
永禄3年、京で3人の男が出会った。食い詰めた兵法者・新九郎、謎の坊主・愚息、浪人中の明智光秀。この小さな出逢いが、その後の歴史の大きな流れを作ってゆく。光秀の実像に迫る歴史小説。『小説野性時代』連載を加筆修正。
永禄3(1560)年、京の街角で三人の男が出会った。食い詰めた兵法者・新九郎。辻博打を生業とする謎の坊主・愚息。そして十兵衛…名家の出ながら落魄し、その再起を図ろうとする明智光秀その人であった。この小さな出逢いが、その後の歴史の大きな流れを形作ってゆく。光秀はなぜ織田信長に破格の待遇で取り立てられ、瞬く間に軍団随一の武将となり得たのか。彼の青春と光芒を高らかなリズムで刻み、乱世の本質を鮮やかに焙り出す新感覚の歴史小説!!
道三崩れから7年が経った永禄6年(1563年)、光秀と熙子(てるこ)の間に三女が生まれた。明智玉~~後の細川ガラシャである。と同時に、子供の増えた光秀の暮らしは、ますます貧窮を極めた。-
細川藤考の異母兄である三淵藤英
村人に案内されるまま、件(くだん)の屋敷に向かった。
「これだけ人を斬ると、もう鞘に収まらん」
刀が、ということだ。凄まじい力で人骨ごと斬り捨てているので、どうしても刀が歪み、鞘に収まらなくなる。
事実、実力の伯仲した者同士が一合、二合と斬り結べば、どんな名刀でもたちまち刃先は毀(こぼ)れてしまう。廃棄するか、小柄に打ち直すしかない。つまりは、名刀など所詮は大名級の武士が持つ、飾り物の太刀に過ぎない、という考えであった。
「兼定(かねさだ)ではないか。しかも、二代目の之定(のさだ)であろう」
歴代兼定の作はいずれも名刀中の名刀とされるが、その中でも特に二代目兼定の作なるものは、切れ味、風格ともに格別とされる。通称はノサダ。
この当時でも大名級の武将が持つ差し料とされており、事実、明智光秀や細川藤考も、あれだけの貧窮の中にありながら、この兼定の一振りだけは売却もせず後世大事に所有している。
ちなみに、江戸末期にはさらにその価値が高騰し、「千両兼定」とも呼ばれていた。現在の価格に直すと、約5千万円ということになる。垂涎(すいぜん)の一品だ。
さらには毎年銭十貫。一万匁(もんめ)である。
真剣では、ほぼ初太刀で勝負が決まる。
わしは、いま、新しい理(ことわり)に気づきつつある」
理だ。その理を極めることこそが、自分にとっては面白く、さらに言えば求める道で、単に誰かとの強弱を競うことではない。ましてやその結果として、無用に人を斬り殺すことなどでもない・・・。
仏陀ただ一人の残した言動の足跡のみが、この男の規準(ベンチマーク)なのだろう。
南都北嶺の高僧たちでさえ僧兵どもを大量に擁し、殺生を好み、女色にふけり、経もあげず学問もせず、放蕩三昧の暮らしを送っている時代だ。
四つの椀の賭け事以外に、愚息はもうひとつの博打のやり方を持っていた。
三つの賽を転がし、その中の一つでも六の目が出れば、相手の勝ち。
出なければ胴元、愚息の勝ち、という賭博だった。
だから計算上は、胴元と子が勝つ割合は、どう考えてもそれぞれ半々のはずだ。
が、目の前の茣蓙(ござ)の上での結果は、常に愚息の圧倒的な勝ちだった。
物事の理(ことわり)は、自分で汗をかき、必死に実感として分からぬ限り、人様から聞いても何の役にもたたん。
他人の考えをなぞったような通り一編の見方だけでは、到底見えなかった境地・・・理の体得はつまるところ、気狂いになるほど頭を使い、かつ嫌になるほどに時間をかけて錯誤を繰り返し、それでも必死に体を張った者にしか訪れないのではないか・・・。
