プラマイゼロ±

 某美少女戦士の内部戦士を中心に、原作、アニメ、実写、ミュージカル等問わず好き勝手にやってる創作、日記ブログです。

蝶のように舞い、蜂のように刺す

2018-10-28 23:59:51 | SS





 マーキュリーは上機嫌だった。
 足取りは急いてるわけでもないのに軽く、すれ違い頭を下げる女官に微かにほほ笑む余裕もあった。というのも、彼女はこれから起こることに胸を膨らませ、珍しくハイになっていたからである。

 徹夜に次ぐ徹夜に次ぐ、また徹夜。過労働の過労働の、さらに過労働の果て、ようやく自室に戻れるのだ。
 読みたい本、広い湯船、ふかふかのベッドが自分を待ち構えていると思うだけで、マーキュリーは身もだえしそうになる。寝不足のせいで脳内麻薬が出まくっているマーキュリーは、ただ廊下の角を曲がるのにも無駄に美しいターンを決めた。

 本来死んでもおかしくないほどの労働量だったが、それでも、マーキュリーが今こうやって生きているのもジュピターのおかげだ。
 多忙を理由に仕事にヒルのようにへばりついていたマーキュリーを、最初は力で引き剥がして無理やり食事や休憩を取らせていたジュピターだが、仕事が増えるにつれどんどん頑なになっていたマーキュリーを見て彼女は態度を変えた。マーキュリーには声をかけることなくそよ風のようにやってきては、特になにも言わず高栄養のバーをマーキュリーの口内に突っ込んで嵐のように去っていく、ということを繰り返すようになったのだ。結果、今現在までマーキュリーは生き延びた。

 親鳥がひな鳥にえさを与えるような行動だったが、そのジュピターの行動のあまりの鮮やかさには目を見張るものがあった。ふらりとマーキュリーの前に現れ的確な場所に必要なものを打ち込む、蝶のように舞い蜂のように刺すとはああいうことを言うのだろう。保護の戦士の名に恥じない美しさだ。
 ジュピターも忙しかっただろうに、などと仕事から解放された今となっては申し訳なさや感謝がいろいろ湧き出てくる。きちんと会ってお礼をすべき、とも思う。だが、それでなくても、夜、手土産も持たずお礼に向かっていい時間ではない。それは改めるべきだと思うマーキュリーを今突き動かしているのは、自室で彼女を待ちわびているものたちだった。

 何を読もうか。仕事でさんざん目を通してきた軍事や予算や政治とは関係ない本がよいだろう。美しさと理論を兼ね合わせた幾何学の本がふさわしい。マーキュリーはわくわくしながら脳内で読むべき本を決める。
 幾何学の計算された美しさに嘆息しながらページをめくり、ベッドに沈むのだ。横になってしまえばすぐに意識は落ちるだろうが、それでも、本に意識が吸われそのまま眠りに至る快感は、やはり想像するだけで滾ってしまう。

 脳みそをやたらにハッスルさせてマーキュリーは自室にたどり着く。久々の自室、これからやってくる快楽の渦に、ときめきでむせ返りそうになりながらドアを開いた。

「はぁい」

 そしてマーキュリーのテンションはギロチンの刃のごとく無慈悲に落ちた。四守護神の私室に入れるものは限られている。マーキュリーを待っているものは、本やベッドなど、返事をする器用な真似はしないはずであったのに。

「こんばんは、マーキュリー」
「・・・・・・こんばんは、ヴィーナス」

 それでも、あいさつをされたらあいさつを返す。彼女に教えられたことのひとつだから、いかなマーキュリーとてこんばんはと言われたらこんばんはと返す。

「そして、さようなら」

 だからと言って、不法侵入を認めるわけではない。マーキュリーは自分からもあいさつをした。それはやはりギロチンのごとく無慈悲な声であった。

「ちょっ、なっ、はぁ!?今会ったところじゃないなんでさようならなのよ」

 ヴィーナスは至極もっともな突っ込みを返すが、そもそもマーキュリーは不法侵入の相手の常識なぞ知らない。そしてマーキュリーはどちらかと言えばこの世からさようならくらいの意味合いで言ったのだが、どうにも通じない。

「夜はこれからよ。遠慮しないで入って入って」
「入ってもなにも、ここは私の部屋よ」
「だから遠慮しないでって言ってるじゃない。変な人ねえ」
「・・・・・・?」

 現在進行形で非常識行動に出ている人に当たり前と言わんばかりの態度を取られると、往々にして己の常識が歪むものである。寝不足な上にテンションまでだだ下がりのマーキュリーは、いつもの聡明さはどこへやら、思わず首を傾げてしまった。
 問答無用で追い出すべき、と気づいた時にはすでにベッドまで手を引かれていた。不覚も不覚である。

