素敵な私になるために

『生きているって素晴らしい!』そう感じられる喜びを。
毎日のワクワクを自分にも、あなたにも。

成人式にあたり

2013年01月09日 | 日記

明日は成人式でおめでたい日です。関係者がいなければただの祝日でしょうけど、我が家では末娘が成人式を迎えます。

親にとっても20年間育て上げたお祝いの日でもあります。

当然のことながら、子どもをこの手に受け取った時から親になります。こちらもまだ生まれたての親なので思考錯誤です。子どもと共に色々な喜怒哀楽を経て、私達も親として育って来ました。そして子どもと同じく私達も二十歳になりました。

子どもの育児とは親の育自だと聞いたことがあります。

一応、社会で認められた大人になったと云う事で、私たちの一応の責任も少し肩から外しても良いかしらね。

後は自分たちで自分の人生ですから、しっかりと歩んで行って欲しいものです。 

そう言えば、自分たちで歩めと送り出した時が前に1度ありました。小学校の卒業式です。

 

この娘が小学校1年生の時に、私達(母親の仲間)は学校で母親の絵本の読み聞かせを始めました。そして、子ども達が卒業して学校からいなくなった今でも、まだその読み聞かせの会は続いています。

「ピコの会」と云います。

母親が絵本の読み聞かせをするグループは「雨後のタケノコ」と言われるほど、1年生ぐらいの時は盛んに出ますが、3年生ぐらいから自然消滅して行きます。 なぜなら絵本の読み聞かせは小さい子が対象と思われているからです。

私たちの会は自分の子どものクラス以外にも全学年の全クラスに読み聞かせに入った為、そして名前をつけて組織にした為、14年経った今でも続いているのです。

1年生に読む時は可愛いものですが、さすがに6年生に読む時はこちらの方も「ビビり」ます。ハッキリ言って怖いです。体格も良く、少し大人びてきて照れから無反応になって来るので、読むほうも度胸が要ります。

しかし、1年生から読み聞かせを続けていて6年生になった時、(6年間読んでもらっていた)あるクラスで語りをした後に、すかさず「すばらしい!」と男子児童から合の手が入ったことがありました。

この時ほど「嬉しい」ことはありませんでした。 聞く力が継続によってもたらされていると確信した時です。

そのピコの会で最初の六年生の卒業時に贈った言葉が今も思いだされます。

『6年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
12年前、私たちの手の中に 初めて貴方たちを抱いた喜びを 
私たち母は昨日の事のように覚えています。本当に嬉しかった。

そして、一年一年大きくなり、共に過ごしたこの12年、
泣いたり、笑ったり、怒ったりいろいろな事がありました。

貴方たちはもうすぐ小学校を卒業して、中学校の門をくぐります。
それは、私たち母の腕の中から飛び出して、自分の目で物を見て、
自分の頭で考えて、自分の足で大地を踏んで、道を歩んでいくことです。
まさに、大空に向かって自分の羽で巣を飛び立とうとする雛のようです。

でも大空には、晴れの日もあれば、雨の日も風の日も
そして嵐の時だってあるでしょう。
時には、タカやワシが狙っている事だってあるかもしれません。

挑戦し、戦って、傷ついて疲れた時には、
いつでも羽を休めに帰っていらっしゃい。
そして、元気になったら また力いっぱい飛んでいきなさい。

私たちは、いつまでも貴方たちの心のふるさとだから・・。
私たちは、いつまでも貴方たちを愛しているから・・。

「ラブ・ユー・フォー・エバー ずっと ずっと 愛しているよ」

この言葉を受け取った当時の6年生は今、26歳になろうとしています。 

帰宅後、「ありがとう」と言ってくれた我が家の息子もその一人です。

この言葉をもう一度、明日成人式を迎える我が娘に贈りたいと思います。 「愛しているよ」と。


枠を超える・・・アートは世界を変えられるか? Yes!

2013年01月09日 | 日記

今週から仕事が始まりましたが、長いお正月休みだったせいか、身体も心も元に戻すのが大変です。

特に私にとってはこの一月は一年の中で一番不調な月なのです。節分の明けるまで体調も精神も。

そんなことは言ってられないのですがね。 でも快調でないだけに動くのが苦痛です。

さて、先日FBで友人が今年の決意を漢字一文字に表しておりました。 

彼の選んだ言葉は「破」だそうです。 自分の殻を破る、既成概念を破る等々・・・。

私の今年のテーマも同じく、「枠を超える」です。

みなさん、このゲーム御存じでしょうか?

