プラマイゼロ±

 某美少女戦士の内部戦士を中心に、原作、アニメ、実写、ミュージカル等問わず好き勝手にやってる創作、日記ブログです。

Thievingcat

2012-05-15 23:59:36 | 企画もの





 水野亜美は困っていた。
 街の片隅にある割にはマニアックな蔵書を押さえている、ただ一つ気に入らないところといえば高いところまで本を置いているくせに踏み台がないその本屋で、案の定高いところの本が手に届かない。
 以前ここでほたると出会った。彼女もまた高いところに置いてある本に難儀しており、その時は年上の自分がと大見得を切った。だが今回は前回と違い本と本の間には隙間がなく、指先を掠めればどうにかなるレベルではない。
 そこでふと思い出した。あの時ほたると本屋で出会い、そのままお茶に誘って妖魔に遭遇し、ともに戦って、そして―サターンにキスをされた。
「(…自分で考えろって言われたけど)」
 こうやって本を相手にしているときは、妖魔を相手にしているときは、頭脳と経験を頼りに目の前の問題を片づけてきた。だがほたるに突き付けられた難題は、亜美のこれまでの経験にも持って生まれた頭脳にも解決の糸口すら与えないでいた。
 キスがどういう意味なのか、知らないわけはない。だが当然行きつく答えを頭脳が排除してしまっていた。相手が幼いことも手伝い、それがどういう感情であるかを深く考えなかった―挑むようなサターンの言葉に乗りそのことばかり考えて、実にシンプルなその意味に逆にたどり着かなかったのだ。
 自分自身の感情にも向き合ってみた。キスの意味は知っている。そして不快ではなかった。心臓が跳ねたし頭が真っ白になったしその夜は眠れなかった。だが自分の感情は頭脳が求める答えに続かない。結局顔が赤くなったのも眠れなかったのも単なる事実として亜美の中では流れてしまった。
「(……ほたるちゃん、ああいう家庭環境なのかしら?)」
 仲間だが身内というには少し遠い外部戦士たちが脳裏によぎる。脳中で巡っているだけにその思考に特にツッコミを入れる相手もおらず、亜美は独自の思考に沈み込む。悲しいかな、亜美は他の追随を許さない朴念仁だった。
「(…困ったわね)」
 あれ以来ほたるには会っていない。
 というより、前回だって偶然会っただけなのだ。真意を確かめることもできないまま答えの出ない思考回路を巡らせやっぱり答えは出なくて、結局は以前同様学校帰り、お気に入りのこの場所に戻ってきていた。
 もう一度ほたるに会えるかを期待しつつ、内心会えないでいることに安堵している自分に亜美は気づいていた。だがそれは、ほたるの言葉の真意がいまだに理解できないがゆえに合わせる顔がないという思考に結びついていて、やはりそれ以上深く自分の感情に向き合わなかった。彼女が一番に向き合うのは、いつも頭脳であり理屈の方だ。感情に素直でないわけではないが、頭脳が突出しているがゆえに、特にこのような未知の感情に向き合うのは苦手だった。
「(どうしたらいいかしら)」
 そしてほたるに会えなかった現実と、目の前の自力では手に取ることのできない本の存在は、亜美をさらに思考に沈み込ませた。
 本に手が届かない。踏み台はない。なら店員を呼ぶべきか、諦めるべきか。それとももっと別の手を考えるべきか―元来負けず嫌いの亜美は何とか自分の手でその本を引っ張り出す方法を思案する。
 とりあえず思いきり背伸びをして、以前と同様何とか指を掠めるように手を伸ばした。やはり下部分を掠めるだけの手を震わせていると、ふと背後からその手に覆いかぶさるように手が重なり、その本を簡単に引き抜いた。
 横を見ると、自分より長身のその人物が、その本を取り亜美に向かい微笑んでいた。
「これが欲しかったのかな?子猫ちゃん」
「…はるかさん!」
 自分がほたるにしたより遥かにスマートな仕草に、亜美は瞬きながら感嘆する。本を差し出されているので受け取るべきかと手を伸ばすと、はるかはその本を自分の頭上の方に持ち上げた。亜美の手は当然空を切る。
 まるで小学生のような行為に亜美が再び目を瞬かす。これではきちんとお礼も言えない。
「ちょっときみに付き合ってほしいんだけど」
 別に所有しているわけでもないのに、既に亜美を拘束する理由になっている本。断るのは簡単だが、断る理由はなかった。理由を聞こうとも思ったが、ここでは話してくれなさそうだという確信が亜美を貫いていた。
 それは朴念仁の亜美が唯一聡い部分。ブレーンとして何度も死地を通り抜けてきて、経験で知った、戦いに向かう気配。敵の気配を感じることはなかったが、はるかからは『戦いに向かう』という予感のようなものを感じる。
 それがどのような敵なのか自分にどういう関わりがあるのかもわからない。ただ、同じ戦士だから、はるかが亜美に漂わせる『予兆』だけは分かるのだ。
「……はい」
 亜美は曖昧な笑みを返す。するとはるかは亜美に何も言わず背を向け、そのままレジでその本を購入していた。呼び出された理由は明確には分からないが、動作の一つ一つが自分とは比べ物にならないほど洗練されている。
 ここでは何も聞かない方がいいだろう、そう思い亜美は黙ってその背中を見つめた。


 そのあと、亜美ははるかに連れられ、なぜか公園のボートに乗っていた。公園に連れて行かれるまでの車内でも、公園に着いてからボートに乗るまでもほとんど会話はなく、はるかが亜美を誘った真意を亜美はまだ掴めないでいた。
 広い公園。夕方に差し掛かっているとはいえ平日、公園内に人は少ない。二人を乗せたボートは砂地の部分から遠く離れている。
 確かにここはある意味水に囲まれた密室。下手な個室などよりよほど二人の世界だ。だが一応遠くに人目があるだけに、却って緊張感は増す。
 亜美ははるかがボートをこぐ様子を見つめながら、はるかに車内で手渡された本を握る手に力を込めた。
「…あの」