「さあ、寝ましょう」
「寝るつもりだったけど・・・」
「だから、寝ましょう」
「・・・なぜ?」

 今度はマーキュリーは明確に疑問を口にした。なぜヴィーナスがここにいるのか、なぜベッドまで連れてこられたのか、なぜ「さあ」なのかなにもかもわからないから、すべてひっくるめての「なぜ」である。

「なぜって?」
「聞いているのは私だけど」
「皆まで言わせないでよ。野暮な人ねえ」
「・・・・・・・・・?」
「まあ、でも、言わせたいのよね。マーキュリーってば」

 ヴィーナスはやたら過剰なしなを作りつつ、頬を染める。マーキュリーには得体の知れないものにしか見えない。疲れ果てたマーキュリーが残り少ないエナジーで目に映すのは、湯船で揺れる水のきらめき、真っ白で清潔なシーツ。そしてあまりにも美しい幾何学の世界だったはずのに。

「最近マーキュリー、忙しかったでしょう」
「ええ」
「部屋にも戻れないくらい忙しかったでしょう」
「ええ」
「だから、寝ましょう」
「・・・・・・なぜ?」

 だから、の意味が本気でわからなくてマーキュリーは首を捻った。いや、「寝る」までは理解できるのだ。マーキュリーが部屋に戻った理由は、風呂と読書をクッションにしつつも、ずばりは寝ることだからだ。
 するとマーキュリーのなぜ、はすべてここに集結する。

「なぜ、あなたがここにいるの」

 わからないことは素直に尋ねるに限る。
 今は、自分で思考する快楽を享受する脳のキャパシティが足りないのだ。余裕がないが故に合理性に走るマーキュリーの顔を見て、首を捻ったのは今度はヴィーナスのほうだった。

「どうしてって、寝るためよ。あなたと」
「添い寝は結構よ」
「添うだけじゃない!その、あの・・・」

 そこでなぜかもじもじするヴィーナスを見てマーキュリーは焦れる。ゆらゆらと揺れる赤リボンが催眠術のようにマーキュリーの眠気を誘う。これだけ誘っておきながら、ベッドに連れておきながら、寝るためと言いながら寝かせてくれないのはなぜなのか。

「マーキュリー、抱いて」

 ヴィーナス頬を染め、己の人差し指同士をつつく作業を繰り返しながらもそりと言った。
 とにかく脳のキャパシティがないマーキュリーは、それでも言葉の意味は理解できた。ヴィーナスはマーキュリーとそういう行為がしたくて不法侵入して回りくどい態度に出て(実際には露骨な態度だったのだが、それが理解できるマーキュリーではない)なんのことはない。そうだったのだ。マーキュリーはひとり頷く。
 その態度を見てヴィーナスは目を輝かせる。マーキュリーの頷きを肯定と見て手を取った。

「・・・・・・ごめんなさい」

 そしてマーキュリーは腰を九十度に曲げた。ストレートに言われたからストレートに返す。瀕死のマーキュリーの、せめてもの誠意だ。だが、ヴィーナスはここまで露骨にNOを突きつけられるとは思っていなかったのだろう、顔を引きつらせながら取り乱した。

「なんでよ!?」
「私は今日は幾何学を抱いて寝るのよ」
「キカガクって誰よ!?」
「・・・・・・あなたではないわね」

 世にも頭の悪い会話である。
 そもそも不法侵入の方法やらなんやら、疑問に思うことは多々ある。だが、ヴィーナスの要求に対してマーキュリーは紛れもない己の気持ちを伝えたはずだ。マーキュリーは話は終わったとみて浴室に向かう。
 だが気がつけば片足にチェーンが絡んでいる。風呂と読書と睡眠以外はなにもしたくないマーキュリーは振り返るのも億劫だった。

「・・・帰って」
「やだ」
「今、あなたと過ごす時間は取っていないわ」
「言うわね~。でも話を聞けばあたしと過ごしたくなるわよ」
「嘘なら時間の無駄だし、本当ならなおさら聞きたくない」

 マーキュリーが首を傾げたり、話を聞いたりしていたのは相手の行動理由がわからなかったからだ。理解さえすれば、自分の常識と意思で動くことができる。ここまで明確に拒絶をすればさすがのヴィーナスも引き下がるに違いない。そう甘い見通しを立てたマーキュリーだが、足に絡みつくチェーンの感覚は変わらない。

