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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
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1)史上最大の決断 「ノルマンディー上陸作戦」を成功に導いた賢慮のリーダーシップ

2021年02月08日 12時41分35秒 | 読書・戦争兵器


空前絶後のプロジェクト「Dデイ」成功の本質。連合軍を率いた「偉大なる平凡人」最高司令官アイゼンハワー、天才政治家チャーチル、猪突猛進の指揮官パットン…多士済々の知略と努力が活路を拓いた!リーダーたちが織りなす戦場の決断の軌跡。

敗戦の教訓(ヒトラーの挑戦とチャーチルの英断―「電撃戦」で始まった第2次世界大戦
「フランス敗れたり」の衝撃とチャーチルの東奔西走―バトル・オブ・ブリテンから連合国の成立まで)
リーダーの選定(“偉大なる平凡人”アイゼンハワーの成長―連合軍3度の上陸作戦
宰相たちの戦略とリーダーシップ―欧州本土上陸「大君主作戦」)
戦いの現場(現場指揮官の決断と覚語―Dデイ1944年6月6日
「戦後」を見据えたリーダーたちの思惑―パリ解放、そして最後の戦いへ)
決断の本質(ノルマンディー上陸作戦の戦略論―複雑系戦史の視点
アイゼンハワーのリーダーシップ―フロネシスの視点)

計画から実行まで2年2ヶ月を費やし、従軍した将兵は300万名に及ぶ。
人工港の建設や水陸両用戦車の開発、
史上最大の「知恵比べ」だったのである。

ノルマンディー上陸作戦は、実際に関わった将兵の数や使われた武器の物量が史上最大であるとともに、国籍を異にした多数の政治家が、作戦の計画から決行に至る戦略に深く関与したという意味でも史上最大、史上初であった。

戦略という言葉の語源は古代ギリシャ語のストラテゴスであり、「将軍の仕事」という意味である。戦略は「国家の資源をどう使うか」を決める大戦略、「いまある武力でどう戦うか」を決める軍事戦略、「いつ、どこでどんな戦いを行うか」を決定する作戦戦略の3つに分かれる。

それらの下に来るのが、個別具体にどう戦うかを決める戦術である。戦術は古代ギリシャ語である「タクティトス」が起源で、「部隊を配備する、配備につける」という意味をもつ。

「戦略とは戦闘を使用する方法であり、戦術とは戦闘力を使用する方法である」『戦争論』

1941年6月22日に始まったドイツ軍のソ連侵略作戦:バルバロッサ(赤いひげ)作戦
スターリンが唯一評価していたのがノルマンディー上陸作戦だった。
それが欧州における第二戦線となることで、ソ連の負担が大きく減じると考えていたのである。

ルーズベルト:「ナチスの軍艦は大西洋のガラガラ蛇」

1940年6月5日、ドイツ軍、フランスへ侵攻
6月10日、ノルウェー降伏
6月14日、ドイツ軍、パリ入城
1940年7月10日~10月31日、航空戦、英本土防衛「バトル・オブ・ブリテン」
7月16日、イギリス上陸作戦「シー・ライオン(あしか)作戦」発令
10月12日、シー・ライオン作戦中止決定(英本土上陸を断念)
11月10日、日本、紀元前2,600年式典

~独ソ開戦「バルバロッサ作戦」発動~~
燃料や物資の補給問題も露呈し始めた。ソ連の鉄道はドイツとレール幅が異なるため、そのままでは兵や物資の運搬に使えないことが明らかになった。歩兵が戦車から遅れ、進撃スピードがどんどん落ちていった。

1941年12月7日、日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃
12月8日、アメリカ・イギリス、日本に宣戦布告
12月11日、ドイツ、アメリカに宣戦布告

「大統領閣下、日本はどうしたというのですか?」
「日本は真珠湾を攻撃しました。いまや我々は同じ船に乗ったわけです」
「これで確かに事は簡単になります。あなた方の神のご加護をお祈りします」

