つむじの流れが、水の渦のようで美しい、ふとそう思った。
その渦は、医学書で見たものか絵画として見たものか、それとも実際にプールや浴槽で見たものか。脳内にそれこそ渦を巻くように思考に沈んでみたが、結局正確な記憶を掴むことはできなかった。
マーキュリーは特別長身というわけではないので、そもそも人のつむじをまじまじと眺める機会は少ない。それでも普段意識などしない場所に目が行くのは、こんなところまで美しいのか、という感嘆がわいたからだ。だが、それ以上正確な思考は、マーキュリーの頭脳を以てしても追いつかない。ふと与えられる感覚から連想させられるものに意識を向かわせようとしても、やはり渦のように乱されていく。
「まーた、いらないこと、考えてる」
いらないこと、とはなにか。マーキュリーは、考えることが存在意義のようなものなのに。
ヴィーナスの、また、という言葉に微かな棘を感じて、マーキュリーはヴィーナスを見下ろした。取っている体勢が体勢なので、相変わらず水の流れのような美しいつむじしか見えない。
マーキュリーはただなにもまとわない姿で、ベッドにぽつねんと腰掛けている。そして、ヴィーナスもまた同じ姿でその足を取り、口づけを繰り返している。これではマーキュリーにはどうしたってつむじしか見えないのだから、ただつむじの美しさに思いを馳せるしかない。この場にふさわしい、決して『いらないこと』ではないはずなのに。
足の指を舐められているという背徳感や、四守護神のリーダーに膝を立てさせているという事態よりも、なによりもただ美しい、と思ってしまう。
「あたしが美しいのは当たり前でしょ」
思っても言葉にしないマーキュリーの本音を、ヴィーナスは言い当てる。どうしてヴィーナスはマーキュリーの思っていることがわかるのか。マーキュリーには考えてもわからないことばかりで、だからマーキュリーには考えるしかない。考えるしか、できない。
ヴィーナスとは違うことを考えていたら、ベッドでそういうのは不作法だと言われた。だからヴィーナスのことを考えていたら、今度はこれだ。
マーキュリー本人には自覚はなかったが、不満げな顔を見せていたのだろう。やおら顔を上げたヴィーナスは、マーキュリーの表情を確かめた上でにやりと笑う。
「ふふ」
ヴィーナスの笑顔に、マーキュリーは感嘆した。考えても出てくるわけがないのだ。水の流れといったありふれたものでは形容できない。似たところからいくら考えたって、結局当てはまるものなどありはしない。
ただ、美しいのだ。
何度こうやってこの思考を繰り返したか、思い出すことはできない。普段なら考えることをまずしないし、こういう場では最後まで考えられることを禁じられている。それでも水の渦が浮かんで見えるのは、自分の中に渦が巻いているからだと気づきつつある。
こうやって、思い出せないくらい、何度も渦が巻くように繰り返す。
キスの場所には意味があるとどこかで聞いた。足の甲なら隷属、爪先なら崇拝。今まさにそうやってその場所にそういうことをされているマーキュリーは、しかし、ヴィーナスにそのような感情を向けられているようには感じなかった。むしろ、戦士でありながら足を取られている現実は、されている自分が隷属を求められているような気さえしてくる。
足を取られて、その部分を舐めあげる舌が、さらに上に上がっていく光景が目に映る。餌として食べられる獣が見る景色もこんな風だろうか、とマーキュリーは思う。もっとも、実際にその立場なら、まず息の根を止められて後のことなので、こんな風に頭から遠い部分から、焦らすように、見せつけるように嬲り犯されたりはしない。
ヴィーナスは、つま先から食われていく様を見せつけているのだ。
マーキュリーは、別にそれは嫌ではない。悪趣味だと思うだけだ。
指の股を舌の側面が滑る。足の甲の骨をなぞる。アーチをかけるようにくるぶし、ふくらはぎ、膝頭。足がもう自分のものではない感覚。食べられているのだから当たり前か、と思い直す。彼女の舌や唇や指先が、流れる髪が触れる部分は、すでにそれだけで奪われている。
足を奪われたら、どうやって戦士として生きていこうか。義足を作るのは楽しそうだ。自分のものなら倫理観がとがめることもなく、自在な機能を付けられるだろう。だとしたら、それはそれで、とマーキュリーは思う。
もう、つむじは見えない。だが、マーキュリーにはまだ渦が巻いているのが見える。