この9個の点を4本の直線で結んで下さい

さあ、どうされますか? (答えはもう少し後ろで出しますね) 考えて下さい!

 

それともう一つ素敵な動画を御紹介致しましょう。

『アートを通して世界をひっくり返す』 

JR's TED Prize wish: Use art to turn the world inside out

2011年 TED Prize winner のJRのスピーチと彼がどんな事をしてきたかの映像です。 

素晴らしいと思いました。まさに、既成概念を越えています。

益々、私は枠を飛び出そうと強く決意したのでした。

 

さあて、先程の答えですがこれです。

つまり、4本の直線で全てを結ぶにはその枠からはみ出す思考の柔軟さが必要とのことです。

さあ、今年も枠から出て大いに楽しみましょう!

あ、その前に1月を乗り切る思考が必要だわ!

 

    


脳天気で結構!

2013年01月06日 | 日記

1月4日の朝日新聞の天声人語に面白い話が載っていたのでご紹介します。

『同じことを見聞きしても、人によってまるで違うとらえ方をする。そんな愉快な作り話がある。

ある企業が発展途上の地に靴の輸出を計画し、市場調査の為に社員2人を派遣した。

1人は「まったく見込みがありません。住民はだれも靴を履きません」と報告してきた。

もう1人はこう言って来た。「無限の見込みがあります。住民はまだ誰も靴をもっていません」

2人が部下ならあなたはどちらを買うだろう』

『市場調査に冷徹な分析は欠かせない。しかし、後者の悪く言えば脳天気、良く言えば前向き思考は捨てがたい』と締められていた。

最近、世の中で「マイナス思考ではなく、プラス思考を」と云うようなことがおおっぴらに言われるようになってきたと思うのは私だけでしょうか。

この数年でぐぐっと増えました。

もちろん、プラス思考万々歳ですが・・・。

前にも言われたことがあります。 コの字に座った3人の前にある物が置いてあったとしましょう。

正面にいる私にはその物の正面しか見えません。

でも私の左右にいる人にはそれぞれの側面からしかその物は見えていないと。

座る位置が変われば見えるものも、見方も変わると。

何かが起こって「もう最悪!」と思っても、違う方向から見たら「良かったじゃない!」となるかもしれません。

昨年母が転んで大腿骨を骨折、手術を受けました。その時は「なんで、80歳近くで手術を・・・トホホ」と思ったものの、結果、ついでに長年煩っていた膝の人工関節の手術も受けることになり、2つの手術を経て今ではスタスタと痛みも無く歩けるようになりました。

骨折していなければ、手術は嫌だと逃げていて、きっと車いす生活になっていたことでしょう。

「吉」とでるか、「凶」とでるかは、その結果はつまり自分しだい。

今年も「吉」を増やしましょう!


出会いが人を変える

2013年01月01日 | 日記

謹賀新年 今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

【出会いが人を変える、誰と出会うか、それで人生は変わります。では最高の人と出会える方法は?

最高の人と共鳴することです。でも最高の人と才能で共鳴する事はできません、相手は最高レベルで、こちらは素人なのですから

最高の人にはその思いで共鳴するしかないのです。その思いで飛び込んでいくしかないのです。それは志です】

【志とは自分以外の人の幸せの為に自らの人生をさし出せることです】

これは昨年の初めに書いた文章でした。 

昨年はまさにその通りになりました。 

最高レベルの方々とお会いしたり、ご一緒にお仕事をさせて頂くことが出来ました。 

本当に心から感謝申し上げます。

『出会いが人を変える』 『誰と出会うか、それで人生は変わります』

まさにその通りだと思います。

人は所詮一人では生きてゆけません。 周りの人々と一緒に助け合いながら生きてゆくしかないのでしょう 決められた長さの人生で、お会い出来る人の数は限られるかもしれません。

限られた数の中でどのような方とお会いするかで、その後の行く道は変わってきます。

嬉しいことに人が人を繋いで下さいます。 1つの出会いがまた違う方との出会いをもたらして下さいます。呼び寄せるのは『思い』、繋がって行くのは『志』なのでしょう。

せっかく繋がったご縁、出会いは大切にして行きたいと思います。

昨年の終わりに頂いた言葉は『ありがとうの反対は当たり前』と『頼まれごとは試されごと』でした。

当たり前と思ったら『ありがとう』の感謝の気持ちは出て来ません。

頼まれたことは自分を試されていると思い、どんな事でも真剣にしろと言われました。

『ありがとう』と云いながらどんな事も心をこめて一生懸命頑張ろうと思います。

今年一年もワクワクの思いで楽しみます!

