雲・・・

I love being free, it's the best way to be.
・・・思うままに

KAYOのブログ


秋田を愛し、竿燈祭りを愛し、サッカーが好きで、男鹿の海が好き。
そしてお酒をこよなく愛するkayoのブログでっす^^

居酒屋兆治と居酒屋加代の昔の写真

2015年11月02日 23時16分34秒 | 『居酒屋 加代』 時代
最近BSでさ
昔の映画にはまってる
そして高倉健もよくやってるの

なんか任侠とかも多くて面白いんだけど
今回はちょっと切ない『居酒屋兆治』でした。。。

うちも…

店が終わった後も
こーやって常連は飲んでたな。

喧嘩で起こされもしたし

懐かしくて
居酒屋kayoの写真なんかないか捜してみた
したら…

あったです

映画のワンシーンみたいならいかったけど

だれが撮ったかは分からないですが

写真の隅っこ見たら偶然

この写真も『居酒屋兆治』の映画公開と同じ
1983年(昭和58年)の写真でした。

当時のわいわいがやがやが懐かしい

今の時代に。。
こんな居酒屋やって安く飲めたら
みんなきてくれるかな…
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元祖ガールズ居酒屋

2012年06月14日 20時46分46秒 | 『居酒屋 加代』 時代
『ガールズ居酒屋摘発』なんて騒がれてますが・・

秋田にもできたって前に聞いたことある(・・*)

はっきり言って

居酒屋でおなごがいるのはまあ良いとして

ただ大騒ぎして
ボキャブラリー貧困なガールズたちがいて

その上まずいもの出されて

どっちかと言えば客がガキ(失礼)の相手してるような状況で金払って

なんでそんな商売が成り立つのだろうかと・・・

不思議

そんなこと考えてたら思い出したことがある

今年の1月に竿燈遠征(出竿といいます)
東京ドーム出竿でした。

そこで久々においらは母に会うことができました。

時間があったからさ
ドームのお客さんに混じっていろいろ話しができたんだけど

そんな中、母は昔の写真を持ってきてました。

その中に『居酒屋加代時代』に居酒屋加代で母も仕事してた時の写真が・・・

写真は
オイラ(4才くらい)がいて『母』がいて『紀子おばちゃん』がいて
さらに紀子おばちゃんの姉の『栄子おばちゃん』がいた

そんな写真でした。

そのころの『居酒屋加代』
働いてたのが
24才の『紀子おばちゃん』26才の『母』27才の『栄子おばちゃん』と・・・

当時は女三姉妹という話がクチコミで伝わり
すごい混みようだったそうです。

みんな子持ちだったのにね

接客もしっかりしてて
スナックさながらなじみのお客にはカウンターで一緒に飲んだりしてたから

すごく評判だったと思う。

当時ではそのくらいの年でも若いほうだったと思うしね

ただ・・・
今の時代と違うのは

料理が本物だったと言うことです。

ガキの料理じゃないってこと

『おでん・串かつ 季節料理加代』って看板だったからさ

山に行き
春はわらびとか
秋は雪降るまでキノコ採り(オラも狩り出され

毎日市民市場に生鮮に買出しと

おでんはちゃんとガラで出汁とって

出すものは本物でした。

黒板に毎日旬の料理を手書きで書いてさ

その頃冷凍そのものがあんまなかった時代だけど

それでもさ
やっぱ食べるもの飲むものが美味しくなきゃ人は来ないべ

そう思う加代です
下品な接客に品のない料理!
そんなイメージが今の『ガールズ居酒屋』のイメージですが。

よく行くよね

と・・・オヤジ(じいじ?
の戯言でした

若い子いるに越したことはないけどね

どうせだったら本物出したうえで女の子のしっかりした接客あればいいのかなとも思うけど

でもそう考えると・・
居酒屋加代は

元祖ガールズバーだ

そういえば

なんか竿燈会の上の人でも来たことあるっていう人いたな~
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自動販売機