 満を持して、ようやく切り出した亜美に、はるかはそこでようやく亜美に気付いたとでもいうような表情をした。そしてそのあと不敵な笑みを浮かべた。亜美には真似できない表情である。
「ああ、何でこんな場所まで連れてきたのかって顔だね」
「……はい」
「知り合いの子猫ちゃんをちょっとデートに誘った…っていうのでは、納得してくれないかな?」
「…ええ。はっきり、そうじゃないってことはわかってますから」
 いつものからかうような口調。いつもなら、少しは慌てたのかもしれない。だがあの『予兆』を感じて以来、亜美の頭脳は感情が追い付かないほどに研ぎ澄まされていた。これから自分がどういう行動をとるべきか―一体何をされるのか。
「この間はきみに世話になった、と思ってね。ほたるから聞いたよ」
 ほたるの名を出されてどきりとした。やはり、あのときのことか。
「…すみません。それは…私がほたるちゃんに助けてもらって」
「いや、ほたるはきみをずいぶんほめていたよ。きみのような戦い方は、ぼくらにはない…そう、言い方は悪いが、周りを利用するその戦い方」
「……………」
 知性の戦士と言う言葉をはるかから出されどきりとした。確かにそういう名は冠しているが、それはしょせん自分に力がないということ。それはそれで構わないと割り切った戦いかたをしてきた。それしかできなかったから。
 だが、いざ目の前で、外部戦士の彼女にその言葉を言われると。
「だからきみと一度じっくり話してみたいと思ってね」
「……はぁ」
「今ここで」
 そこではるかはちらりと狭いボートの外を見た。亜美もそれにつられ外に目をやる。広く水の広がる世界。遠くに緑が風にざわめき、少し離れた場所に鳥が水上を群れている。ボートをこぐ人は平日のせいか少なく数えるほどしかない。それぞれがまばらで、顔が判別できない程度には遠い。
 亜美が目線を戻した時にははるかはボートをこぐ手を止め、まっすぐ亜美を見据えていた。
 その目線に亜美の神経は一気に尖る。
「敵が現れたら、知性の戦士であるきみならどうする?」
「え?」
「仲間を呼ぶか?逃げるか?それとも、変身して戦うか?」
 場所は開けている。まばらで遠いとはいえ確かに人の目に触れるところだ。変身してしまえば見られてしまうかもしれない。逃げることはできるかもしれない。仲間を呼ぶことは一番簡単だ。
 逃げながら周囲に気を配り仲間を呼び、誰も見てないところで変身し、戦闘に加わる―理屈で考えればそうだ。
 だが、逃げるには心許ない足元。仲間を呼ぶには遠すぎる。自ら変身するには他人の目がある。水という意外でありふれて半端な密室。
「…変身して戦います」
「何故?」
「…今この場だと、逃げて仲間を呼ぶ前に周りの人たちが危険にさらされる可能性が高いからです」
「正体がばれる危険を冒しても?」
「…ばれないようにします」
「大した自信だな」
「自信があるわけじゃありません…でも」
 逃げて仲間を呼んで安全を確認できてから戦う―それは理想論で実行するには現実味が低い。ここで変身すれば見られてしまうかもしれないが、それは決して他人の平穏な日常と天秤にかけるものではない。だが、正体をばれるリスクはできるだけ回避したい―その方法はすぐに思いついた。しかし感情はその手を良しとしない。
 しかし、一瞬の判断が必要とされるブレーン。優先するべきは感情ではなく、頭脳。はるかを目の前にして、亜美の覚悟は尚更感情を排除していく。
 それが例え話でも、現実にならない保証はない。数えきれない数の戦いに身を投じてきた。だからいつ危険が身に降りかかるかは分からない。
「なら見せてもらおうか」
 はるかの握っていたボートのオールが、真横から自分に向って振り抜かれるのを亜美は辛うじて身を伏せることでかわす。そして、あまり使いたくない手ではあったのだが―その手に握っていた買ったばかりの本を、フリスビーのように投げた。
 ほんの数秒も経たない後の、意外と重い着水音。水上の鳥がそれに反応し一斉に羽ばたく音。それを聞くと同時に、亜美は本を投げた方向と反対に、体一つで池に飛び込んだ。
 重いものが水を叩いた音と羽ばたきの音。こちらに注視してはいないにせよいつこちらを向くか分からない、他のボートを漕ぐ人たちの注意はそちらに向いた。その隙に反対側のボートの陰に隠れるように亜美は静かに体を沈める。
「…メイクアップ!」
 変身のスペルは泡を吐き出したノイズにしかならなかったが、水中で変身することはできた。買ったばかりの本を投げるのは辛いことだったが、見られるかもしれないというリスクを回避する方法は、一瞬ではほかに思い浮かばなかった。
 まだ粗末だ。もっと手があったはずだ。それにリスクだって完全に回避できたとは言い難い手だ。変身したせいか水に包まれているせいか、亜美の時とは比べ物にならないほど冴えていく頭脳で思う。だがもうしてしまったことを考える余裕はない。
 外の気配を見計らう。敵の気配は感じない。はっきりわかるのは、相手は『敵』ではない。
「…がは!」
 マーキュリーは水面から顔を出す。不用意な真似だとは思ったが、ここでも確信していた―今は追撃は来ない。たとえ目の前に殺気が漂っていても、出した顔の鼻先に刃が突きつけられていても、だ。
「周囲の注意を逸らす…いい手だ。おかげでぼくも変身できたよ」
 ボートの上からまっすぐ伸びるスペースソード。はるかは亜美が周りの注意を逸らした時点でボートの上で変身したらしい。その思い切りの良さはやはり亜美には真似できないことだ。
 そしてウラヌスがスペースソードを自分に向けている―これもあまり歓迎できない事態だが、いい手だと褒めてもらえたのは純粋に嬉しいと思った。



 マーキュリーは泳いで逃げていた。
 ボートに這い上がるにはリスクが大きすぎる。水の流れを感じながら、うまい具合に冷やされる頭で考える。ウラヌスが自分を狙う目的―未知の敵に操られているということはないだろう。それならこんな回りくどい手に出るはずはない。