ヴィーナスは獣のような姿勢でマーキュリーを組み敷き這う。座っていたマーキュリーは、上がってきた舌に抵抗することもなくベッドに身を預ける。太もも、骨盤、下腹部。このまま食べられてしまって、内臓の取り替えはきくだろうか。やはり普段なら倫理観がとがめるようなことも、自分の体でなら好きな想像が可能だ。
そもそも、食べられてしまった内臓を取り替えるよりは、機械を肉体に埋めた方が簡単で合理的なのかもしれないが、意外とそういう方面でものを考えない自分の思考のくせに気づく。
青い心臓は目にも優しい。七色の血液を吐き出す仕組みにすれば、有事にシャボンスプレー以上の目くらましにはなるだろう。血液の代わりになる動力に、通常の人体には有害なものを仕込めば、いわゆる返り血で敵を倒すこともできる。
どうせ心などとうにこの体の中にはない。頭ではそう思う。なのに、本物の心臓は肋骨に食い込むように荒く弾んでいる。
性欲を煽ると言うよりは、調教を思わせるような愛撫。乳首を噛まれる快感より、乳房の肉を食まれることによる被虐感。セックスなんて直情的なものなら、もっと楽だったかもしれないのに。汗をぬぐうようなヴィーナスの舌使いは、離れても重みを持ってマーキュリーの筋肉にしみこんでいく。
マーキュリーはそれを拒まない。
チェーンを使われているわけではないが、目に見えないものでで自分が雁字搦めのように捕らえられている、実感。歯を食いしばる。奪われているのに、縛られている。妙な感覚だった。
この感覚はどう例えたらいいのだろう。例えなくても、そもそも正体がなんなのか。マーキュリーは考える。
「マーキュリー」
何度も言わせるな、という声。マーキュリーが言葉を返す暇も与えない口づけ。肺腑の活動を封じられたように感じる。
水が呼吸器に入り込んで死を呼ぶ慈悲がないだけ、それはマーキュリーにとってはとても苦しいことだ。肺を取り替えるなら、水中でも活動できるようにと頭では思うのに、慣れ親しんだ水に沈む苦しみはマーキュリーにとっては慈悲だと思い知らされる。だって今、ただの口づけが、こんなに、苦しい。
不合理な思考。かき回される舌。渦が巻く。頭に、胸に、体に。
「マーキュリー」
くちびるから鼻、耳、眼球に口づけ。視野が水の中みたいに歪む。目玉を取り替えたら、水中でも困らない。なのに水中でもない今、舐められた眼球はもう適切な焦点を結ばない。
順番に食べられた場所はもうまともな機能を有していない。足は立たない。心臓は死に向かうように駆けている。五感が囚われる。それなのに足の指がしがみつくようにシーツに食い込む。意志で制御できない恐怖はあるのに、義足にしておけばこんなことはできなくなるのだろうか、とも思う。矛盾が脳から染み出してくる。額に口づけられる。
脳は、脳を取り替えたら。
脳を取り替えたら。
脳を取り替えたら、楽になるだろう。戦士としてもっと有能になれるだろう。痛みも矛盾も感じない。脳を肉体から解放する。こうやって抱かれるたびに思う。渦はまだ巻いている。こんなものが見えなくて済むにはどうしたら。
脳を取り替えたところで、彼女を美しいと感じることから逃れることはできない。美しさとはそういうものだ。それはマーキュリーの問題ではなく、ヴィーナスが持つ真実で、そしてマーキュリーには救いだった。
だから、ヴィーナスが美しいというただ一つの真実さえあれば、心置きなく、今よりもっとよい自分を探せるはずなのに。
それなのに手を放してくれない。
すでにヴィーナスはマーキュリーのつむじを目視できるほどに肉体を這い上がっている。見下ろされる立場になって、果たして彼女に渦は見えているのだろうか、とマーキュリーは思う。マーキュリーの中をかき回す渦が、ヴィーナスには。
「マーキュリー」
その名を呼ばないで。マーキュリーがいくら思っても、言葉で耳まで犯される。先ほどヴィーナスは言葉にしないマーキュリーの声を聞き取ったのに、本当に聞いてほしいときは届かない。
聴力を強めることは容易で、強めたら戦闘の場でどれだけ役に立つか知れない。それなのに、こうやって、耳元で聞き取れるだけの微かさで囁かれるだけで骨が溶けそうになる。
矛盾は洪水のようにあふれ出してくる。抱かれると普段考えないことが頭に浮かぶ。戦士として、彼女の役に立てるよう。それはセックスの場で丸裸になるマーキュリーにとってかろうじてできる頭脳による装飾で、結局は少しでもヴィーナスによく見られたいと思う恋心で。
指の股同士が触れるように、強く手を握られる。逃げられない。もうほとんど見えない。彼女が起こす音しか聞こえない。体の支配権を明け渡す実感。そんなもの、とっくに渡していたと思っていたのに。体は意志と反して震える。矛盾が脳髄を突き破って、マーキュリーを内側から破ろうとしている。