2012年03月07日 21時48分06秒 | 『居酒屋 加代』 時代
とある高校の時のお話し…

いつもおいらは夜中まで『カザビアンカ』と言う喫茶店に出入りしていました。

当時は携帯もない時代

そんな時代は…
いつも仲間がいて
または『カザビアンカ』に連絡すると仲間のいどこがわかったりと…

喫茶店は当時では連絡中継点としての機能も果たしていたたまり場だったと思います。

いろんな喫茶店がある中
そこそこでの仲間意識が芽生えるのもまた喫茶店のよさでもあり…

そんな仲間と夜一緒に帰った時のお話です。

とっても寒い日でした。

おいらたちまだ高校生なのでチャリンコでの帰り道。

一緒に帰った喫茶店仲間は…

ここでは《さく》と言いましょう

そうです

以前もチャリンコ泥棒編で登場していたあの《さく》君です

二人でのチャリンコでの帰り道。

日中はそんなに寒くなかったのだけど
夜の気温はマイナスになってたかと思われる。

とにかくチャリンコでの帰り道は寒かった。

二人して下を見ながら必死にチャリをこいで家路を急いだ。
(さくのうちはkayoの倍以上あった)

手がかじかんで…
ハンドルを握る手がきつい冬の始まりの時期。

そんな帰り道…
耐えられなくておらが言った
『さくー、温かい缶コーヒーでも買わねがー』

さく
『んだなー。賛成ー』

そしておれ
『もう少し行ったら自販あるべがら買おー』

などと言いながら自販に着いた。

まずはおいらが100円入れた
(この頃は自販の飲み物は100円でした

そして《HOT》のコーヒーボタンを押した!

後ろでは、さくは寒さで震えながら待っている。


ガタンガタン!

HOTのコーヒーが落ちてくる

はずだった…


落ちてきたコーヒーを手にとると



しゃっこい

しったげしゃっこい(すごい冷たい)

うしろではさくがまだかまだかとおいらを待っている・・・ 

そんなさくを見てると

無性に腹がたった

《HOT》をちゃんと押したのに
冷たいコーヒーが出てきた怒りの矛先はすぐに《さく》にむかった


このショックをなんも知らないで待っている《さく》に
なぜだか無性に怒りがムラムラとむかった

そして
次においらのとった行動は…

『おー熱っちい熱っちぃ』
さらに
『手があったまるなー』と付けくわえたのでした…

さく…
『はやくーおれも手がしゃっけえから同じの買う』

と言いながら俺と同じボタンを押した

ガタンガタン!


出てきたのは…

さく
『あれ?』
『しゃっけえんだけどー』と…

おらは吹きました
そして
『わり―わりー。俺だけこんな目に合えば悔しいがらよ
ちょっと演技した』

と言ったら《さく》
『なにや!ひでーなー。やられだー』
とか言ってました。

そんな訳でおらとさくはしゃっこい缶コーヒー抱えて
また寒い中チャリンコこいで家路に向かったのです…

おらのうちはそれからすぐそばでしたが
《さく》はさらに倍以上を根性で帰ったのでしょう

これも全て
自販が悪いんだー!!!

と言うことにしておきましょう

昭和のアナログ時代の機械ではよくある?
ひとこまだったのでした
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優良新聞少年

2012年01月29日 20時31分06秒 | 『居酒屋 加代』 時代
おいらは優良新聞少年

そうです!

『優良新聞少年』でした。

高校一年~3年まで

3年の夏には秋田の中から数人
『優良新聞少年』に選ばれ、新聞にも載りました。
インタビューも掲載されました。


某新聞社の配達を約三年間

雨の日も風の日も猛吹雪の雪の日も

ほぼ毎日休みなしで配達した3年間。

そう!

おいらは
優良新聞少年』なのです。

二日酔いの日も…
週一回の子供新聞がどこに配達したか記憶にないくらい酔っぱの中でも配達しました。
自転車も乗れないくらいの時もありました。

そうなんです!
おいらは『優良新聞少年』

夏のとっても暑い日は
どっかの玄関にある牛乳入れの蓋を開けて勝手に飲みました。

そーっでです
優良新聞少年』です!