「アメリカと開戦した場合、日本軍は全勢力を傾けて真珠湾に攻撃を仕掛ける準備をしている」
そうなったら、日本に発砲させる策略を一から練りなおさねばならず、アメリカの参戦がさらに遅れてしまうと。おかしなことがまだある。真珠湾攻撃の直前、最新鋭の空母、エンタープライズとレキシントンがスターク作戦部長の命によって、それぞれウェーキ島とミッドウェイ島に、陸軍の航空機を運ぶように指示され、出港していたのだ。真珠湾に残ったのはアリゾナをはじめ、旧型の軍艦だった。陰謀派は、ノックス海軍長官が虎の子の空母を守るため、ルーズベルトの許可を受け非難させたと主張する。

1942年元旦、「連合国共同宣言」が発せられた。
枢軸国との戦争において、単独講和はしないという内容で26ヵ国が名を連ねている。
アメリカ・イギリス・ソ連・中華民国・オーストラリア・ベルギー・カナダ・コスタリカ・キューバ・チェコスロヴァキア・ドミニカ・エルサドバドル・ギリシャ・グァテマラ・ハイチ・ホンジュラス・インド・ルクセンブルグ・オランダ・ニュージータンド・ニカラグア・ノルウェー・パナマ・ポーランド・南アフリカ・ユーゴスラビア。

アイゼンハワーは戦車およびその役割について徹底的に知識を吸収し、部下に教え込んだ。
キャンプ・コルト(戦車隊員準備訓練施設)で学んだことが、ノルマンディーで生きた。
その後、キャンプ・ミードの歩兵戦車学校で5歳年長のジョージ・パットンと出会う。
戦車戦のパイオニアとして、2人は親しい友人となった。彼らは戦車をボルトやナットの段階まで分解して、さまざまな実験を繰り返した。遂にはその設計まで細かく研究し、自動化部隊が全米を横断できることも確認した。

ダグラス・マッカーサーのように仕官学校をトップで卒業したわけでもなく、凡庸な経歴だったアイゼンハワーが、「史上最大の作戦」の最高司令官にまで昇りつめることができたのか。

第一次世界大戦の欧州戦跡を詳しく見て回り書いた戦場案内書が、時の陸軍参謀総長のダグラス・マッカーサーに目を掛けられ、スタッフとして迎えられたのだ。
参謀総長付となり、マッカーサーの忠実な部下として働きながらも、アイゼンハワーは彼の力ずくのやり方には不満があった。
のちにアイゼンハワーは部下に冗談でこう言っている。
「私は50人のマッカーサーがいても、1人のジョージ・マーシャルと交換するつもりはない」
それから訂正して続けた。
「畜生、私は何を言っているのだ。一人のマッカーサーだって手に負えないではないか」

39年2月に大戦が勃発したことによって、アイゼンハワー中佐ははフィリピンから日本経由で帰国の途につく。
◆タバコはキャメルで、コカコーラを愛飲し、西部劇小説とポーカーが何より好きだった。そうした人間的素朴さの裏に、繊細な知性と厳しい論理観を持っていた。終戦直前、列車1両分のドイツ軍捕虜を輸送した際、目的地に着き、扉を開けると、130名の捕虜が換気不足のため、すし詰めの車内で窒息死していた。彼は徹底調査をすぐに命じ、アメリカ大使館に対して、ドイツ軍高等司令部に謝罪文を送るよう求めた。前代未聞の処置だった。そこには、「米軍要員の怠慢の罪であることが明らかになれば、彼らに適切な処理が取られるであろう」

1942年6月、アイゼンハワーはロンドンに赴任すると、北フランス侵攻の具体化に取り組みはじめた。それは「ラウンドアップ(狩り集め)作戦」と名づけられた。
②「ジムナスト(体操選手)作戦」
③「スレッジハンマー(大槌)作戦」
「トーチ(たいまつ)作戦」
総司令官にはアメリカ人が就くよう要請した。
それを受け、マーシャルが抜擢したのがアイゼンハワーだったのである。