 まさかまた新しい敵勢力が現れて、それで外部戦士としての役割を考えた末結果的にこうなっているのか。なら、ネプチューンやプルート、サターンがそれぞれ別の場所で内部戦士たちと対峙している可能性もある。
「(…どうして!?)」
 だが考えても答えは出ない。今はただ、人目のつかないところまで行かなければならない。なんとか無事に岸まで上がって、このまま逃げるか―勝ち目などいくら考えてもない。
 今まで未知の敵相手に調査、分析といった役割を果たしてきた。だが今回は敵ではない上に今更分析など何の役にも立たない相手だった―格が違うことなど骨身に沁みて知っている。
 理屈で考えればそうなのに。
 ようやく人気のない岸にたどり着いたとき、ウラヌスもボートを蹴り池の中に立つ杭を足場に跳び、あっさりマーキュリーの前に着地した。どういう行動に出るかを待っていたのだろう。マーキュリーは顔に張り付いた髪を水ごと払うように頭を上げると、まっすぐウラヌスを見つめた。
 前のクラウン内でのと戦いとは違い、追い詰められているのは自分。不特定多数の一般人のいる周囲から危険と目を避けようと思ったら、なにもない場所に自分を追い込むしかなかった。
「逃げないのか?」
 挑発するような声と目線は変わらない。ウラヌスは明らかにマーキュリーに対し戦う姿勢を見せている。
 ウラヌスにどういう意図があるのかは知らない―考えても分からない。元来戦うのは好きではないし、地力の差は考えるまでもない。どういう事態になってもマーキュリーに好ましい展開にはならない。
「…いいえ」
 なら、と思った。逃げたらそれこそ何の解決にもならない上に逃げきる自信もない。なにより、いくつもの死線を乗り越えて友人たちと過ごして実感している―逃げるのは一つの手だが、迷った挙句の逃走は負け犬以下だと。戦わなければ負けることすらできない。
 自分より格上の戦士が、一対一で自分と対峙しているこの状況。
「…戦います」
「いい返事だ」
 周囲に人はいないところまで泳いできた。ウラヌスもそれを見越している―知性の戦士としての行動を期待されている。これから起こることを考えると震えるほどの恐怖だが、震えてしまうほど嬉しく思っている自分も否定できない―同情のない目で、行動を認めてもらっている事実が、嬉しい。
「ただ…せめて教えてください!いったいどうして私と戦うんですか!?新しい敵の存在かなにかが関わってるんですか!?」
「答える義務はないな」
「じゃあ…うさぎちゃんたちは無事なんですか!?これだけは!」
「ああ…おだんごたちは関係ないよ。これはぼくときみ個人的な問題だからね」
「個人的な…?ど、どうしてですか!どうして私を…」
「そんなこと…自分の胸に聞いてみろ!」
 激昂するようなウラヌスの言葉に思わず震える。手にはスペースソードが煌めいていて、先ほどの様子見とは違う本気の攻撃が来るとマーキュリーは覚悟を決めた。ウラヌスの言葉は私怨によるもののようにも聞こえたが、原因を思い返す余裕もない。
 理由を考えるのも探るのも今やることではない、とマーキュリーは思った。目を逸らさないようにゴーグルを起動する。ウラヌスの技を今更分析するためではない。不意を取られないように彼女のスピードについて行けるように一手でも早い対応ができるように、単に周囲の環境や近くの危険物や人や動物が近づいた時に早い対処ができるように、こちらの目線を悟られないように。そして太陽の位置に正面から向き合ったり、水に反射する太陽の光が不用意に目に入り目が眩まないように。
 少しでも気が散れば、本当に死んでしまうかもしれない。
 事実目の前にスペースソードブラスターが迫ってきているのをゴーグルの解析よりも早く認識する。避ける前に氷でバリケードを張る―ほぼ何の抵抗もないように氷は砕け自分に衝撃波が迫ってくる。
「(氷を厚くしても防げない…!)」
 衝撃波が氷をぶち抜くほんの一コンマの余裕が辛うじてマーキュリーに攻撃をかわさせる。ゴーグル解析のおかげでどこに衝撃が来るかは分かるので、走り回りながら正確に氷の塊をぶつける。攻撃を防ぐためではなく、あくまでかわすための時間稼ぎにすぎない。
 ならどうするか。シャボンスプレーを放ってみるか―室内戦だった前回とは違い、こんな開けている場所では効果も半減する。それにウラヌス相手ではそんな小細工は通用しないだろう。
 こちらから攻撃を仕掛けるか。攻撃を放つ間に向こうの攻撃を食らう可能性は高い。ウラヌスはマーキュリーの技が一度当たったところで倒れるとは思えないが、こちらはスペースソードブラスターの一撃でも当たったら命の危険を覚悟せねばならない。
 このまま逃げていても体力が先に尽きるのはこちら。せめてスペースソードだけでも何とかしなくては。何か策はないか―迷っている暇はない。思いついた。
 最善の手とは思い難いが、時間をかけてでしか思いつかないのなら無意味だ。他の策を考えている暇も周りに目をやる暇もない。ゴーグルを頼りに氷と自らの足でウラヌスの攻撃をかわしながら、マーキュリーはほぼ真正面からウラヌスに突っ込んだ。
「何!?」
 それはウラヌスにとって意表をついた行動だったのだろう。だがそれは、基本的に後方支援型のマーキュリーのことを『知って』いるがゆえの驚きであり、敵ならばどんな行動に出ても不思議ではない。現にウラヌスは驚きはすれど特に隙を作るようなことはなかった。
 だが、マーキュリーはそんなことは期待していない。
 近づけば近づくほど危険だが、このままでは埒があかない。それにスペースソードという特性を考えれば、近づけば近づくほどウラヌスの行動が絞れてくる。