市場も3年間配りました。

市場の朝は早く
みんな「おはよー」と声掛けてくれます。

そしてそんな市場の隣にある自動販売機がたくさんある場所が
おいらの煙草…いっぷく休憩の場所でした。

ウォークマンで尾崎豊などを聴きながら
朝の至福のひととき休憩

そして途中煙草の銘柄を
ラッキーストライクからセブンスターに変えた時は
あまりのきつさに目が回り、
新聞積んだ自転車ごとひっくり返ったこともありました。

そーーーーです
おいらはそうやって高校3年間頑張って
優良新聞少年』なのです!

市場は毎日配ってたけど…
日曜は誰もいません。

そんな時は…
パンのたくさん入っている箱をそーっと開けて
おいらの朝のおやつになっていたことは誰にも言えません

そうだ!
おいらは『優良新聞少年』

そして市場の中の通路の側溝に目をやると…
小銭がたくさん落ちているもので。
ひろい集めてた『優良新聞少年』なのです。

駅前配達もしてました。

朝早いおっさんから
「新聞売ってくれ』と言われると

店には報告なしに売ってました

うんうん
やっぱ『優良新聞少年』ですね(汗


最後はよなよな夜遊びのせいで
配達が6時から8時という日が続いて苦情が殺到してたようですが…

そ、

そんなおいらでも

優良新聞・・・・・・

いーのかー!!!!



いいんです。。。

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原点…その四

2011年12月16日 21時01分48秒 | 『居酒屋 加代』 時代
kayo社会人一年目でもあった年

ようやくうちの町内でも
本番前に練習やるようになった。

向馬口労町近くにある銀行の駐車場で…
ちょこっとだけど練習した。

今でこそ年がら年中、
いろんな町内がいろんな場所で練習してるものですが

当時は
本番時期以外に竿燈練習はやってなかったと思う。

出竿も今ほど多くはなかった。

そんな時代だから
竿燈前に少しでも練習やれるようになったのは貴重でした。

なんとか肩と平手を(それなりに?)あげれるようになり
本番を迎えた3年目の竿燈祭り。

またまた意気揚々
竿燈祭り…お祭り男となり頑張りました。

当時のお客さんはすごい入りで大盛り上がり
こっちも応えようと出来る限りの演技で竿燈祭り張りきってやったのでした。

とにかく人の多い時代です。

そしてそんな竿をやりながらもkayo…
お囃子にもすごく興味があり

ずーっと竿やりながら囃子も見てました。

太鼓、楽しそうだな
とか

どう叩くんだろう
とか

初日の夜、宴会が終わって
竿燈を誘ってくれた友達のうちに泊まった時kayoは聞いたの。

kayo
『あのさ、太鼓ってどういうフレーズなの?』

こうへい(ともだち)
『おれもやったことないけど…』

といいつつ
『どどーんドン♪ どどーんドン♪ どどーんどどーんどどーんドンドン♪』
『どーんドンドン♪どーんドンドン♪…  …』

と教えてくれた
こうへいは幼若からやってたからフレーズは出来ていたのでした。

それを寝るまでずーっと教えてもらって
布団にはいってもずーっと口ずさんでいた♪

それ、そのフレーズがまさに
いまの和奏会で基本でやってるのと同じな訳ですが。

そして次の日(二日目)
本番の行進が終わり

いざ演技開始でした。

基本、竿だったのでkayoは演技に夢中でした。

お客さんのざわめく中
大賑わいの中、一生懸命いい竿燈差そうと演技をしていた。

そんな中
気になる屋台にふっと目をやった。

すると…

なぜかお客さんが屋台にたくさん集まっている!!!

その光景

人が人を呼んで
すごい状況だったの覚えている。

みんな
なんだなんだー!って感じで。

そんな屋台の真ん中ではkayoにはすごく明るく
光っているように見えたんです。

オーラってそんな感じと思う

そしてその中心ではすごいいい音が♪

人ごみの中、真中がすごく光ってて
そして中で叩いてる人が音がものすごくて

それは…
当時まだ若かった等○さんだったのでした…^^;

とにかく凄かったです!

