
最強武田軍vs信長・秀吉・家康連合軍!戦国の世の大転換点となった長篠の戦い。天下を狙う武将たちは何を思い、合戦へと突き進んだのか。熱き人間ドラマと壮絶な合戦を描く、待望の長編歴史小説!
信玄亡き後、戦国最強の武田軍を背負った勝頼。これを機に武田家滅亡を目論む信長、秀吉、家康。息詰まる駆け引きの果て、ついに合戦へと突入する。かつてない臨場感と、震えるほどの興奮!待望の歴史長編!
「たった今、ご遠行(えんこう)なされました」
父上、すべてをやり散らした挙句、勝手にお亡くなりになられましたな。
「甲軍の大身は皆、勝ち戦を終えて帰る軍勢とは思えぬほど強張(こわば)った顔をしていたとのこと」それが何を意味するかは、いかに勘の悪い家康でも分かる。
信玄死す。それ以外に、武田軍の行動を説明できない。
三方ヶ原で徳川軍を破った武田軍は、三河の野田城を落としてから奇妙な行動を取り始める。
信玄は、その病が重くなるに従い、死を覚悟して遺書を遺した。
「3年の間、わが死を隠すこと。(3年秘喪)」
「3年の間、戦を深く慎め(3年不戦)」
「武田の名跡は、勝頼の子の信勝が16歳になったら継がせるものとし、その陣代を勝頼に申し付ける」という3項である。
三方ヶ原の祝田の坂の手前で全軍を反転させた信玄は、魚鱗(ぎょりん)の陣を布いて、家康を待ち受けていた。まんまと誘いだされたことを覚った家康は、致し方なく鶴翼(かくよく)の陣を布いた。一般に鶴翼の陣は、敵勢よりも兵力が勝っているときに布く陣形である。つまり横に広がり、面で敵の攻撃を支えねばならない鶴翼の場合、一ヶ所を敵に破られるだけで、一気に瓦解する恐れがある。
結局、三方ヶ原合戦は、徳川方1千余の首を獲った武田方の大勝利に終わった。
「仰せの通り!」
信長の機嫌を取り、その弁舌を滑らかにするためには、合いの手の入れ方が大切である。
誰より秀吉は、それがうまい。
ここで「無理です」と言ってしまえば、これほど楽なことはない。しかし、それを言ってしまえば出頭の階(きざはし)から転げ落ちる。それが織田家なのだ。
問答は、それで終わらせねばならなかった。
信長が、わずかに顎を動かしたからである。
その動作は「下がれ」という意味であり、それを見逃さないのも、織田家中で出頭する秘訣である。
信玄は自らを神格化し、不敗伝説を作り、兵から絶大な信頼を勝ち得た。
しかしそれは、次代にまでは受け継がれないのだ。
2万に及ぶ武田軍に浜松城を包囲され、家康は声もなかった。すでに城下は蹂躙されて、焦土と化し、捕まった領民は奴隷として甲信の地へ連れていかれる。武田方は縄掛けした領民を一列にして、これ見よがしに浜松城の前に並べていた。
玉薬とは、硝石(焔硝えんしょう)7割、木炭1.5割、硫黄1.5割を混ぜて造られる黒色火薬のことで、弾丸を飛ばす際に用いられる粒子の粗い胴薬と、点火のために使う粒子の細かい口薬の二種を、鉄砲足軽は常に携行せねばならない。
得意げに硝石の造り方を語った。
「まず建物の床下などの湿った地を人の身長くらい掘り下げ、夏の間に牛の糞を床下の土と混ぜ、稗殻、蓬草(よもぎぐさ)、沼草などを積み重ね、3から4年も寝かせた後、これを取り出します。次に水と混ぜ、たれ桶という器に入れて、あくを取り除きます。さらにこれを煮詰めると、真っ白な粉末に変わるのです」
「左から朝倉義景殿、浅井久政殿、浅井長政殿だ。
三人にも正月の祝いにお越しいただいた」
やはり、この男は狂っておる。
その薄濃(はくだみ)の塗られた頭蓋を見たとき、家康はそれを確信した。
薄濃とは何かを漆で塗り固め、金銀箔で彩色したもののことである。