 止める自信はなかった。確実な方法をもっと落ち着いて考えたかった。だが一瞬の迷いは間違いなく自分を殺す。それでも頭の血管が切れそうなほど考えた。他に思いつかなかった。もう考えるのをやめて自分の体を信じることにした。
 自分がこんなに特攻型だとは知らなかった。
「……ウラヌス!」
 手のひらの中に棒状の氷を生成する。棒というよりは木の枝のような歪な形でスペースソードに比べれば遥かに見劣りするが、長く先端は鋭利だ。マーキュリーはウラヌスに向かって駆けながら氷剣を握りしめる。
「そんなものが効くと思うか!」
 マーキュリーの行動を見てウラヌスはスペースソードを握りなおした。その真剣な様子にマーキュリーは逆に驚く。ピュアな心の結晶であり星の力を秘めた剣に、高々氷の塊でどうこうできるなどマーキュリー本人でさえ思っていない。むしろ嘲笑われると思っていたのに。
「…嬉しいです。私なんかに、あなたが真剣に相手をしてくれるのは」
 切れそうな息の中、それでも努めて冷静に言葉を出す。腕をまっすぐ伸ばせば氷の先端がウラヌスに届くかという頃、ウラヌスは真っ直ぐ刀を振りかぶった。スペースソードブラスターではない。
「(……来た!)」
 スペースソードブラスターをかわしながら、自ら危険な領域に突っ込みながら―マーキュリーはこの瞬間を待ち焦がれていた。
 スペースソードブラスターという技で自分の圏外距離へ攻撃ができる。だが、圏内に入ると、技を放つより剣そのものを振るう方が早く命中率も高くなる―刃先に届く範囲にいる限りスペースソードブラスターは来ない。
 遠距離からの攻撃と違い、近づいてしまった以上かわす余裕はない。氷など盾にもならない―分かっていたことだ。その圧倒的な力は却ってマーキュリーの恐怖を削いだ。これからやることは成功する可能性は低いが、他に手もない。
 そして手のひらに握っていた氷剣を―迷うことなく捨てた。
「……な!?」
 そのマーキュリーの行動はまたウラヌスを驚かせたようだ。
 氷の剣など、自分が彼女の圏内に入ると印象付け、ウラヌスに物理攻撃に切り替えさせるためのアピールにすぎない。差し違える気など最初からない。
 そしてウラヌスの剣がそれで止まるわけではなく、真っ直ぐ振り下ろされる凶刃。煌めく刃はゴーグルのおかげで眩しく感じずに済んだが、亜美の体に来た衝撃は予想以上だった。
「…ぐっ!」
 すさまじい威力に体が吹っ飛んだ。手のひらの皮膚がぐしゃぐしゃに剥がれた。腕から背中にかけての筋肉繊維がぶちぶちとちぎれていく感覚がした。明日はひどい筋肉痛で起き上がることもできないかもしれない。無論明日まで生きていれば、だが。
 亜美は体が自分の意志とは関係なく後ろに飛ぶ感覚に違和感を覚えながら、それでも自分が生きている事実に微笑む。
 『変身前』の体で衝撃に耐えられるかどうかは不安だったし無茶だとは思ったが、スペースソードを止める方法はほかに浮かばなかった。
「変身ペンか!?」
 氷はおろか通常の剣、地球上のどんな物質を用いてもスペースソードと対峙するなど不可能だ。その一閃を受け止めるには―同じく星の力を秘めた変身ペンしかできないと思った。だから刃が振り下ろされる瞬間変身を解いてペンで受け止めた。
 ペンには傷一つついていない。初陣から何度も姿を変えて、それでもポケコンよりもゴーグルよりも長く共に戦ってきた亜美のパートナー。腕がちぎれようが、死んでもこれだけは絶対に手放す気はなかった。
 一度でもウラヌスの攻撃を弾き返すことができた。ウラヌスの表情を見れば本当に意外だったのだろう。これだけでも十分に一矢報えた気がした。
「…メイクアップ!」
 だがまだ戦いは終わっていない。亜美は吹き飛ばされたままで再びマーキュリーにその身を変え、体勢を崩しかけながらも何とか着地する。両腕はもう感覚もないほどで肩からだらしなくぶら下がるだけだったが、脚は生きていた。腕が駄目な以上もう同じ手は使えないが、まだ動くことはできる。
 まだ、戦う。
 腕が使えない、それでもウラヌスと対峙する方法を考える。時間はない。変身が終わるこの瞬間はウラヌスにとって最大の好機だ。必ずここで追撃が来る。一体何が来るか―一度変身をリセットしたせいでゴーグルはしていない。ピアスのスイッチを入れようにも腕は上がらない。目で見て頭で考えるしかない。
 真正面から見るウラヌスは片手を掲げていた。手のひらが光る。ワールドシェイキングだ。ずっと見ていたから知っている。もう片手のスペースソードは下がっている。スペースソードブラスターはかわされ、一度であっても斬撃そのものを受け止められたのだから彼女も違う手に出たのだろう。
 ありがたい、と思った。あんな無茶な手をしてまでスペースソードを止めたのは、一度でもいいからスペースソードを使わない攻撃に切り替えてくれるのを期待してのことだ。もう一度来たらもう一度止める気ではいたし方法は思いついてはいたが、それが限界であるのは分かっていたから。そして期待だけで、もっと確実に止める方法を方法を思い浮かばなかった。
 だが結果として、ウラヌスはスペースソードを下ろしてくれた。
「…ワールドシェイキング!」
 ワールドシェイキングが来た。どうするべきか考えた。思いついた。やはり最良の手とは思い難いが、迷っている間に死んでしまうよりはましだと思った。腕が上がらないまま、マーキュリーはウラヌスを見つめた。ゴーグル越しでない攻撃技を正面から見るのは眩しい。
 ようやく体が動いた。
「(ワールドシェイキングは…下から上に上がってくる!)」
 地面を抉るような光球はある時点で急浮上し対象に当たる―それがワールドシェイキングの動きだ。スペースソードから繰り出される攻撃とは違い、こちらは細かいタイミングも頭に入っている。
 マーキュリーは真っ直ぐ自分に向かってくる光球を見つめた。浮上する瞬間を狙って、タイミングを見計らい光球の下に滑り込む。美奈子が見せてくれたことのある、バレーボールの滑り込みの要領だ。技が浮いた髪を掠め、恐怖に心臓が潰れそうになったが、かわすことはできた。
