
禁煙にチャレンジし続けて20年。もうあきらめるべきなのか…、いいや、いつの日かきっと成功してみせる! カフェの禁煙席で優雅に微笑む日を夢見るヘビースモーカーおばさん・岩崎佐和子の挑戦の日々を描いた禁煙奮闘小説
昨夜遅くに三浦先生から届いたメールを読み返した。
いよいよ、禁煙開始ですね。心の準備は整いましたか?これから述べることは重要なことですから、きっちりと実行してくださいね。
【前日までに確実に実行しておくこと】
1:喫煙者であるご主人とは部屋を別々にする。
2:家族、友人、勤務先の人などに禁煙を宣言する。
3:タバコ、ライター、灰皿を捨てる。タバコはそのままゴミ箱に捨てるのではなく、水に浸してから捨てる(拾い出して吸う可能性をなくすため)
【禁煙一日目の過ごし方】
1:朝食は果物と野菜だけにする。
2:昼食は軽くする。肉は食べない。コーヒーは厳禁。
3:夕食も昼食と同じ。アルコールは絶対に口にしないこと。
4:喫煙者に近づかない。特に喫煙者である家族には要注意。
佐和子はタバコの煙を吐き出しながら、もう一度メールの文字を追ってみた。確かにどの本にも書いてある平凡なことばかりだが、見方を変えてみれば、それは王道だからとも言えるのではないか。
その夜、どんどんと気分が落ち込んでいくのを止められなかった。いよいよ明日からタバコを吸えなくなると思うと、つらい気持ちになった。会社員にとって、ただでさえ月曜日は会社に行きたくないものなのに、そのうえタバコを我慢することが加わるのだ。
その夜は、いつにも増してタバコの本数が増えた。
「さすが沢口君、言うことが違うね。実力を見せてやろうじゃないか。はっきり言って、俺はタバコを吸わない部下より吸う部下のほうが好きだよ」
1週間後、病院に出向いた。
「えっ?吸っちゃったの?だめじゃない」
「ええっと・・・開始日が6月1日でしょう。今日は6月6日だから、まだ6日じゃないの。いつから吸ってしまったの?」
「6月1日です」
消え入りそうな声で言う。
「は?信じられない。それで何本?」
何本と言えるような少ない数ではなかった。
1日目は新入社員の男性からもらいタバコをしたあと、昼休みにコンビニに走り、タバコとライターを買ってしまった。それでも頑張って我慢に我慢を重ね、その日は12本しか吸わなかった。ああ、今日も失敗だと思ったと同時に、今日はもういいことにしようという気楽な気分になり、いや、本当はヤケクソだったのだが、あっというまにタバコは箱ごとなくなった。
「じゃあ、方針を変えましょう。毎日一本ずつ減らしていきましょう」
三浦先生はカルテを見る。
「少なくても30本、多くて40本か。そうねえ、じゃあ明日は29本、明後日は28本というように減らしていきましょう。そうすれば、ちょうど一ヶ月でやめられる計算よ」
「はい、頑張ります」
「次回は2週間後にきてちょうだい。つまり一日16本になる日よ」
しかし、29本以上絶対に吸ってはいけない場合の29本は、とても少ない。29本しか吸えないと思った途端に、100本くらい吸い続けたい衝動にかられるからだ。
どうにかならないものか、このやっかいな性格。
最も避けたいのは、午前中に吸いすぎてしまったために、夕方から夜にかけての寛ぎタイムに少ない本数で我慢しなければならない状況だ。
できれば、眠る直前になっても余裕で本日分が残っているというのが理想である。
それから10日間は、三浦先生の言いつけを守ることができた。
「実は私、禁煙しようかと思うんですよ」
もしも久美が禁煙に成功したら、会社でタバコを吸う女性は自分ひとりになる。いよいよ、だめ女のレッテルが貼られる。この屈辱に耐えて、この先も会社勤めを続けられるだろうか。
「ね、ご主人の部屋に行きさえすればタバコが手に入るのと、夜遅くにわざわざタバコを買いに行かなきゃならない違いは大きいわよ」
それは違う。三浦先生は全然わかっていない。
夫の部屋にタバコがなかったら、すぐさま外に買いに行くだろう。たとえ大型台風が吹き荒れていようとも、真夜中であろうとも、タバコが吸いたいと思ったら地の果てまでも買いに行くだろう。
「ところで、奥の手を話すわ」
「なんなら離婚したら?」
「えっ?」