22か23の時の等○さん。
若かったです(^^

ホントにかっこよかった。



そして…

少し回想終わり、
ちょっとkayoの気持ちのお話しですが。。。

お囃子って…
目指すべきものやその町内での環境とか
あとはきっかけや教えに基づくもの

いろいろあると思います。

自分はこの時の衝撃が忘れられず。

竿も好きだし
演技もしたかった

けど
あの太鼓を目の当たりにして
太鼓に目が行った後…

人々を魅了する音
人々を魅了する太鼓のバチさばき、
人々を魅了する叩いてるときの躍動感
人々を魅了するオーラ

とにかくこれがやりたかった。
そして見て欲しかった。

オーラと躍動感とバチさばきと…
そこには妙技会という言葉はまったく無意味なものなのです。
(妙技会についてのお話しはまた機会あったらしたいと思いますが。。。)

そして
それが町内の竿の人たちにも聞こえるように

うちのお囃子が聞こえると理解してもらえるように。

それが自分の太鼓に対する思いの『原点』
だと思います。
今でもその気持ちは変わりません。


そして回想に戻ります^^

それを見てからは
いてもたってもいられず
その年の後半はずーっと太鼓叩いてました。

前日覚えたてのフレーズを
とにかくがむしゃらに叩いたんです。

その時のうちの町内のお囃子は
わずか3人か4人だったようでした。

叩き始めたら交代なし!
そんなお囃子隊でした。

だれも交代要員がいない・・・
そんな状況でした。

祭りが終わった後

昔から竿燈やってた笛のおじさんに
『おめーいきなり彗星のようにやってきたな!』

『まず人いなくて大変だったから助かった!そしていがったや!』
と言われてすごく嬉しかったの覚えている。

それからは本番はほとんどお囃子になったのでした。

でも毎年、竿の練習も怠りませんでした^^

理由…
一緒にやり始めた人たちと差がつくのがいやだったからですが。

とは言え…
今となっては竿一本でずーっとやってる人達にはかなわない気がする。

今は遅れを取り戻すべく
竿の方も一生懸命なんだけど。

そんな感じで
まだまだ竿燈祭り頑張るつもりです

『原点シリーズ』
まずはこんな感じで終了かな
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原点…その参

2011年12月15日 22時18分30秒 | 『居酒屋 加代』 時代
初めて参加した竿燈祭り

夜本番
会場に入ったときの歓声とカメラのフラッシュが
とにかくすごかった記憶がある。

今まで観客として見ていた竿燈が一転
差し手としての自分になったんです。

でも…

初年度は結局
お客さんの前では上げられないままに終わったのでした。

一年目の戻り竿燈の最終日に練習した感覚で

結局2年目を迎える

二年目はkayo高校3年17才の夏でした。

でも

実は
おいら県外に用事があって三日間は出場出来ず…
(このころは竿燈は三日だった)

その年は初日1日だけの参加と決まっていたのでした。


しかしその年の竿燈初日は大雨
ものすごい大雨…土砂降りだったの覚えている。

それでも開催したんです。

行進が終わって
始まりの笛がピーっとなる

雨はまだすごい

その中!

2年目のkayo
今年は今日しかない!

と意気込んでいたkayo

雨の中、開始の合図は鳴ったが

なんとか10分はやったか

その後はすぐに終了の合図だったのでした…

結局満足に持つことが出来ず

2年目のkayoはそのまま
その足で秋田駅に行き(走った)

そして
東京へ

竿燈やりたかったおいらの高校3年生の夏でした。
(この理由と思い出はまた『居酒屋加代』シリーズで書く予定

無理なスケジュールでやっと出場した
おいらの夏の出来事

寝台で東京に行く予定はあったけど
それまでぎりぎりまで

竿燈に出たくて出たくて
竿燈…やりたくてやりたくて

そんな

まだ竿の時のkayoだったのでした。

そして本当は
3年目でお囃子に一気に傾くのですが…

今日はここまでにします^^;

続く

あっ!