「あたしは出て行く気がないわ」
「・・・なら」
「なら追い出すつもりでしょ?」

 あなたの事なんてお見通しよ、ときっぱり言われてマーキュリーは振り返る。なぜかヴィーナスは誇ったような表情でマーキュリーを見た。いて欲しくない人物が居座る気なら追い出す、割と普通の思考回路のような気がするのだが、ヴィーナスにとっては難事件を構成するトリックのような複雑な真実であるらしい。
 寝不足と、やりたいことを露骨に妨害されている現実にマーキュリーは気が立っていた。そろそろ戦闘態勢に入ってもいいような気がしたが、ヴィーナスは話を聞けと言った。一ミリたりとも聞きたいとは思えなかったが、話し合いは交渉の基本である。この状況を打破するためにもマーキュリーは耳を傾けることにした。

「仮にあなたがあたしを追い出してみたとするじゃない」
「仮に、じゃなくて、追い出す気だけど」
「じゃあ追い出してみて、そしたらあたしはどこに行くと思う?」

 冗長な質問に、マーキュリーは思わず「あの世」などと返しそうになる。
 だが、あの世という回答は円滑な会話のためには適切ではあるまい。いささか思いやりには欠けた思考回路ではあったのだが、マーキュリーを知性の戦士たらしめる強固な理性が、なんとかその言葉を押しとどめることに成功した。

「・・・自分の部屋に戻るんじゃないの」
「残念」
「じゃあ、どこに行くの」
「ふっふっふ、ジュピターのところよ」
「・・・ジュピター?」

 マーキュリーは怪訝な声を出す。ジュピターのところに行ってどうしようというのだ。彼女も疲れているはずなのに。

「実はさっき、ジュピターの部屋にマーズが入っていくのを見たのよ」
「ええ」
「夜にマーズがジュピターの部屋に入るとは、つまりそういうことよ」
「・・・ええ」

 マーキュリーは生返事をしつつ、そういうことがどういうことか、ということより、むしろこの間にチェーンが緩まないかなどと考えていた。だが、ヴィーナスはマーキュリーの思惑なぞ知らないと言わんばかりに、芝居がかった仕草で話を続ける。
 マーキュリーは目をしょぼつかせながらヴィーナスを見つめた。彼女の色彩は寝不足の眼球に優しくない。

「そこに、あなたに追い出されたあたしが飛び込んだらどうなると思う?」
「・・・おそうしき・・・」

 この時間にジュピターの部屋にマーズまでいるのでは、つまりはそういうことなのだろう。マーキュリーはのたくたと考える。
 そこにヴィーナスが飛び込んだら、と思うと、眠気とは別にくらくらする。血の掃除は大変だし、四守護神のリーダーの葬式となれば段取りもそれに諸々付随するあれそれも、今後の軍事バランスやら政治的な問題も山積みだ。

 こういうのをひっくるめて『面倒くさい』という。マーキュリーはめまいを感じた。

「・・・・・・わかった」
「さすが、そこは理解が早いわね」

 人には、耐えねばならないときがあるのだ。マーキュリーにとってはまさに今がそのときであった。風呂に入れないのも、幾何学の本を読めないのも、ベッドが目の前にあるのに眠れないのも、そもそも自分が不摂生をしたからだ。自己責任という言葉がマーキュリーに重くのしかかる。

「・・・私は、あなたを・・・・・・追い出せない」
「わかりあえてうれしいわ、マーキュリー」

 マーキュリーは悲壮な覚悟を決め拳を固める。そして、てかてかした笑顔を見せるヴィーナスによろけながらも歩み寄った。

「さあ、マーキュリー」

 そして蝶のように舞い、蜂のように刺す。

 マーキュリーはチェーンの重みがかかった片足を軸に、廊下を曲がったとき以上に美しく切れのあるターンを決める。この動きはジュピターがマーキュリーを生かすために何度も見せてくれたものだ。油断しきった様子で両手を広げていたヴィーナスの延髄に、手刀を叩き込む。度重なる実演による予習プラス寝不足故に余計な思考のないマーキュリーの動きは、かつてないほどにトガっていた。

 声も出さずに足下に倒れるヴィーナスを見て、マーキュリーは地獄よりも深いため息をつく。
 足のチェーンをほどきながらマーキュリーは、しばしヴィーナスをどうするか思案する。彼女の部屋に放り込むのはなんとも骨が折れてるので、このまま縛ろうか、浴室に氷漬けにして閉じ込めようか、とろとろの脳みそで考える。
 いずれにしてもこのまま放置して眠ることはできない。面倒くさいことだらけの現実にマーキュリーはまたため息をついた。