「人とは所詮、自分の得手とすることを通じてしか、賢くなれぬ。また、慶びもない。」
恥は、負けたことではない。
兵法で言う、広い意味での『見切り』の能力を言っている。
「わしは相変わらずの素寒貧(すかんぴん)じゃが・・・」
「ひとつの賽であれば、出る目は、確かに六つに一つでございます」
「それが三つ。しかしその賽は、順に振られるのではありません。
順に振られるのであれば~~つまり勝ち率は、二つに一つ、半々で良いのです」
「ですが、ここに落とし穴がございます。三つの賽は同時に振られるのです。ですから、あくまでも同時に振られた場合の、全体を一つとしての勝ち率をださなくてはなりませぬ。そしてそれは同時ですから、足し上げることは出来ないはず」
「愚息どのの勝ちの立場にこだわれば、さらに見えてきます。愚息どのの勝つ条件は、一つ目の賽で『六に五つ』・・・当然この勝ち率は、他の賽でも変わりませぬ。ですから一つ目の勝ち率に、二つ目の賽の『六に五つ』の勝ち率を絡めます。さらにこの二つの勝ち率に、三つ目の『六に五つ』を絡めます。つまり・・・」
六掛ける六掛ける六
五掛ける五掛ける五
『全体の216回で、勝ちは125回』
「先ほど計算いたしました。愚息どのの勝ち率は、5割7分9厘ほど。つまり先日やったように
、百回やれば当然58回ほどは勝つのです」
相前後して斉藤義龍も死に、子の龍興(たつおき)が立つも、この数年、尾張から上総介(かずさのすけ)信長の軍勢が絶えずその領地に攻撃をしかけ、美濃内の小領主たちを揺さぶり続けている。龍興が凡庸愚昧なことも重なって、美濃一国の西方が半ば崩壊しかけている。
「遁世(とんぜ)者には、遁世者なりの身の処し方があるわい」
「公方(くぼう)様、義輝様が身罷(みまか)られた。お斬り死あそばれた」
さすが剣豪将軍の異名を取る義輝とその肝煎りの幕臣たちは、すでに覚悟は出来ていたのだろう。逆に五十数名の逆賊を斬り捨てるまでの獅子奮迅(ししふんじん)の戦いを見せた。特に義輝は、足利家伝来の銘刀を刃毀れ(はこぼれ)するたびに新たに引き抜き、結果、一人で十数名を撫で斬りにするという鬼神さながらの働きだったという。
およそ貴人、殿上人と名のつく者で、一時にこれだけの敵を撫で斬りにした人間など、これ以前もこれ以降も日本史上には見出すことができない。
戦闘は未明から翌日の昼頃まで続いたというから、松永・三好の軍勢1万に対する義輝側の抵抗の凄まじさは、言語に絶する。が、最期には四方八方から戸板や畳を盾として寄せてきた雑兵どもに串刺し同然に惨殺された。
義輝、享年30
辞世の句は
五月雨は 露か涙か不如帰(ほととぎす)
我が名を上げよ 雲の上まで
すでに討ち死にを覚悟した上で、異常な興奮状態のなかで詠んだ歌だとすれば、その出来の可否は問題ではあるまい。
「演じる側、それを受けて演じ返す側・・・物事は常に表裏一体となって変化し、うごめき、進む必然なのだ。倫理や観念、一時の結果論だけで事象を判断しては、事の本質を見誤る。
近年。灯明の油は変わった。
荏胡麻(えごま)油から菜種油へと、より炎は明るくなり、時代は変わっていく。
後年に永禄の変と呼ばれる事件で、十三代将軍・義輝が殺された。
時を同じくして洛中の鹿宛院(ろくおんいん)の院主であった周暠(しゅうこう)も殺された。将軍の実弟だったからだ。しかし、この周暠の上に、もう一人、亡将軍の実弟がいる。
一乗院門跡の覚慶である。のちの名を、足利義昭。
「ふむ。十兵衛どのでも、泣くことがあるのであるな」