 問題は、ここから。
 自分の体勢が崩れている状態。今この瞬間追撃を食らったらもうかわすことはできない。自分同様、ウラヌスも真っ直ぐ技の光球を見つめているので、少しは目が眩んでいることを期待した。顔を上げた。ウラヌスが見えた。
 ウラヌスは技の下にもぐりこんだマーキュリーを見て微かに目を細めていた。眩しいのか驚いているのか、いずれにせよ顔を上げた瞬間にマーキュリーの首が飛ぶようなことはなかった。
 マーキュリーに攻撃が当たらなかったことを認識したのかウラヌスは再び臨戦態勢を取る。追撃が『これから』来る。だがそれは、策を弄したマーキュリーには、遅い。
「…っぁあ!」
 技の名の詠唱さえままならなかったが、マーキュリーは地に這いつくばったまま初めて攻撃に転じた。でたらめな氷技だったが、まっすぐ向き合っていたのでそれはウラヌスに当たった。
 地面から、足、ウラヌスの胸のあたりまでがスペースソードごと一瞬で氷漬けになる。
「…くっ」
 ウラヌスが呻く声。迷う暇はない。マーキュリーは使えない腕をそのままによろめくように体を起こし、再びそのままウラヌスに向かって駆けた。
「こんな小細工が…通用すると思うな!」
 ウラヌスは、マーキュリーがたどりつく前に、あっさりと氷技による拘束を解いた。全身の筋肉を使って氷を砕くように弾かせる。だが、それをマーキュリーは予想していた―否、期待していた。
 かつてまことを氷漬けにしたことがあったが、彼女は自力で氷を破って出てきた。だからウラヌスもおそらく同様のことができるだろうと睨んでいた。狙っていたのはウラヌスの動きを止めることではない。
 うまくいかなければもう駄目だ。だからこそ集中して、もう頭を使うことさえ諦めてこの一瞬に賭けた。マーキュリーはほとんど体当たりに近い無茶苦茶さでウラヌスに体一つで飛び込む。
 狙うは全身の筋肉を張らせ氷を砕いた直後の、全身の筋肉が弛緩するこの一瞬。
「うおっ!」
「くっ…」
 氷が弾ける中ウラヌスの肩あたりに全身でぶつかった。体に衝撃が来て弾き返される感覚がし、腕に力が入らないマーキュリーはほぼ顔から地面に叩きつけられた。全身が軋んで肺の空気が全部出ていく感覚がし、その吐き出す息に血が混じった。口を切ったのか鼻血が出たのか、それも分からない。
 次いで顔の横に突き刺さるスペースソードを目視し、それが顔に掠めてでもいたらという想像に戦慄する―それより早く柄を確認する。ウラヌスにやられて自分の顔の隣に突き刺さっているのか、それとも。
「ぁ、あ」
 首だけを伸ばし柄を見る―ウラヌスの体からは離れている。ウラヌスは倒れてはいなかったが、マーキュリーの狙い通り筋肉が弛緩する絶好の瞬間に腕を弾くことで、スペースソードを手放していた。マーキュリーの方がスペースソードの近い位置にいる―マーキュリーはほぼ最後の力を振り絞って地面を蹴り、スペースソードをウラヌスより先に奪い取った。
「…ごほっ…げほ…はぁっ…」
 剣ごと転がる体を何とか跳ね起こす。だが水から出てきた直後のように呼吸すらままならない。マーキュリーは必死で酸素を求め喘ぎながら、ちかちかする目で周りの光景を見渡す。顎を伝って落ちるのが水だけでなく血も混じっているところを見ると、やはり口でも切ったのかもしれない。腕はまだ痺れている。酸素が足りないせいか頭もくらくらする。視界がぼやけた。
「(重い…!)」
 そして何より手に握ったスペースソードは異様に重い。腕が痺れているせいなだけではない。純粋に戦士として力量が違うのか、本来の持ち主でないマーキュリーを拒絶しているのか―いずれにせよ、とてもマーキュリーに扱える代物ではなかった。
 それでももうほとんど上がらない腕で何とか剣の柄を握りしめ、剣先を地面につけたまま刃をウラヌスの方に向け戦う意思を見せる。だがもう体は限界だった。剣を持っていても動くことも持ち上げることもできない。
 そもそも剣を振り回すことができたところで、マーキュリーの感情はそれを良しとしない。貴重な本を投げ捨てることはできても、仲間を傷つけることはいくら頭脳が命じてもできない。差し違えることもできたはずだが、相手を傷つけることは、自分が死ぬこと以上に怖くてできなかった。
「…答えてっ…くだ、さ、い…」
 刃を向け問答をし、相手を追い詰めているように少しでも見せかける。だが、声は震え体もぼろぼろで、ただの虚勢にしかならない。相手を傷つけたくないと思っている時点で、この戦いは完膚なきまでのマーキュリーの敗北だった。
「どうして…私を狙うんですかっ…」
 だがこれだけはどうしても聞いておきたかった。しかし、ここでウラヌス再び攻撃に転じたら終わりだ。もうかわすことも弾くことも向き合うこともできない。頭も限界で何も考えられなかった。ぼやけた視界でマーキュリーは必死でウラヌスを睨む。
 ウラヌスは驚いてはいたが特にダメージはなさそうで、マーキュリーと向き合っていた。当然だ。能力的にも心情的にも、傷つけることができなかったから。ただ、スペースソードを奪うことで、少しでも戦意を失ってくれたら、と思っていた。スペースソードだけを狙っていた。
 だが、だめだった。間違いなく殺されると確信して目を閉じた。
 やはり恐怖は感じない。むしろやるだけはやったという心地よい達成感のようなものがマーキュリーを満たしていた。ウラヌス相手なら負けても恥にはならないだろう。
「……スペースソードまで手を出すのかこの泥棒猫が!!」
「………え?なんです?」
「うちの娘だけでなくスペースソードまで奪うとは…許すことが出来ん!」
 だが耳に飛び込んできた言葉があまりにも予想外で、マーキュリーは再び目を開けた。改めて見るとウラヌスは先ほどの戦士然な佇まいはどこへやら、子どものような怒り方をマーキュリーに見せた。