「・・・・・・マーキュリー、起きてる?」

 控えめなノックの音。こわごわ、と言った様子で開くドア。鍵を閉めなかったのは、ヴィーナスを追い出す気だったからではなく、お客が来ることを想定してのことだ。先ほどのヴィーナスの言葉で客が来ることを確信したマーキュリーは、すぐに眠ることはあきらめていた。

「こんばんは、ジュピター」
「・・・こんばんは、マーキュリー。あっ、やっぱり」

 先ほどよりは少しだけ柔らかい口調で、マーキュリーは来客を迎え入れていた。
 部屋の片隅で倒れ伏すヴィーナスとその傍らに立つマーキュリー、という犯行直後にしか見えない光景を、ジュピターは少し肩をすくめるリアクションだけでスルーした。

「やっぱりマーキュリー、寝てなかったの」
「寝るつもりだったけど、ヴィーナスがここに来たから」
「・・・ま、それじゃ寝られないか」
「彼女が、マーズがあなたの部屋に行ったと言っていたから、遅かれ早かれあなたがここに来ることはわかっていたし」
「・・・悪かったね、マーキュリー」
「・・・ジュピターのせいじゃ」
「でも、マーズから逃げるとか、どんだけマーキュリーに構って欲しかったんだろうねえ」

 ジュピターは倒れ伏しているヴィーナスの元にしゃがみ込むと、いたずらっ子のようにつんつくと頬をつつく。しばらくは目覚めないで欲しい、とマーキュリーは切実に願うばかりだ。

「・・・ま、誕生日だからそりゃそうか」
「誕生日だからって、よりによって私のところに来るなんて」
「うーん、マーキュリー、それは誕生日だからと思うけど?ほら、日付変わってるし」
「でも、この人になにか知られると計画が台無しだわ」
「マーキュリー、頑張ってたもんね」

 マーキュリーの徹夜に次ぐ徹夜の理由は、実際の日常業務に加えヴィーナスの誕生日を祝う計画があったからだ。決行は、誕生日当日、この夜が明けたあと。
 『四守護神のリーダー』の祝祭は少なくとも、先ほどマーキュリーが妄想した葬式よりも遙かに華やかで、そしてなによりも計画的であるべきだと。

「政治的にも、彼女の誕生日が果たす役割というのは大きいでしょう」
「それは、マーキュリーがあたしに命を預けるほどに?」

 ジュピターはふにゃりと笑う。マーキュリーの命がけに付き合わせた。それでも彼女は、笑う。わかっている、という顔で笑う。

「お祝い、したかったんだよね。マーキュリー」

 祝う気持ちが四守護神としてなのか、隣に並ぶものとしてなのかの言及はやってこない。ジュピターはそれ以上なにも言わないから、マーキュリーは反論もできない。疲れ目には優しいはずのジュピターの色彩も、その笑顔を乗せると途端に目映いものになる。

「・・・でも、危なかったわ」

 だが、それは当日までヴィーナスが知るべきことではない。長いことヴィーナスに計画を伏せマーズとジュピターに協力を仰いだ。そして今夜、明日の本番に向け、最後にマーキュリーが休めるこの夜、マーズは最後まで秘密を守るため、ヴィーナスの動向を探っているはずだった。
 それでもヴィーナスはここに来たし、その彼女はマーズがジュピターの部屋に行ったと言っていた。それは、マーズがヴィーナスを取り逃したのだ。夜にマーズがジュピターの部屋に来るということは、マーキュリーにとってはつまり「そういうこと」だ。
 マーキュリーが瀕死レベルの疲労を抱えていたことはジュピターもマーズも知っている、ゆえに、マーズが真っ先にここに来ることはなかったのだろう。マーキュリーは寝ていなければならないはずだったからだ。マーズは問題をジュピターと片付けようとした。そして、ヴィーナスの行方を、薄々予想がついていたであろうことだったが、ここであると探り当てた。

「マーズは?」
「あいつが来たら面倒だろ」

 マーズは一度取り逃がした己のプライドも賭けて、ヴィーナスに挑むだろう。そもそもマーキュリーがこの部屋からヴィーナスを追い出したらマーズに見つかるだろうから、マーキュリーがヴィーナスの行く先があの世などと思うのも、わりと真実に近い。幸か不幸か彼女は出て行かなかったので、床におねんね、という状態で済んでいる。
 誕生日を祝う前に一回本人の葬式を挟むというのはなんとも言えないものがあるが、ヴィーナスの生命力なら、棺桶の中で復活してバースデーケーキを頬張るなんて真似もやってくれそうだし、実のところそれはそれで興味深い案件であったりもするのだけど。