竿燈のあと秋田駅に向かったkayoでしたが…
実はさらなる試練がkayoには待ち受けておりました

それはまた後ほど

とりあえず
この『原点』
完成させねば

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原点…その弐

2011年12月12日 22時52分34秒 | 『居酒屋 加代』 時代
高校の時に誘われたのがきっかけで始めた竿燈

それまでは
家(居酒屋加代)の前を通って会場に行く竿燈…
行進のお囃子とともに胸を張って竿燈を持っていく差し手を見てわくわくしていた自分

お見送りの後は追いかけるように同年代のいとこらと
祭り会場まで歩いて毎年見に行っていた竿燈祭り

それが高校からは

そんな竿燈祭りに自分も参加できるという
すごく嬉しかったです。

そして

たまたま所属した竿燈会が

『向馬口労町』という町内で
しかもそこの竿燈会の事務所は『掘幹商店』という酒屋だった。

しかもそこにいたのは
いつも『居酒屋 加代』に配達に来ている人達ばかりでした

堀幹の人たち…

「なんだ! おめー、加代のとこのわらし(子)だねが!」

ということになり…

だからおいらは当時からそのまま

『加代』!

と呼ばれるようになったのです…

まぁ

屋号ですよね。

話しが戻り…

いざ本番の竿燈祭り

初年度…

初めて持ったのは本番中

とにかく当時の竿燈…
今も人が多いけど

でも…
とにかく今以上にものすごく観客がすごかった。

そんなものすごい人ごみの中

kayoは初めて竿燈を持ったんです。

そして持ったと同時に

お客さんめがけて

倒した

一緒にやり始めた友達も持った

やっぱおんなじく倒した

こちらも当然のようにお客さんめがけて…

当たり前です。

練習もしないで持たされたんですから…

だいたい初心者は
倒しちゃだめな方に倒すものなんです

結局ちゃんと教えてもらえたのは

最終日

戻り竿燈で町内での演技中。

そこで持ち方教わったのが最初の練習でした。

ちゃんと練習さえすれば…

バランスはすぐ理解したし持つことができました。

面白かった。

でも…

その年の祭りは終わったのでした。


続く…



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二人の講師・・・笛

2011年10月25日 23時33分07秒 | 『居酒屋 加代』 時代
ここ三週間はこの人に頼りっぱなしでした
本日は笛の講師をやってもらったです
もともと上手い上に
さらに日本のお囃子のトップレベルの勉強中(修行中か)とあって…

帰省していたこの期間
和奏会でもここぞとばかりにフルでお勉強会させてもらったのでした

安○ちゃんありがとうです
今月の30日にはまた佐渡にて修行に励むらしく…
さらなる飛躍を祈念して待ってますから~

そして本日は動画もう一つ…
そんな安○ちゃんのさらに講師という
足利さんの笛の音です♪
どっちも登町の人です

レベル高い~

そのうえ伝統の笛の音です♪

これこれ
って感じの昔からの竿燈の笛の音

こんなイベントが終わった後の練習は
いつもヒートアップなのです

人も多くて
今日もみんな楽しいオーラだしててさ

明るい室内が
それよりさらに明るく包まれてた感じでした

時間がたつのも早かったです

やっぱこれは…
祭り人達のオーラでしょうか
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将棋

2011年10月23日 21時48分43秒 | 『居酒屋 加代』 時代
中学校の成績…

まっ

おいらは落ちこぼれでした

でもひそかに負けなかったものがあるの

それは

将棋

成績最悪

サッカー部に所属していたものの…

運動やマラソンもまったく最低のおいら
(何事も全てやる気を出さずにいた少年期

その時学校中で流行ってた将棋だけは…。

毎日じさまの暇つぶしで夜中まで将棋やってたってのもあるかもだけど

強かったです。

落ちこぼれのおいらが将棋強いと知ると

その頃進学校希望のエリートたちがさ

『○○に負けるわけないべ~』
なんつって次々勝負挑んで来るんだけどさ

返り打ちしてやっつけてやったりしてて

けっこう将棋だけは自信があった中学時代でした

そんなエリートたち…

中には途中で『今日調子悪い!』
とか言って途中でやめる人や

『待って、今間違えた』
なんて途中手を変える人いたりして

頭の悪いおいらに負けるのはプライドが傷つくのか

そんな人も多かったです

おいらはプライドもなんもにないから楽だったのかもだけど

《負けたくない》ってオーラ出してるそんな人たち…
ガンガンうち負かしてさ。

ちょと気持ちいいこともあったです

そんな中おいらたちの中でも一番将棋強いと定評があったのは

菊池君という同級生でした。

後ほどは
やっぱ進学校である秋田高校に入学した菊池君

いつかは彼ともやらねばと思ってはいたのでした(その頃)

はっきり言って真剣勝負になればなるほど疲れるからさ

おいら的には敬遠していたのだけど…

どっちが強いか!