「今日の趣向は、これだけではない」
信長が顎をかすかに動かすと、三人の小姓は頭蓋骨の頭頂部を取り外し、それを逆さにささげ持った。そこに、別の小姓が満々と清酒(すみざけ)を注ぐ。
「お好きなものを選ばれよ。選べぬなら、わしが選んで進ぜよう」
覚悟を決めた家康は、頭蓋を受け取った。
頭蓋の裏にも金泥は塗られているが、凹凸がはっきりと残っており、間違いなく本物である。
吐き気を抑えつつ、家康はわずかばかり口を付けた。
酒の香りしかしないはずだが、血の臭いも混じっているような気がし、喉の辺りまで先ほど食べた物がこみ上げてくる。
順次、頭蓋は重臣たちにまわされていった。
それを眺めつつ家康は、いつの日か己の頭蓋が薄濃とされ、この男の盃となるのではないかという予感に苛まれた。
最高級の香木・蘭奢待(らんじゃたい)
余裕綽々(しゃくしゃく)
浜名湖は明応7年、1498年に起きた明応地震により、、湖水と海を隔てていた砂提が崩れ、汽水湖となった。
人は首を斬られても、しばしの間、四肢は動いている。
実際、首を斬られた者がその場から立ち上がり、逃れようとしたのを家康は見たことがある。
孫子の『人を致して人に致されず』
戦では、常に主導権を握ることが大切だと説いている。
「信玄坊主が、最も好んだ言葉だと聞いております」
信玄はこの言葉を忠実に守って策を練り、敵を後手に回らせて、勝ちを収めてきた。
「幸いにして飛騨白川の奥地で産する玉薬は、・・・」
農民たちを飢えさせないよう、早春から初夏にかけての端境期に他国に侵攻するのは、武田家の常套手段である。
その性格は豪放磊落(ごうほうらいらく)で表裏がない。
堺には、すべての富が集まっている。
富は土地から生まれるのではなく、海から生まれるのだと、信長も秀吉も、すでに気づいていた。織田家に利益の何割かを運上金として支払う。
「人は『これが当たり前』と思うと、そこから先を考えようとしませぬ。いつしかそれが、皆に相通ずる認識となります。唐国では、それを常識と呼びます」
「わしに逆らった者は、一人残らず撫で斬りとなる」
撫で斬りとは皆殺しのことである。
願証寺は、尾張、美濃、伊勢の門徒を統括する本願寺派の中心であり、門徒3万を擁していた。
信長を前にしたとき、己の功を誇らないようにするのは、織田家中で生きるための鉄則である。
信長にとっては、敵の屍で埋まった戦場こそが最高の風景なのだ。
火縄は、竹の繊維や檜の皮を灰汁や硝石の溶液で煮たもので、少々、水に濡れても口火が消えないようにできている。
「這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で逃げていきました」
こやつらは、磔刑がどれほど苦痛を伴うものか知らぬのだ。
一撃で神経を切断し、苦痛を感じる暇もなく死ねる斬首刑とは異なり、磔刑は、左右の脇腹から対角の肩めがけて槍を突き通すという残酷な刑である。心臓を外すので、一撃では死ねず、槍の穂先で次々と内臓を巻き取られた末、ようやく死に至る。つまり凄まじい苦痛を味わわなければ、死ねないのだ。
戯言(ざれごと)
眼下の城を睥睨(へいげい)していた。
かつて武田方の最前線拠点だった長篠城は、今では徳川家の生命線となっている。
「御(おん)大将が死なぬ限り、戦に負けはありませぬ。
甲斐に戻って捲土重来(けんどじゅうらい)を期すのです」
一度戦いに負けた者が、勢いを盛り返して、ふたたび攻めてくること
「捲土」は土煙をあげるほどの激しい勢い、ようすをいう。
「この上なき戦勝、祝着(しゅうちゃく)にございます」