 だが、それは計画とは違う。マーキュリーは首を縦に振った。

「ま、ともかく、迷惑かけたね。マーキュリー、早く寝なよ」
「・・・でも、ヴィーナスをどうにかしないと」
「ああ、それならだいじょうぶ。あたしが」
「・・・引き取ってくれるの?でも」

 その時間まで、薬を嗅がせるか縛った方がいいのでは、と言うまでもなくジュピターは落ちたチェーンでてきぱきとヴィーナスを縛っていた。これだからジュピターはありがたい。拝みたくなるような気持ちでマーキュリーは動向を見ている。

「こうしたほうがいいよね」
「・・・ええ」
「でも、誕生日に目覚めたときに縛られてるって、なんかかわいそうだね」
「でも」

 それは明日になれば彼女もわかってくれるはず、という言葉をマーキュリーが出すよりもジュピターは速かった。何度も何度も見たその行為のどれよりも、ジュピターは速かった。それでなくても長いリーチは、マーキュリーの想定以上に遠いところからやってきた。

 蝶のように舞う。

「・・・ジュピ・・・」

 仮にも戦士であるマーキュリーが臨戦態勢を取るよりも、彼女を呼ぶよりも、それは速い。

「おやすみ、マーキュリー」

 蜂のように刺す。

 マーキュリーの歪む視界に写っているジュピターの表情は、仕事にへばりついていたときに見ていた鬼気迫るものとは違う。マーキュリーを生かすときに殺気立っていた彼女の表情は、今は穏やかだ。
 あのとき同様、ジュピターは蝶のように舞い、マーキュリーを蜂のように刺しただけ。だが、命をつなぐため引き留めていた表情から一転して、今マーキュリーが見ているのは、送る人の笑顔。
 それがわかっていて、マーキュリーはなにもできない。やってくるのは痛みでも衝撃でもなく、濃厚な花のにおいだったが、それを認識した瞬間全身の力が抜けていく。もはやマーキュリーにできるのは、縛られて伏しているヴィーナスの隣に、倒れることだけだった。

「計画も大事だけどさ、ふたりでいっしょに寝るくらい、いいんじゃない?誕生日なんだから」

 ジュピターの言葉は、もはや意識のないマーキュリーには、届かない。ジュピターはやれやれと息をつく。
 ジュピターは緊縛ヴィーナスとマーキュリーを片手ずつに難なく抱え上げると、ベッドに放り込むのではなく、安置した。ヴィーナスはちゃんと縛ってあるので、いっしょに寝はしてもマーキュリーの安眠を妨害はできまい。ヴィーナスはヴィーナスで、誕生日の朝寝起きに一番に見るのがマーキュリーの顔なら、縛られていることなど些細な問題だろう。

 これはハッピーエンドといってもいい出来なのでは、とジュピターは口角を上げた。ちゃんと枕を敷き、布団を掛ける。電気を消すのも忘れない。ジュピターはマーキュリーがこの部屋にやってきたとき以上にほくほくした表情で部屋を出る。ドアの傍には、マーズが壁にもたれかかるように待っていた。

「お待たせ、マーズ」
「思ったより早かったじゃない」
「あたしがやるまでもなく、マーキュリーがヴィーナスを倒してたからねえ」
「よくそんな体力が残ってたわね・・・マーキュリー」
「せっかくマーズがヴィーナスを見逃したのに、残念だったね」

 真実は意外とたくさんある。いて欲しくない人を追い出したいと思うのがシンプルな真実ならば、誕生日の人とそれを祝いたい人両方の顔を立ててあげるのは、比較的複雑な真実であると言えるだろう。マーズとて、協力者だ。
 ヴィーナスがマーキュリーの部屋にやってきたということは、マーキュリーはマーズがヴィーナスを取り逃したと思うだろうし、マーズはそうマーキュリーに思われればよかった。両方の顔を立てた。そしてこの場を納めるのは、自分よりジュピターのほうが適任だと思ったから介入しなかった。ほんとうに、それだけのことだ。

 マーキュリーの祝いたい気持ちも、ヴィーナスの誕生日にマーキュリーの傍にいたい気持ちも、マーズとジュピターは否定しなかった。黙ってほんの少しのスパイスとともに背中を押しただけだ。

 蝶も蜂も、その行動は花を咲かせる。祝祭は夜明けだが、マーズはとジュピターはここで誕生日前の作戦の前祝いをささやかに祝ってもいいかな、などと考えていた。








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