連合国軍最初の上陸戦「トーチ作戦」
トーチ作戦が目指す上陸地点は3ヶ所に決まった。
カサブランカ、アランおよびアルジェである。

2度目の上陸作戦「ハスキー作戦」
シチリア島への上陸作戦は「ハスキー(エスキモー)作戦」と名付けられた。
その時点では史上最大の敵前上陸作戦だった。
シチリアへの一番乗りはアメリカ第82空挺師団のグライダー部隊だった。グライダーの3分の1以上が間違って海に落ち、搭乗員の多くが溺死してしまった。
上陸後の目標は、島の北東端にある都市メッシーナだった。

「もしこの平手打ちの事件が外部に漏れたら、パットンは世論の袋叩きに遭うだろう。この戦争での軍役もおしまいだ。でもそれは絶対にあってはならない。パットンはこれから欧州でやらなければならない戦争に欠かせない男なんだよ」

ロシア南西部で行われた「クルクスの戦いは、双方で6,000両以上もの戦車がぶつかりあう「史上最大の戦車戦」となった。
ベラルーシではソ連最大の反抗戦「パグラチオン作戦」が発動される。

==欧州本土上陸作戦「大主君(オーバーロード)作戦」==
ディエップ上陸急襲作戦
1942年8月19日、フランスのディエップでの「ジュビリー作戦」
攻撃開始から撤退完了までたった9時間だったが、作戦に参加した約6,000名のうち、無事帰還できたのは約2,500名に過ぎない。

~~多大な犠牲から得た教訓~~
①上陸作戦前に制空権を確保すること。
②艦砲射撃による強力な援護を行うこと
③司令官用の専用艦を用意すること(空・海・海岸との連絡用)
④砂浜でも稼動する装甲戦闘車両を開発すること。
⑤海岸に設けられた障害物の除去手段を考えること。
⑥港がない場合、上陸後の補給(物資・兵員)手段を考えること。

陸海空三軍のロジスティックス(兵站)に関する知識
護衛空母は文字通り、サブマリン・ハンターだった。
圧倒的に不足していたのは、上陸用舟艇のなかでも戦車揚陸船(LST)だった。

「この付近は紀元前202年、スキピオとハンニバルが戦った第二次ポニエ戦争の古戦場ではないだろうか」

テヘラン会談でスターリンは冒頭でこう言った。
「ソ連はドイツが敗北したら、即刻、日本に対して立ち上がるつもりだ」
以前もこの言葉を彼はたびたび口にしていたが、ルーズベルトとチャーチルを前にした今回の発言は、断然、その重みが違った。

チャーチルはルーズベルト、スターリンという米ソ両巨頭に対峙しなければならない自分自身を、「強大なアメリカン・バッファロー」と「両手足を大きく広げるロシア熊」の間で苦悩する「小さく哀れなイギリス・ロバ」と皮肉った。

==動き出したノルマンデー上陸作戦==
欺瞞作戦は「ボディーガード作戦」と名づけられた。
「フォーティチュード(不屈の精神)作戦」
「フォーティチュード・ノース作戦」
「フォーティチュード・サウス作戦」
アメリカ「第一軍集団」という幽霊部隊が作られ、パ=ド=カレー地域からフランスに上陸することになっていた。この軍集団の司令官に選ばれたのが、かのパットンだった。
連合軍はその高名さを欺瞞作戦に利用したのだ。
偽りの上陸用舟艇、風船のようなゴム戦車、ダミー野砲、ダミー戦車揚陸艇、ダミー戦闘機がつくられ要地に並べられた。

ドイツ本土昼間爆撃「ポイントブランク(直射)作戦」
巨大な人工港「マルベリー(桑の実)」
「プルート(冥王)計画」
イギリスのサウサンプトン沖のワイト島に加圧送油基地を置き、そこからコタンタン半島ケルクヴィルまで長さ110kmの海底に送油管が敷設された。実際の作業はコタンタン半島の要衝シェルブール港を占領したあとから始まった。1日あたり455万リットルの石油を送ることができた。