そう言われ、光秀はさらに自分を愧(は)じた。
あの日、館内に侍(はべ)っていた幕臣たちは、義輝ともどもすべて殺されている。
そんな松永・三好の意に反し、覚慶を将軍に担ぎ上げる下準備をしていることが露見すれば、おそらくは牛裂きか釜茹の刑にでもさせられるであろう。
どんな場合でも滲んでくるある種の飄逸(ひょういつ)さが、漂っている。
後年に義昭と呼ばれる覚慶も、暗黙裡に信長を敵に回し、壮大な外交包囲網を築いてみせる。愚かで軽薄な将軍だったという後生の評判は、あくまでも彼を追放した織田家側の言いぶんに過ぎない。
米搗き飛蝗(こめつきばった)のように何度も頭を下げ続けた。
「いかに方便とはいえ、それがどれほど陋劣(ろうれつ)なことか、おぬしにも分かっていよう」
永禄9年2月、覚慶が還俗(げんぞく)して義秋と名乗り・・
さらに同年9月、越前の朝倉氏のもとへと移る。義秋を義昭と改名する。
しかも部下の懈怠(けたい)、過失については容赦なく責め立て・・・
おぬしらの忌憚(きたん)のない意見を聞くためでもある。
窘(たしな)めた
懈怠(けたい)・無能な者には見向きもしない。容赦なく斬り捨てる。
実直で、懈怠なく働く
およそ人としての快楽で、聞くほうも話すほうも、完全に相手の言葉をその機微(ニュアンス)・呼吸から理解しているという状態ほど、気持ちのいいものはあるまい。
事あるたびに謂(いわ)れのない讒言(ざんげん)に苦しんだ。
「十兵衛、おぬしには美濃安八郡、四千五百貫の知行を取らす」
四千五百貫といえば、石高換算ではほぼ一万石に匹敵する。
小さいながらも大名級の処遇である。
しかし1万石では、どんなに頑張ったところで、300名を養うのが精一杯だった。
明智軍団:桔梗紋の陣屋
昵懇(じっこん)の仲
稲葉一鉄
一鉄の頑固さ、我の強さ、老人特有の融通の利かなさに辟易。
ちなみに頑固一徹という言葉の『一徹』とは、この斉藤利三の舅の名に由来している。
松永久秀は、この九十九髪茄子(つくもなす)を降伏の手土産として献上してきている。
「利をもたらす者ならば、閻魔(えんま)とでも添い寝してやる」
「謂(いわ)れもないわしらに、信長の前で蝗(いなご)のように這い蹲(つくば)れとでも言うか」
「では聞く。人は死ねば、どうなるのだ。どこに行くのだ」
「どこにも行きませぬ。死んだその場で土に還る。それだけでござる」
「心はどうじゃ。考えている魂はどこに行く」
「おそらくは、なくなり申しまするな。元々が、なかったものでござるゆえ」
「なに?」
「ではお聞きしまする。織田どのは、赤子のときの記憶がお有りでござろうか。呑むために乳母(めのと)の乳をまさぐり、吸った記憶が」
「つまり、そういうことでござる。魂は、五体ありて初めて生じたもの。その元が消えれば、これまた消えるが道理でござる」
「ぬしも、なかなかのものじゃな」
光秀は、聞きながらも思う。
その感想が、信長がときに発する最大級の褒め言葉であることを知っている。
怒り狂った信長に足蹴(あしげ)にされ・・・
糟糠(そうこう)の妻
たとえば光秀は、福知山城の築城の際にも、石垣の礎石が足りなくなると、平然と仏石を砕いてそれを礎石にするという乾いた合理性を持ち合わせていた。現在でも福知山城の石垣のいたるところで見ることができる。
常に含羞(がんしゅう)の人であった。
まるで魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跋扈(ばっこ)する中世の巣窟(そうくつ)そのものであった。