皆様のご健康と幸を心からお祈り申し上げます。 一緒にワクワク致しましょう!

 


あなたの人生の大きな石は?

2012年12月31日 | 日記

今年は大きな夢を持って追い駆けて必死になって成し遂げてきました。 さて、来年は?

先日ご紹介した『ビジョン』の中に、このようなメッセージがありました。

『時間管理のある専門家が人々の前で壺に石を詰めて行きます。 大きな石を丁寧に一つずつ。 もう入らなくなりました。 彼は聞きます「この壺はもういっぱいでしょうか」 人々は「もういっぱいです」と。

彼は次に小さな石を出して来て隙間に入れ込んで壺を揺すりました。 そして口までいっぱいになりました。そこでまた聞きます「この壺はもういっぱいでしょうか」 

今度は砂を出して来て同じ様な事をしました。そしてまた同じように質問しました。 みんな黙っています。

さらに彼は水差しを出して来て、今度は水を注ぎました。

そして質問しました「この実験の意味は何だと思いますか?」 人々は答えます「どんなにスケジュールがいっぱいでも、良く考えればもっと仕事は入ると云うことです」と。

彼は答えます「違います。 ここで学べることは、最初に大きな石を入れないと永遠に入れられなくなるということです」

さて、あなたの人生の大きな石はなんでしょうか? 家族との時間でしょうか? 志でしょうか? 夢でしょうか? 

最初にそれを入れないと、それは永遠に入れられなくなるのです』と。

 

2012年12月31日 本日で今年も終わり。 明日からまた新しく一年が始まります。

みなさまにとってはどんな一年だったでしょうか。

私は蒸気機関車にせっせと石炭をくべて、顔をススだらけにしながら一生懸命走らせる為に働いたという感じがします。

思考錯誤しながら、色々な壁にぶつかりながら、みんなの力を結集して、色々な方に温かいご協力を頂いて、大勢で一つのものを作り上げて来ました。本当に多くの方のお心に感謝申し上げます。

ありがとうございました。

まだまだ報告とお礼が行き届いておりません。ご容赦くださいませ。

 

一昨日、アメリカからのシンガーの売り込みライブに出席した時に、14歳の彼女が皆さんにメッセージをとの質問に答えてこう云っておりました。

「夢を持つこと、決して諦めないこと、そしてその為に努力すること」

どこかで聞いたことのあるような言葉。 チャレンジする人たちが必ず言う言葉ですね。

 

私も明日、私の人生の大きな石をゆっくり考えてみようと思います。 そして人生のビジョンを明確にして弛まぬ努力を続けていきたいと心します。

皆さまにとって来年も素晴らしい一年になりますことを、さらに今後の人生が輝きますことを心よりお祈り申し上げます。

良いお年をお迎えください。 また来年もご一緒に何か致しましょう!

Have a Nice Holidays! and a Happy New Year!

 


子離れ その1

2012年12月31日 | 日記

娘が28日にスカンジナビアへ向けて旅立ちました。

この寒い時期によりによってそんな寒い所へ・・・とは年寄りの思うことなのですね、段々私も母の言いそうなことに似てきています。

オーロラを見て海ではオルカと戯れるのだそうです。(考えるだけでも寒いわ)

散々自分が一人で海外へ行っているくせに、自分の子どもが同じ様な事をしようとすると、つい「危ないから」と云う言葉が喉まで出かかるのを抑えるのに必死でした。

親って不思議なものですね。

大きくなって親元にいて自立しなければ、それはそれで心配。「自立しろ」とせかすくせに、勝手にどんどん自分で道を歩んで行こうとするのを見ては「大丈夫」と出来るだけ親元に引きとめておきたい衝動。

「子離れしなければ」と自分に言い聞かせて、何も言わずに笑顔で送り出しました。

でも、インドでの事件の様な事が報道されると、ほんと、世界の何処にいても心配です。(日本にいるから安全とは限らないけど)

ヤメヤメ、マイナスの事を考えるのは止めにしましょう。 元気で帰って来る姿をイメージして待ちましょう。

私の子だからきっと大丈夫!

それにしてもスカンジナビアの海に潜るとは!(笑)

 


Merry Christmas!! 人生に乾杯!