 マーキュリーの思考回路がショートする。
「娘って…?え、なんのことですか…?」
「とぼけるなこの女たらしが!」
「あ、あの」
 ショートした思考回路が戻ってこない。この様子から察するにウラヌスが明らかに私怨でこんな行動に出ていたというのはようやく理解できたが、それでも頭がついて行かない。
 娘と言っているのだからほたるのことで怒っているのだろう。だが自分が何をしたというのだろう。前回会った際、放課後なのに強引に連れだして寄り道させたことだろうか。本を無理やり押し付けたことだろうか。戦闘に巻き込んで戦わせてしまったことだろうか―心当たりは多い。
 それとも。
 すでに鈍くなった思考回路だが、必死で心当たりを探す。謝るにしても原因がはっきり分からなければ不誠実だ。そんな風に惑って言葉を出さないのが却って悪かったのか、ウラヌスは今までの戦闘とは打って変わったふて腐れたような顔で手のひらに光を集める。それはもう単純な八つ当たりにすら見えた。
「(あ…殺される)」
 どうせ決めるならさっき決めて欲しかった。
 何とか回避する方法を考える。だがそれは、知性の戦士ではない、単純に目の前に危険が迫っている状況に置かれた一個の生物としての思考にしかならなかった。もう頭がろくに働かない。疑問だけを残してワールドシェイキングを食らうのは嫌だったが、体も動かない。
 霞みはじめた目でなんとかウラヌスを見つめた。手のひらの中の光が自分に向かって放たれる。眩しい。回避の術はない。もう目を閉じることにした。
 目を閉じる直前紫の影がよぎった。幻覚だと思った。
 だがそれは救世主だった。
「ほたる!?」
 来ると思った衝撃が来ない。恐る恐る目を開けたマーキュリーの目前には、沈黙の鎌を構え、ウラヌスの攻撃を弾いているサターンの背中が見えた。サイレンスウォール―その持って生まれた戦士の性質ながらバリアを張るような技は意外だと思った記憶がある。そして前の共闘の時も、攻撃を弾く手段として使わせてもらった。
 それが今度は、マーキュリーを守っている。
「…さ、サターン…?」
「マーキュリー、無事ですか!?」
 バリアの中でマーキュリーを振り返るサターンはまさに救世主だった。マーキュリーの足から力が抜け、その場にへたり込む。バリア越しに見たウラヌスもまた意外そうな顔をしていた。
 ワールドシェイキングが完全にバリアに弾かれると同時に、サイレンスウォールも消えた。そしてサターンはウラヌスに駆け寄る。ウラヌスは困惑していたが、マーキュリー相手のように再び攻撃技を放つということはしなかった。
「ほたる、どうしてここがっ…」
「これだけ派手に気配出して気づかない訳ないでしょう!もうっ…パパ!なんてことするのっ」
「だ、だけどほたる、マーキュリーは…」
「はるかパパには関係ないでしょ!これは私と亜美さんの問題なんだから!」
 戦士の姿でありながら、二人の会話は完全に父と娘である。マーキュリーはサターンとウラヌスの会話に困惑しつつ、がくがくに震える足をなんとかスペースソードを杖にして起こす。
 話が見えないが、自分が当事者であることには間違いない。サターンという仲裁者が入ることで、これで少しは冷静な話し合いができるだろうと安堵する。
「さ、サター…ごほっ」
「マーキュリー!」
 マーキュリーの血を吐くような声にサターンは悲鳴に近い声を出してマーキュリーに駆け寄る。沈黙の鎌の刃に自分の顔が映りマーキュリーは声にも出さず驚く。
 やはり倒れた時に口を派手に切ったらしく、口の周りが血まみれだ。滑り込みをやったせいか全身泥だらけ傷だらけで、スペースソードを受け止めた手はグローブを血みどろにしていた。息をするだけで背中までばきばきと痛み表情が歪む。
 どこもかしこも痛くて、やっぱり腕に力は入らず、スペースソードにしがみつくので精いっぱいだった。
「私のせいでこんなことに…マーキュリー、ごめんなさい」
「…あの、ありがとう。サターン。助けてくれて…でも」
「でも?」
「……さっきから…話が、見えなくて…」
「……え?」
「ごめんなさい。ウラヌスが言ってたことも含め、一から説明してくれると…ありがたいのだけど」
 マーキュリーの恐る恐ると言った言葉に、今度はサターンが固まる番だった。だがその表情を見てマーキュリーもまた困惑する。命の危険にさらされまでしたのだから聞く権利はある、と思ったのだが、どうにも自分の知らないところで事態は進みすぎているらしい。
「ほら見ろほたる!やめておけこんなやつ!」
「パパは黙ってて!最初からこういう人って分かってたし…!」
「だからってだな…」
「パパこそいきなり喧嘩売ることないでしょ!こんなにぼろぼろにしてっ…ひどい!」
「逃げないのかって聞いても逃げないから…!完全に宣戦布告だと思ったんだ!」
「……あ、あの」
 完全にマーキュリーを置いてきぼりにして喧嘩を始める二人に、マーキュリーの頭は更に混乱する。何でも分かっている前提で話を進めてほしくないものだ。そして聞いている限り、どうやら自分は戦うより逃げたほうがよかったのかもしれない。
 負け犬以下でもいいから逃げておくべきだった。マーキュリーの疲労感は異様に増した。
「…私が何かしたなら…誠意を見せるつもりです。でもすみません、心当たりが多すぎてどれが原因か分かりません」
「心当たりが多いって…いったい何をした!?まさか最後までいったんじゃないだろうな!?」
「最後までって…だから、最初から教えてください」
 悲しいかな、マーキュリーは本当に分からなかったのだ。
 そもそも思考回路は先ほどの戦いでフル回転していて、既にオーバーヒートを起こしていた。体が自分のものではないようにに重い。口を開くたびに口内の傷から血がじわじわあふれてくる。
 気を抜けば簡単に意識を失ってしまいそうなほどで、サターンが何を言っているようだが、目がかすんできて、声もよく聞こえない。