すぐさま、冗談よ、という言葉が返ってくると思っていたのに、三浦先生は澄ました顔だ。
「別居か離婚かのどちらかを選択しなさい。今度外来へ来るのは、決心が固まったときでいいわ。禁煙についてはそのときあらためて相談に乗るわ。今のままじゃ、あなた、一生タバコをやめられないわよ」
タバコをゆったりとした気持ちで吸いながら、昨夜書いたページを眺めた。
<禁煙の目的>
1:自分に自信をつけるため
2:寝たきり老人にならないため
3:タバコ顔、タバコ声にならないため
4:喫煙所を常に探さなくても済む便利な生活を送るため
会社名を見た瞬間に「吸いすぎに注意しましょう」というテロップを思い出してしまい、猛烈に吸いたくなって我慢ができなかった。
<禁煙1日目>
肩こりがひどい。
突然どうしようもなく暗い気持ちになって意味もなく涙がこぼれてきた。
つまり、情緒不安定。ニコチンなしでは情緒の安定が保たれなくなっているのだろうか。
<禁煙二日目>
だるい、眠い。
それは、今まさにニコチンが体から出て行こうとしている証拠なのだ。
しめしめ、もっと出て行け。
禁断症状のつらさを楽しめたのは、初めてではないか。
結局、昨日は合計6本吸ったことになる。すごいことだ。
一日にたった6本しか吸わなかったなんて。
昼寝しようとするが眠れない。
吸いたい気持ちが強いが、今まさにニコチンを体内から追い出している過程であると思って我慢する。懐かしくてヘッドホンをつけて大音量で聴く。まざまざと青春時代が蘇ってくる。タバコを吸っていなかった10代の頃。あの頃に戻りたいと思ったら、情緒不安定になっているのか、突然大粒の涙が出てきた。0本
<禁煙三日目>
初めて禁煙席に座ってみた。
チック症状のような珍現象がおさまらない。
全身が突然びくっと震え、そのことに驚いて目が覚めてしまうのである。
今日も1本も吸っていない。すごい。
<禁煙四日目>
今朝は、体がタボコを欲していない。吸いたいと思わないのだ。
もしかして、禁断症状も終了間際なのだろうか。
今日も一本も吸っていない。素晴らしい、私。
<禁煙五日目>
禁煙本によると、これで明日からはぐっと楽になるはずなのだ。
この20年間というものの、この四日間を乗り切ることさえできなかったのだ。
それを思うと、この四日間を絶対に無駄にしたくない。
もう二度とタバコは吸うまい。一生涯。
<禁煙六日目>
空腹感とタバコを吸いたい気持ちの見分けがつくようになった。
食事のあとは、吸いたい気持ちがまだ沸き起こってくる。
肌がきれいになった。妙に運動したくてたまらくなる。
禁断症状なんてたいしたことない。吸いたいという気持ちだけなんだもの。
体のどこかに激痛が走るわけでもない。渇望感だけなのである。
<禁煙七日目>
どうしてこんなに吸いたいのだろう。いったいいつまで続くのだろう。アイスコーヒーをがぶ飲みして乗り切る。今日も一本も吸っていない。私は尊敬すべき人間である。
<禁煙八日目>
起床。吸いたいと思わない。
起床した途端の強い不安感が、八日目にして初めて和らいだ。
背中や手足の末端がざわざわする。身震いする感じ。ふくらさぎのだるさが治らない。
今日も一本も吸っていない。すごすぎる。
<禁煙九日目>
身震いするような、鳥肌が立つような、なんとも言えない嫌な感じからいまだ逃れられない。
勤務中も、喫煙所の駐車場へ行く必要がなく嬉しかった。
<禁煙十四日目>
深い深呼吸をすると落ち着く。
急激に睡魔に襲われるということがなくなった。タバコを我慢できない気持ちもなくなった。ということは、禁断症状から脱したということだ。
息切れがしなくなった。
顔を触るとツルツル感がある。
声が少し高くなったように思う。
唇の色がきれいになった。
妙に前向きな気持ちになっている。
一度に吸える空気の量が大幅に増えた。
運動したくてたまらなくなる。
深い睡眠が取れるようになった。
「そうなんえ。ほやからに禁煙に一旦成功したら、絶対に二度と吸ったらあかんえ、一生な。うちもまた新しい禁煙法を一から捜さなあかん。まだまだ人生フィーバーしたいさかいな」
「フィーバーってなんですか?」
「久美ちゃん、相変わらずボキャブラリー少ないね。」
だからそれ、死語だってば。