2012年12月24日 | 日記

Merry Christmas!  私はクリスチャンではないのですが、全ての皆さまに安らぎと幸せが訪れますことを今日祈りたい気持ちです。 そして地球上の子ども達が愛で包まれます様に!

私からのクリスマスプレゼントです。 

ただ生きるのではなく、どんな風になりたいか、何の為に生きるのか、そんなことをイメージしながら生きて行くと、おのずと道は違ってくると教えてくれた、『ビジョン』を持つことの大切さを教えてくれた本です。

[FULL STEAM AHEAD! THE VISION] Ken Blanchard   [ザ・ビジョン]ケン・ブランチャード (ダイヤモンド社)

『私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有者の息子たちとが、ともに兄弟としてテーブルにつくことを・・・』

有名な一節。 マーティン・ルーサー・キング牧師の描いた『ビジョン』です。氏が亡くなった今でも語り継がれるほどの『ビジョン』でした。

あと数日で新しい年を迎えます。 年の節目に新たな『ビジョン』を描くのは如何でしょう。 きっと一年後に自分では思いもよらぬ結果が待っていることでしょう。

すべての人に素晴らしい人生を! Merry Christmas!  乾杯!


気分転換は登山 朝からハプニング

2012年11月22日 | 日記

今日は素晴らしい晴天。 街は風も強かったそうですが、山は無風で見事な眺めでした。

仕事の詰まった週ですが、さっと空いた(空けた)日にそれと近くの山へ行ってきました。 

と言っても、本当に毎日その日の課題をこなすのが精いっぱいで、昨日も帰宅は遅く、深夜に眠気と闘いながらの支度でした。 食料を何も用意していなくて・・・。 途中でお昼を購入する予定がハプニングで・・・。

高尾山駅へ向かう為、ホームに立つと「山へ行くんですか」と声をかけられました。 (聞かなくてもお分かりでしょう、登山靴に大きなリュックに私などはステッキも持っているんですもの)

「ハイ」と云うと、「僕も今朝歩いてきました」と仰います。 朝の8時です。 彼はスーツの装い。

「はぁ?」 ですよね。

「今朝って?」 「いえ、昨日の夜からですが、さっきまで陣馬山から縦走してきました」 「え~夜歩かれたのですか?」 「ハイ、毎日です」

彼の方は毎日山歩きを一日も欠かさずに行っているのだそうです。 もう7年も。そう言えば、その様な方のことを前に記事で読みましたが、この方も同じ様なことをなさっているのですって! 聞けば沢山いらっしゃるそうな。 記録が破られたとか仰っていらっしゃいましたから。

さらに驚くことに、彼のお歳を聞いてビックリ! 80歳だそうです。 

全然見えません。 20歳は若く見えます。 髪は黒々、皺も無く、シミも無く、お顔はつやつや。

まだ現役の大学の先生だそうです。

車中、山の話に盛り上がり、三浦雄一郎さんや田部井淳子さんのお話も出てくるもので、つい、乗り換えを忘れて終点まで。

そのハプニングでお昼を買い損ね、ご飯が恋しい山行になりました。 しかし、それでも有意義な朝になりました。もっとお話を聞きたかったです。

それにしても世の中には凄い方々もいるものですね。 私など足元にも及びませんですわ。 

そう言えば昨年も木曽駒ケ岳の山小屋で80歳のご婦人にお会いしたのでしたっけ。

私はまだまだひよっこです。

そうそう、富士山が綺麗でした!


ワシントンの桜寄贈から100年目の記念フォーラム

2012年11月21日 | 日記

ワシントンの桜並木が有名なのは御存じと思います。

では、どなたがいつ、このさくらをアメリカへ寄贈したのでしょうか? あまり御存じないかもです。

憲政の神様と言われた尾崎咢堂(尾崎行雄)が東京市長だった時に、日米友好の証しとしてワシントンに300本の桜を寄贈したのだそうです。

今年で100年目になるとのことで「尾崎咢堂・ワシントン桜寄贈100年祈念フォーラム」が昨日憲政会館で行われました。

今はちょうど国会解散したばかりで、この主催者である尾崎行雄記念財団の会長である衆議院議長も副会長のお歴々もみなさま選挙運動にお忙しく、御臨席は賜れませんでした。

しかし、尾崎先生と関わりのある4つのNPO団体の活動報告はそれぞれ素晴らしいものでした。中にはカーネギーホールで合唱を披露された団体もあり、その成果を発表して下さいました。

今年アメリカからはお礼にアメリカハナミズキが代々木公園に寄贈されるそうです。

何かのご縁でこんな会合にも出ております。

 