~ホバートの珍妙な戦車~
「水陸両用戦車:DD戦車」・・・海上ではキャンパスで戦車を覆い、空気を詰めて浮上、後部の2基のスクリューで前進した。
ボビン戦車」・・・上方には100mほどのキャンパス・マットがボビン(糸巻き)に取り付けられ、それを敷いていくことで、装甲車両用の道を確保した。
クラブ(蟹)とあだ名を付けられた地雷処理戦車・・・前面に突き出たドラムに取り付けられた鎖状のフレイル(殻竿)を回して地面を叩きつけ、地雷を爆発させる。
クロコダイル(鰐)戦車」・・・燃料と圧縮窒素を搭載した装甲トレーラーを牽引、機銃に換えて火炎放射ノズルを装備した火炎放射戦車。火炎放射の射程距離は110mだった。

アイゼンハワー自著『ヨーロッパ十字軍』
「イギリス人とうまくやれ。無理なら帰、でもアメリカ魂を忘れるな」

==上陸地点と日時決定!==
アイゼンハワーと海軍総司令官ラムゼーの間で5月1日に合意に達していた。
すなわち、月齢と潮の干満、そして日の出という3つの条件が揃う必要があった。
連合軍の気象予想組織はドイツ軍と比べると格段に優秀だった。
ベストタイミングは、引き潮の後、推進力のある満ち潮に乗って、できるだけ速やかに上陸することだった。

~24時間の作戦延期~
イギリス空軍気象部のジェームス・スタッグ大佐
「翌5日は視界が悪いため、空軍の援護が不可能であり、艦砲射撃も威力を失い、上陸用舟艇は操舵が困難となり、沈没する恐れが高い」というのだ。

それまでド・ゴールを筆頭にフランス側に対する正式な情報提供は全く行われていなかった。ルーズベルトがド・ゴールを信頼していなかったから、というのが最大の理由だが、その他に、彼らの使う暗号があまりにお粗末であったことも影響していた。大事な作戦の全貌がドイツ軍に筒抜けになる可能性が大きかったのだ。
情報提供を行っていた唯一の例外が、フランス国内のレジスタンス勢力を束ねる事実上のフランス本国軍司令官ケーニグで、アイゼンハワーの直属の部下として働いていた。空挺部隊が必要とした詳細な現地情報も彼らレジスタンスの協力なくして入手は到底不可能だった。

~Dデイは6月6日に決定~
スタッグは意外な予想を口にした。
「悪天候に切れ目ができ、今日の午後1時から、今まで予期されなかった好天が36時間続く可能性がある」と。36時間の好天では万全な天候とはいえなかった。初期の上陸が成功したとしても、悪天候が再び襲ってきたら、後続部隊の上陸が途絶えてしまう。そうなったら、先に上陸した部隊が孤立し、ドイツ軍の餌食になる可能性がある。

アイゼンハワーは翌日の攻撃開始をこう言って表明した。
「よろしい。やろう。We'll go!!)」
5日午前4時15分のことであった。

~死地に赴く兵士との会話~
アメリカ陸軍第101空挺師団の本拠地を訪れ、現場に一番乗りする兵士を激励するためだった。
アイゼンハワーは、ところで君は怖いか、と質問したところ、兵士は、実は恐いです、と正直に答えた。アイクは彼にこうアドバイスした。
「そうとも、恐くないやつは大馬鹿野郎だ。ただし、コツがある。もし足を止めたらその瞬間に隙ができる。そうなるとやられる。肝心なのは常に動き続けることだ」

テイラー少将は事前に空挺部隊の部下にこう説いていた。
「うっかり敵を生かして捕虜にすると、任務遂行に支障をきたすおそれがある。
そうするのが一番と判断したら、捕虜は始末しろ」
自らの責任において捕虜射殺の命令を出したのだった。

兵士たちはC-47輸送機に次々と乗り込み始めた。
最後の輸送機が離陸する真夜中過ぎまで見守り続けた。
目には明らかに光るものがあった。
さあ、始まった。もう誰も止めることはできない




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