にとって貴重な宝です」
清水寺成就院の住職。月照(げっしょう)
「安政の大獄」
橋本左内斬首
近衛家から月照の保護を依頼された西郷は、薩摩が安全と考え帰郷。
しかし、父・斉興が実権を握っていた薩摩藩は保護しようとする気配はまったくなく、扱いに苦労した。
月照の追放を決め、西郷に「日向」へ送るように命令した。
これは「永送り(ながおくり)」といい、そこで亡き者にせよという命令だった。
恩人である月照を見捨てることのできない西郷は、とうとう、月照とともに死ぬ決意をした。
「ふたつなき道にこのみ(身)を捨小船(すておぶね) 波たたば立て風ふかばふけ」
藩は生き残った西郷に、奄美大島での潜居を命じた。
入水未遂は、本来、死に値する罪だったが、藩としても、斉彬が重用した西郷を無下に切り捨てるわけにはいかなかった。
流刑でなく、奄美大島に潜居という形。
西郷は「菊池源吾」と変名。
村の豪族:龍佐民の屋敷の離れに滞在
「ここは竜が隠れる地であるから、やがて潜っていた竜が天に昇ることもあるだろう」
大久保利通宛の手紙「島の女たちは美しく、京や大坂の女たちもかなわないだろう」
大柄な女性が好きだった。
愛加那も大きな女性で、京都祇園の茶屋女だったお虎も名前のとおり大柄で、お酒の好きな豪快な女性だったそうだ。
島民たちの野蛮さに閉口しながらも、その生活の厳しさに同情し、藩の島支配の過酷さにも言及。
松前藩のアイヌ民族に対する支配よりもひどいとまで言っている。
扶持米は6石から12石に増え、留守宅の弟・吉二郎には金25両が下賜されている。
西郷に「島妻」を世話しようとした。
島妻は連れ帰ることはできなかったが、子供が生まれれば島役人に採用されたり、妻にも手当てがついた。
「加那」は「愛しい人」という意味の愛称。
愛加那は毎朝、西郷の髪をすいて、その抜け毛をみな保存していた。
別れのときを考えて形見にしようとしたのかもしれないが、そのおかげでのちに西郷の血液型がB型と判明した。
「客人がいても、彼女のそばに寄り添い愛撫を惜しまなかったので、居合わす者が顔負けするほどであった」
ふたりが結婚したのは安政6年1859年、西郷は33歳、愛加那は23歳。
「奄美に来なかったら、西郷はあんなに大きな仕事はできなかったかもしれない」京セラ会長:稲盛和夫
徳之島への流罪
次男:菊草
さらに沖永良部島へ流罪
「島へ着いたら、牢屋に収容し、番人を二人つけ、一日中外へ出さないように厳重に監視しろ」
中原の温情で、二晩だけ親子らしい時間をすごすと、愛加那は島へ帰っていった。
和泊という港に用意された「ろうおく」の広さはわずか四畳。
壁はなく、雨戸もなく、牢格子で仕切ってるだけ。つまり、雨風ににさらされっぱなし。
冷たいご飯に塩を添えたものだけ。
「生麦事件」馬で行列を横切ろうとした英国人を、無礼者として殺傷した事件
「薩英事件」英国側の死傷者63名
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ」ニューヨーク・タイムズ紙
「第一次幕長戦争」
塩浸温泉・犬飼の滝
「第二次長州出兵」幕府の失敗に終わる
山内豊信(容堂)
「四侯会議」では、長州処分と兵庫港問題が緊急課題。
「薩土盟約」
小松帯刀は堂々と大政の返上を積極的に発言し、慶喜はこれを受け入れた。
「王政復古」
「小御所会議」まだ15歳の明治天皇臨席
「いざとなったら短刀一本あれば片付く」容堂暗殺
庄内藩等による江戸薩摩藩邸の焼討事件
鳥羽伏見の戦い
この時の京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた
薩長軍が錦の御旗を掲げた
日当山(ひなたやま)温泉
庄内藩、本間家の資金援助により最新式兵器購入
酒田飯森山:南洲神社
「南州翁遺訓」
指宿の鰻温泉
「私学校」校則
「正義公道を踏み、皇室を崇敬し、進んで国内に殉ずべき」
「吉野開墾社」
陸軍少将・桐野利秋:人斬り半次郎
明治9年「江華島事件」
大久保は同じ薩摩藩出身で大警視を務めていた川路利良に、薩摩の私学校に密偵を送りこむよう命じる。
「ボウズ(西郷のこと)、ヲ、シサツセヨ」という電報
「坊主を視察せよ」「坊主を刺殺せよ」とのふたつの解釈の仕方があることが、
のちの西南戦争につながったという説がある。
大量の武器や弾薬を奪う
「しもうた」「わがこと止む」「なぜ弾薬など盗んだのだ、弾薬に何の用があるのか」
「自分が鹿児島にいれば、こんなことにはならなかったのに」大隅半島の根占(ねじめ)にいた。
「おいの体は差し上げもそ」
挙兵の大義名分「政府に尋問の筋あり」として、東京への進軍開始
庄内の松が岡開墾場
和田越の戦い
政府軍の実質総大将「山県有朋」
西郷直筆の解散令
菊次郎を託すと、二匹の犬も放し、
可愛岳:えのだけ「夜這いのごたる」
「そろそろ・・・」「まだ・・・」「まだ・・・」「晋どん、もうよか」
「腹を斬るのはさぞ痛かろう」
給料が500円と高給にもかかわらず、日本橋小網町の家賃は3円、生活費は書生たちの分まで含めて15円。
西郷を気に入っていた明治天皇は西南戦争のとき、公務をせず、乗馬の練習や勉強を拒否した。
天皇はさらに翌年、西郷を追悼するための歌会を開いている。
逆賊となった人間の追悼歌会など、前代未聞のできごとだった。
明治天皇:「西郷の罪を誹謗せず詠うように、今回の反逆のことだけ論じぬように、
そんなことをすれば、維新における大きな功績が覆い隠されることになるから注意するように」と述べられた。
「雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂」
熊本市田原坂西南戦争戦争記念館
西郷の牢屋敷
「西郷南州記念館」
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