「日本で最も美しい村」ガイドブック出版記念式典にて

2012年11月21日 | 日記

月曜日、カナダ大使館で行われた「日本で最も美しい村」ガイドブック出版記念 日本・ケベック友好の夕べに出席していました。

「世界で最も美しい村」にはフランス、ベルギー、イタリア、カナダなどが加盟し、世界中で小さな農山村地域の美しい村々を活性化し、景観を保護しています。

日本も2005年に7つの村からスタートしたそうです。今では44の町村が参加し、その美しさをお知らせする為のガイドブックが出版されました。

その記念式典とパーティーがケベックからのお客様を迎えてカナダ大使館で行われました。

カナダ大使館へ入ったのは初めてです。 大きく立派なのに驚きました。

ケベック州政府代表の方々と

これからはこの「日本で最も美しい村」の町村を訪ねてみる楽しみも出来ました。 嬉しいことです。


ポストの神様

2012年11月18日 | 日記

友人が「ポストの神様」というCDを送って来てくれました。 早速聴いてみると・・・

 

ある方が某車会社に設計士としてお勤めしていました。 しかし、誰とも会話しない毎日に?を感じ立派なその会社を辞め、人とコミュニケーションを取る外車販売の営業マンになりました。 一生懸命先輩を見よう見まねで営業を頑張っておりました。

いつも頭の中にはどうやって売るか、その事ばかりでした。年間何百冊という本も読みましたが、それも如何に車を売るかの為でした。

ある時事件は起きました。 車を売った相手からの呼び出しの電話でした。 オイル漏れがあり、新築マンションに油のしみをつけてしまったそうです。 毎日毎日油のしみを拭きに通ったそうです。 「別に自分が悪いわけでもないのに・・・」

また、ある時、車を売った方から怒りの電話がありました。 すぐ来いと言われ御自宅に行くと部屋に閉じ込められ14時間にわたりお小言を言われ続けたとか。命からがら逃げて来て助かったとか。 それも自分が悪いわけではなかったと。

この時、彼はふと考えたそうです。 なんで自分が悪いわけでもないのに怒られてばかりいるのだろうと。

そして、何か自分は違うのではないかと考えたそうです。 気が付いたのは「感謝」でした。

自分は全てに感謝が足りなかったと。

そこで彼はある事を決意しました。今まで車を買ってくれた方に毎月1枚感謝の心をこめてハガキを送ろうと。

一人年間12枚を5年間続けて書こうと。(5年には意味があるのだそうですが・・・) 60枚x50円ですから3000円の投資です。

そしてその内、車を買って下さった方だけでなく、自分と縁した方にも送りだしたそうです。 しかも彼は心に決めたことがありました。 「車」については一切書かないと。

そうしてある時彼は気が付きました。 

今までは「すぐ来い」と怒鳴られてばかりいたのに、気がつけばお客様がお土産持って尋ねて来るのだそうです。修理をする車は取りに行ってお届けするのが当たり前なのに、お客様が持ってきて取りに来ると言われるのだそうです。しかも菓子折り持って、「食べて」と。

またある時は、お礼の電話がかかってきたり、ある時は違う車を買った方から「君から買うべきだった」と言われたり。

自分の周りの環境がすっかり変化していることに気が付きました。 「ありがとう」と云い続けていただけで。

彼は「相手に売りたいさん」から「相手を喜ばせたいさん」に自分が変わったと云います。

この「ありがとう」のハガキが彼の営業の仕方を540度変えたのだそうです。

そして彼の人生を価値あるものにしてくれたと云います。

彼は今まで23年間、150、000枚を書き続けたそうです。

 

淡々とお話しながら仰るのですが、とても面白く引き込まれてしまいました。 素晴らしいお話でした。

私もこのCDを贈ってくれた友人にお礼のハガキを書きました。 

「ありがとう」はやっぱり魔法の言葉なのですね。

 

 

 

 


成功は失敗の父

2012年11月11日 | 日記

昨日、ある大学の学術褒賞の授与式に参加致しました。

その時に賞を受賞されたお一人の先生の言葉が忘れられません。

「失敗は成功の母と言われますが、私は成功は失敗の父とも申し上げたい」

これは私が作った格言ですがと前置きされてご説明下さいました。

大抵は失敗することによって成功へ導かれる。 しかし、また多くの企業が、成功体験にしがみつき変革できないまま失敗に陥ることも多いのだと。

「昔の成功体験にしがみついているが故、時代にあった変革が出来ないで大きな痛手を被る」と。(家電メーカーしかり)