 だからもうかわすことはできなかった。
「……なぁっ!?」
 ウラヌスが裏返った声を出すのを、マーキュリーの完全に使い物にならなくなった頭脳は気づかなかった。ただ触れる唇の感覚にだけ意識が奪われる。この感覚は経験がないわけではない。むしろわりと最近、前のサターンとの共闘の折に。
 だが人前でしかも彼女の父親の前でキスをされているという事実より先に、口の中の傷がふさがっていく感覚に気付いてマーキュリーの思考回路は再びつながっていく。いつの間にか握られていた手の皮膚も、仄かな熱と共に癒えていく。
 これは、ほたるの持つ、傷を癒す力。全身がばきばきに痛いのは変わらなかったが、少なくとも口内と手のひらの表面的な傷は癒えた。
「…ぁ」
「…こういうことです」
 顔が離されて、マーキュリーは瞬きを一回。戻ってきた思考回路で今自分の身に起こったことを考える。ほたるが傷を癒してくれたのは分かった。だが、そのためにした行為が。
「…え、あ」
 指の関節をばきばきと鳴らし、隠すことのない濃厚な殺意をマーキュリーに浴びせながら、ウラヌスが低い声で呻くように言った。
「ふっ…言い残すことがあったら一応聞こうか?泥棒猫ちゃん」
「もうっ…パパ!やめて!」
 その殺意に、水でもかぶったような冷たさがマーキュリーの脳内に流れる。そして先ほどの戦闘前同様激しく回転を始める頭脳に耳をすませた。こういうこととはどういうことなのか。
 傷を癒すためにキスをするのは、それが必要だと言われたら信じてしまうかもしれない。だがそうでないことは知っている。それに以前は全然関係ない場面でキスをされ、あげく『こういうこと』でウラヌスが殺意を自分に向けているこの現実。そしてまた、今。
 既存の知識と前回の経験、そして今与えられた情報を組み立てる。この状況から察するに、まさか―まさか。
「…え?……え、あ……えええええ!?」
 そこでマーキュリーの頭脳に一気に熱が膨れる。事実、顔も一気に熱くなって思考回路はもう一度ショートした。頭脳で理解したことを感情が超えた瞬間でもあった。
 だって彼女は小学生で。だから彼女がそういう感情に目覚めているかさえ、考えもしなかったのに。
「え、ちょっ…え!?」
 その可能性だけは考えなかった。考えなかったから気づかなかった。
 戦いは好きではないが、死線をくぐるのには慣れているのでそれなりに冷静でいられる。だがこういうことにはてんで慣れていないマーキュリーは、知性を吹っ飛ばしてほとんどパニック状態だった。
「だ、だって…そんな、私は高校生で、あなたは小学生で」
「年は関係ありません!宇宙レベルに比べたらたいしたことない数字です!」
「わ、わたしなんて…その……と、とにかく…れ、冷静になって」
「冷静じゃない人に冷静になれって言われたくありません」
 こんな時に至極真っ当なことを言われても困る。
 一人混乱を起こすマーキュリーを見るウラヌスの目は冷ややかで、マーキュリーの次の動向を待ってる―マーキュリーがサターンの思いにようやく気付いたことを目の当たりにした今、マーキュリーの次の行動によって対応が変わって来るからだ。だがマーキュリーはそんなウラヌスの視線には気づかず、脳内でぐるぐると思考を巡らせるばかりだった。
 息が上がる。背中がばきばき痛む。表面的な傷は消えても体はやはり限界で、一度オーバーヒートを起こしてまた冷えて、また熱が上がった頭脳もすでに限界で。それでもなんとか―すがっているのか困惑しているのかもわからないままにサターンを見た。
 彼女は確かに救世主で。だが戦士の姿で沈黙の鎌を持ち、雪のように白い肌と、唇に微かに血―これは先ほど触れたマーキュリーのものだが―それを舐めるその姿は確かに破滅の戦士と呼んで相応な姿だった。
「……ぁ」
 戦慄するほど美しかった。
 それを認識すると同時にマーキュリーの脳内で何か爆ぜた。そして急速に失われていく意識―受け身を取ることもできずにマーキュリーはその場に崩れ落ちた。
 サターンは確かにマーキュリーにとって救済と破滅をもたらした。
「…マーキュリー!」
 サターンの声も、駆け寄ってくる足音ももうマーキュリーには届かない。自分の感情と行く末さえまるで見当もつかないままマーキュリーは意識を失った。



 強烈な痛みで亜美の意識は覚醒した。
 しばらく脳内が『痛い』というシンプルな感覚で占められていたが、やがて緩やかに思考回路が戻ってくる。ずきずきと重く痛む上半身に顔をしかめながら、ようやく目を開いた。
「(私…いったい)」
 入ってくる光に目を細めながら、胡乱な頭脳で考える。何故こんなに体が痛いのか―何をしてこうなったのか。どろどろと回りの悪い頭に意識を巡らせながら眠る前のことを思い出そうとした。
「……………!」
 そこで脳内によみがえる意識を失う前の攻防。亜美は思い出すと同時に反射的に体を跳ね起こしたが、体からの抵抗は凄まじく、筋肉を一瞬息が止まるほどの激痛が襲う。声も出ず脂汗がどくどくと吹き出し心臓が激しく脈打つ中、それでも痛みの原因をはっきり思い出す。
 ウラヌスと戦って、サターンに救われるような形で仲裁をしてもらい―その後の記憶がない。そもそも今自分がいるのはどこなのか―それさえ分からず、痛みをこらえながらなんとか顔を上げる。そこは見覚えのない部屋で、自分はベッドの上にいた。
「-こ、ごほっ」
「大丈夫ですか!?」
 ここは、と言おうとしたが喉にうまく力が入らず、咳を出そうとしたら胸がみしみしと痛む。胸を押さえようにも腕が上がらなくて顔をしかめる亜美を横から覗いてくるのは、ほたるだった。
 汗が滲んでやはりまだ目がかすむが、それでも声ではっきり誰か分かった。
「ほ、たるちゃ…ぐ」
「急に起き上がるからびっくりしました…あの」