まわりのそんな期待もあってか

勝負は実現したのでした

菊池君はあんまプライドとかそんなこというタイプではないです。

どっちかというとみんなの人気者タイプ

おいらは負けてもともと
でもここまで来るとやっぱ負けたくない

菊池君冷静でなおかつ人気者
それでいて同じような進学校クラスの人たちは菊池君を応援している

おらは…
ただ本当になにもないギャンブラーのような感じといえばいいのか

将棋ってすぐに勝負は決まらない

休み時間何回もまたいで

そしてお昼休みまでかかったと思う。

最後までみんなに囲まれたそんな『試合?』でした。

自分の記憶ではあんな将棋はもうできないな?
と思うくらいの勝負でした。

『相手にとって不足ない』
『負けたくない』
『でもこんな真剣勝負はもうこりごり』

菊池君にとってはあの時の勝負がおいらほど大事な勝負だったか?
というとそうでもないかも知れません

でもおいらにとってはすごく記憶に残る
神経をすり減らしたそんな勝負でした。

最後はおいら追いつめた
でも相手も引かずその上の手を打ってくる

あと一手…
ここでこうなれば勝ちだ!

そお思えば相手がまたかぶせるように次の一手を打って来る

あと一手が遠い・・もう一手で詰めるのに…

そこまで追い込んでいながら…

結果は負けでした

最後はかなりの人たちに取り囲まれて

おいらは負けた

でも終わった後…

『やっぱ○○ここまで出来るんだ』
とすごくみんなが認めてくれたのが嬉しかった。

みんな今までおいらの勝ちは『運』で勝ってたと思っていたのか

何より認めてくれたのは嬉しかったですけど

でも…

居酒屋加代で登場するkayoの『じさま』

そのじさまに勝負の様子報告したんです。

『一番強い人のわずか一手の差で負けたんだや』

おいら的にはちょと自慢でしたが…

じさま曰く…

『一手だろうが何手だろうが負けは負けだ!』



勝つか負けるかの勝負で一手も何手もない!
みたいなこと言われてさ

勝負は確かに勝ちか負けか…

そう教えられた出来事でした

たしかに一手とはいえ

すごくその『一手』はそれ以上の遠さを感じたものでした。

すごく疲れる勝負だったからこりごりだったのが正直で

それ一回でもう勝負しなかったのは

お互いにそんな気持ちだったからでしょうか…

いい勝負ではあったけどね。

将棋のなかではあと『一手』?ではありますが

勝負の世界ではそれ以上の実力の差があったのかも知れません。

将棋と言うものは世の中とおんなじだと…

結局は将棋も世の中も結果の世界

勝つか負けるかだと
それだけだと言うことを、じさまは教えてくれたのでしょうか
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卒業式…第二章 靴のお話し

2011年10月18日 09時29分05秒 | 『居酒屋 加代』 時代
ちゅんちゅんちゅん

鳥の鳴き声とともに瞼から明かりがもれてくる。

でも
目が明かない。

さっきまでみんなと飲んでたはずが…

kayoは状況をまったく理解できずにいた。

とにかく目を思いっきり開けようとしたけど瞼が動かない。

どうやらちゃんと布団には寝てるらしい。

なんとか頑張って目を開けた。
顔に手をあてると蜘蛛の糸が何重にも張り巡らされたかのような…

そんな感覚があり、

そして目を開けた時
家の…そして二階の自分の部屋で寝てるということを認識したのだった。

「あれ?」

「なんでここにいるんだ?」

朝は寒かったけど天気はいいようだった。

そしておぼろげな意識の中で顔がどうなってるのか確かめるためにまずは鏡に向かった。

ばーーーっん!!