先に破れたのは外側だった。もう閉じることもできない足に入り込んでくる彼女の指。嘘みたいに滑らかに侵入してくる。かき回される。いつの間に、こんなに、濡れて。開くからだ。渦が。渦が。もう、渦しか見えない。
渦は自分の内側にある。
内側を犯される。掻かれる。耳を持っていかれるほどに強く噛まれる。下腹部が重く弾ける。
「・・・・・・あみちゃん」
傷む耳元で囁かれる優しい甘い声に、脳髄が破裂したような感覚に、それまでなにも出なかったマーキュリーの喉から悲鳴がほとばしる。
「いっぱい出たわねえ」
だらだらと涙を流しながら荒く息をついてベッドに沈むマーキュリーに、ヴィーナスは感心したような声をかけた。まだ視界がおぼつかないマーキュリーでも、ヴィーナスがマーキュリーの眼前でひらひらと手を振っているのが見えた。
いっぱい出たのがなになのか、マーキュリーは考える。汗か、声かと迷って、ヴィーナスがわざわざ自分の前で見せるように手を振っていた理由に気づく。重い体をなんとか捻り、マーキュリーは枕に顔を埋めた。真っ赤になった顔を見られたくはなかった。
「こら、すねないの」
行為の最中より、ずっと穏やかな声。それもそうか、と思う。セックスというよりは調教のようであったと、最中も、今も感じる。それでも顔を上げることはできなくて、マーキュリーはいやいやと首を横に振った。
噛みつかれた耳が、行為の余韻をいつまでも残すようにじんじんと疼いている。掻かれた内壁が未だに足の間に涙を滴らせている。誰からも見える場所と自分にしかわからない場所に痕を残されて、マーキュリーはぐずぐずに泣いた。
「痛いの、好きでしょ?」
ヴィーナスの言葉に、マーキュリーは返事をしない。目を見て話せる状態ではなかったのもあるが、本当のことを言い当てられて返す言葉がなかったからだ。
マーキュリーは痛みが好きだった。人間が人間である、生きていることをもっとも実感する感触。どれだけ戦士としてヴィーナスの力になりたくて、そのたびに頭で随分機械的で無機質なものになりたいと望んでも、当のその彼女にこうやって肉体で否定される。どれだけ機械に近づこうとも、彼女の美しさを見失うことはあり得ないのに。その真実があれば平気なはずだったのに。どろ、と涙があふれる。
それでも、ヴィーナスの言葉に、恥じらいではないところで違う、と思った。
あまり働きの良くない脳で、それでもマーキュリーはまた思考を始める。考える機会や言葉を与えられて、やっと脳内から言葉を探すような働きしかできなかったが、マーキュリーは真実を求めさ迷う。渦のようにぐるぐると。
渦はまだ、とぐろのようにマーキュリーの中に巻いている。
それでも、鈍くなった頭だからこそ脳に染み出してくるものが見える。それはむしろ、最初からずっとあって、ようやく見えただけだ。
「・・・マーキュリー?」
マーキュリーは、重い体をシーツからはがすように起き上がる。まだ涙も止まらなくて、随分とみっともない顔を向けていたけれど。
かつて世界の真実のひとつを見つけた時、歓喜のあまり風呂場から街に裸で飛び出した学者がいたように、マーキュリーも真実を見つけ、もう装飾する意思をなくしていた。怪訝な顔をするヴィーナスの顔をまっすぐに見て、肩に触れ、そしてそのままベッドに押し倒す。制御できない思いが、体を動かす。体に引きずられた先ほどとは真逆で。
愛の女神は、意外そうな顔をしている。
痛いのが好きなのは否定しないが、思いが渦のように湧き出るマーキュリーにはもはやそんな言葉は必要なかった。最初から、最後まで、ただこれだけだったのに、頭で考えるから真実を表現できなかっただけだ。
痛いのが好きだ。生きているからだ。なのに彼女に必要でありたいと願う意志から装飾として機械的になりたいと思うし、そんな自分を襟首掴んで引き留める彼女に身をゆだねる。矛盾だけのマーキュリーの真実。それは、ほんとうに、とても単純な理由。
やっと見えた。ずっと見えていた。それは渦となり、マーキュリーを随分と長く動かしてきた。
「・・・・・・あなたが好きなのよ、美奈」
マーキュリーはヴィーナスの言葉を最後まで聞かず、泣いたまま肘を折った。もう滅多に呼ばなくなったかつての名前を呼びあうのは、ずいぶんと照れ臭いことだった。くちびるは初めて触れた時と変わらずやわらかい。
彼女たちが出会って、すでに千年近い時が経とうとしている。
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