 見えない傷は相当のダメージで、やはり変身前の体でスペースソードの斬撃を受け止めたのは我ながらめちゃくちゃだった。こうやって安全な場所で時間をかけて考えればもっとましな考えが浮かんだだろう。今なら―だが今考えるべきではそこではない。
「…あの、ここは。私は…」
「ここは…私の家です。あのあとパパとは話をつけて、ひとまず運んでもらったんです」
 そう言われてみて、ようやく周囲を目だけを動かして見まわしてみた。やはり見れば見るほど見覚えはなく、それなりに広いが窓もなく特に家具も何も置いておらず、使っていない部屋に簡易ベッドを急ごしらえで置いたような場所だった。どこか監獄めいている。
 薄暗い部屋の中ベッドサイドのランプだけが灯り、どれだけ時間が経ったかさえ分からない。ただ沈黙の中、ぼろぼろの体で唯一聴覚だけは鋭敏になっていた。
「本当に…ごめんなさい。あなたをこんなことに巻き込んでしまって」
「それは…」
 亜美は言葉を出そうとして、再び口をつぐませた。声を出すと胸が痛むのもあったが、ほたるの気持ちに気付いてしまったから。
 一対一で、なにもない場所。逃げることもできない状態。一番ありえないと思って、考える前に締め出してしまった仮定が現実だと脳に沁みる。相手は仲間で、しかも自分よりはるかに子どもだと思っていたから。そして何より自分が誰かに思われるなんてことがそもそも想像できなかったから。
 彼女が自分を思っていてくれている現実。自分で考えろと言われたはずなのに、自分がふがいないばかりに結局教えてもらうような形になってしまった。
「…まさかパパがあんことするなんて…あなたにひどいことを」
 ほたるは涙交じりの声で亜美の掌を握る。その姿はやはり、幼い。
「ひどいことをされたとは思ってないわ…わたしは」
 たとえ何がきっかけでも、ウラヌスと一対一で戦えたことは亜美の中で少しの自信につながっていた。完璧とは言い難い戦略や力量の差からここまでぼろぼろになっていること、まだ弱く反省点は多いけれど、それでも逃げることも人に頼ることもなく、体一つで生きて戦闘を終了することができたのは確かに亜美には嬉しかったのだ。だからあの戦闘に関してはマイナスな感情は抱いていない。
 ただ、感情といえば、目の前のほたるのこと。以前偶然に出会ってから、本を押し付け寄り道をさせ、挙句戦闘に巻き込ませたあの一連の流れで、彼女が自分のどこを気に入ってくれたのかは分からない。人にそういう好意を向けられるほど自分に価値があるとは思っていないから、どうしてもそれに気付かなくて、向き合わなかった。
「…わたしは」
 改めて薄暗い部屋でほたると向き合って、目を合わせて思う。亜美より遥かに幼いその姿ながら、目には確かに戦士としての何かを感じる。それは戦いを経験して身についた血なまぐささや謀略とは無縁の、単純で純粋な、圧倒的な力。
 戦士としてそれを頼りにして、それでもまだ幼いその姿を守りたくて、結局共闘の折は自分のその感情に都合のいいように利用する真似をした。それでも先ほどのウラヌスとの戦いで守ってもらったときにどうしようもない安堵を感じて、傷を癒してもらった後口の端に微かに血を残すその姿が―確かに、意識が遠のくほどに美しかった。
 不思議な感情だった。だがそれはウラヌスと戦ったとき同様、決してマイナス方面の感情ではない。むしろ彼女の傍にいれば今まで自分がろくに向き合いもしなかった感情を真正面に見据えることになるのかもしれない。
 それは戦いのとき同様、体が震えるほどの恐怖で―それでも、震える心を止めることはもうできない。
「ほたるちゃんが―」
 亜美の掠れるような言葉に、ほたるが微かに目を見開く。亜美自身次に出る言葉は何かわからなかったが、それでも息を吸って口を開いた。伝えなければいけない言葉が、確かに出るはずだった。
 だがそれはドアが開く音にかき消された。
「…あら、お目覚めのようですわね」
「こんなかたちであなたと再会するとは思ってもみませんでした」
「……み、みちるさん…!?せつなさん…!?」
「ママ!」
 窓のない部屋、せいぜいランプくらいしか光源がない部屋では、みちるとせつなの表情ははっきり見えなかった。だが隠すことのない濃厚な気配ははっきり亜美を恐怖させた―殺意が自分に向けられている。
「ごめんなさいね、はるかがあなたを随分連れまわしてひどい目に合わせたみたいで」
「…あ、あの」
「先ほどまで別室ではるかとも話し合ってたのですが…やはりあなたの意識が一度戻ってからの方がいいだろう、ということで。起きていたのならちょうどよかった」
 口調は穏やかだがあからさまな敵意がにじみ出ている。亜美の脂汗はいつの間にか冷や汗に変わり、知性の戦士と言うよりはやはり死を目前にした一個の生命体として、ここから逃げ出す方法を思案する。唯一のドアの前にはみちるとせつなが立っており、突き破る窓さえない。
「…泥棒猫ちゃんにはおしおきを…人の目に触れる場所はやはりよくなかったわねぇ。ごめんなさいねはるかったらせっかちなんだから」
「…禁忌を犯すものは、消去します」
 みちるの微かに楽しんでいるようにさえ感じる声と、せつなの低い声。しゃれにならない危機が亜美を襲っていた。逃げ場はない。仲間を呼ぶにも時間がかかる。体はぼろぼろでひとしずくの勝機も見えない―再び遠のく意識。
「亜美さん!」

 亜美は最後の意識のひとかけらで、もしもう一度目覚めることが出来たら、そのときはちゃんとほたると向き合おう、心からそう思った。






                 **************************

 すっげー今更な続き(前作は書いた時はあれで完結したつもりだったので…)。小学生に翻弄されるダメ高校生という構図はなかなか楽しいです。
 某サイト様の二周年に一方的に捧ぐ…

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