そんな効果音が欲しくなるほどの光景だった。

kayoの顔は顔面真っ白な…
まるでサキイカのようなもので覆われていて

瞼がそれのせいで蓋されていて
それで目も半分も開けれない状態だったのだ。

顔面がサキイカパック状態

まったく身に覚えがなく

顔の表面はそのためにがちがちに乾燥してて

意味がわからなかった。

まずは顔を洗いに洗面にいった。

頭が痛く…

顔洗ってるときじさまがきた。

『○○!大丈夫だか?」

なにがなんだかわからないkayoはじさまから昨夜の出来事を聞くに至ったのでした。

それによると…

夜中の12時過ぎじさまが一人晩酌しながらTV観てたらしい。

すると玄関の方から

ドン!

と音が聞こえたみたいでした。

じさまが「なんだ~」と思ってみると

コート着たkayoが玄関に横たわっていたようでした。

外は大雪のうえ吹雪いていた真夜中の出来事。

そしてkayoの足を見ると靴は片っぽがない!

すぐに完璧に酔いつぶれ状態だと分かったとのことでした。

その後のじさまの話し
頭の上がらない話しですが…

まずはなんとかおいらとこ二階まで誘導して寝せてから

次にじさまのとった行動は・・

なんと傘差して懐中電灯持って
吹雪の中、靴を探しに行ったとの事でした。

昨夜、飲んだ有楽町からkayoの家までは約400mくらいでした。

ちょうど有楽町の入口あたりまで傘をさして探しに行って…
安田内科医院という200mくらい離れた病院の前の雪山で発見したと言ってました。

見つけた時には靴半分雪に埋もれていたようでした。

そんな話しを聞いたとき…

少し思い出した…

わいわいがやがやの光景から

飲み続け騒ぎ続け

気付くと

その後雪と猛吹雪の中、滑って転んで必死に帰ってる時の記憶

少しずつ甦ってきたのです

あの頃の靴も流行りがあって
ローファー・ロンドンブーツ・ドクターマーチン等

おいら、冬なのに底がツルツルのローファー履いてて

有楽町の端っこの交差点渡るとき何回も転んで転んで
昭和の酔っ払いそのままに家路についたのでした。

多分その途中に雪山に一人突っ込んで
そして転んだ拍子に靴も脱げてしまい

そのまま片っぽ裸足のまま歩いて帰ってきたものと思われる。

とにかくじさまには頭が上がらず

顔を洗いながら…
なぜか乾燥サキイカパックは首にまで付いていた。

まだそのサキイカパックの正体がわからないまま布団に戻ると

正体が分かりました(汗)

※ここからはグロいので注意を…

っていうか

グロっていうより○ロでした

サキイカパックの正体…

仰向けに寝ていたkayoは酔いつぶれて
そのまま飲んだビールをおそらく噴水のごとく上に放出したんだと思われます。

布団にはその後が

そして朝まで熟睡したものだからそれが全て乾燥して…

正体はリバースしたルービーでした

それが朝起きたらサキイカパックに

そんな状態で朝起きた時の様子が

ブログの冒頭の状況だったのでした…


あとからみんなに話したら

『よく死ななかったね』と

たしかに

雪で遭難か、
または飲んだビールの放出の時、固形物が喉に引っかかって窒息など

よくある話らしく

恐ろしい出来事でした。

昨晩の飲み会中に最後にkayoに声かけたのは
友達の『クラッチ』らしく…(前にもチャリンコ泥棒ネタで登場

クラッチも途中で同じ店に来てて偶然あったのでした。

後ほど、
帰る直前のkayoの様子を聞くこともできたんです。

12時頃だったらしい

クラッチ『なんとする?まだ飲むか?』

kayo『もう無理だ~。飲めね~な』…『帰る』

クラッチ『んだが。まず気を付けて帰れよ~』

と言うのが最後の会話だったらしい。

この話しを聞いたとき
一応限界を感じてたんだなと…ちょと自分に感心(なんて)

それにしても

本当に最後の会話にならなくてよかったです

クラッチ曰く
そんなに酔っぱには見えなかったらしいんですが

おいらはすでにそんな会話の記憶は全くなく。

そして布団と枕は大変なことになっていたのでした。
布団はシミになっていましたが。
その後どうしたかは覚えていません(汗)

でも…
下から放出じゃなくてまだよかったです
それはさすがにやばいかな

あれから…その後23年あまり経ちますが

酔うと記憶がなくなるのは…
いまだ健在です
コメント (3)
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