これは何も企業に限ったことではないと、お聞きして身につまされる思いでした。

個人でも、団体でもしかりです。

時代の変化のスピードの速さについて行けず、1回の成功に酔いしれているとあっという間に置いてきぼりをされてしまう現代です。

心しようと思いました。

 

先生の著書は「日本のものづくり 競争力基盤の変換」 港 徹雄教授 です。 品切れで増刷中だそうです。

 

 


私も英語がしゃべれない だから留学 飛行機は南回り

2012年11月11日 | 日記

約30年前になります。日本を出る一大決心をして、仕事を辞めて、結婚を諦めて、私は成田に立ちました。

とても一人では持てそうもない大きなスーツケースとスポーツバックを抱えて、一人で飛び出して行く娘を母はこの上もなく心配顔で見送っておりました。 後から聞けば丸2日何も喉を通らなかったそうです。

その頃は冷戦状態のソビエトの上空は飛行出来なかったかと記憶しています。 私はもちろんお金が無いので安い南回りの飛行機でした。 台北、香港、バーレーンと給油をするたびに飛行機から下ろされロビーで待たされました。

ロンドンまで約丸一日。道中、女性の一人旅の人が4人いることが分かりました。なにせ、しょっちゅう飛行機から下ろされるのですから、自然に話かけて仲良くなってしまいます。(お互いに一人旅で不安だし)

お二人は30代の派遣で仕事をしている方。お金を貯めては海外に行かれるそう。その一人はロンドンに恋人が待っているとか。

もう一人は娘さんを訪ねる60代くらいのおばさま。 

台北で知り合ってからは、香港、バーレーン、ロンドンと御一緒に居させてもらい、みんなで寄り添っていました。

古い飛行機だったのでしょう、離陸する度に私の頭上から水が降ってきます。 「キャ~」と思って思いっきりアテンダントコールのボタンを押すのですが、離陸時です、客室乗務員も全員椅子にくくりつけられていて誰も来てくれないのです。 もうどうしていいやら・・・。

結局水漏りの現場はどのアテンダントにも見てもらえず、席は満席で変更出来ず、と言って離陸時なので席を外す事もできず、お絞りをあてがわれて終わりでした。多分、傾斜で水が漏るのでしょう。水平になると何ともないのです。 計4回も水を浴びたのです。

給油の度にそんな愚痴を話せる日本人が傍にいてくれたことがとても助かりました。あの時一人でいたら、精神的に参っていたでしょう。

バーレーンで空港に降りた時は、周りのお土産物屋さんはどれも金ピカのピカでした。これから長期滞在を目指す私には少しのお金でも節約しなくてはならず、もちろんそんな物には興味も無かったのでしたが、なにせ男性たちの私たちに対する「物珍しいもの」を見るような、鋭い視線が怖くて、さっさと引き上げました。

現地の女性は誰ひとりおらず、店員ももちろん男性。空港中ほとんど男性だったのです。 しかも私たちは顔も隠さず、Tシャツ、ジーパンの軽装。 本当に20代半ばの私には怖かった覚えがあります。

ヘロヘロになってヒースローだかガトウィックだかの空港に着き、迎えに来ていた彼女の恋人に連れられて電車でヴィクトリアステーションへ。(やっぱり良かった!知合っていて!)

そこからは正真正銘の一人旅。 私は西の田舎へ行く為汽車に乗らなければなりません。その駅は違うパディントン駅。 地下鉄に乗ってヴィクトリアからパディントンへ。

ヨーロッパは建物が古いのでエスカレーターなどあの頃はめったにありませんでした。何処へ行っても階段。

すると必ず誰かが荷物運びを手伝ってくれます。 ある時は老婦人が若者カップルに向かい、「あの娘を手伝ってあげて」と言ってくれるのです。

な、なんと親切な! 初めて足を踏んだイギリスの地で、初めてイギリスを味わったのはこのホスピタリティー、 ごく自然に人を助ける精神でした。  困った人を見ても手の出せない日本人とはエライ違いだと肌で感じた瞬間でした。

そうして私は、あのハリーポッターに出てくるような駅、パディントン駅から汽車に乗って西の街、ブリストルに向かうのでした。(ヴィクトリア駅からバスと云う手があった事を知るのはだいぶ経ってからでした)

窓から眺める風景に、東京とは似ても似つかぬ様を見出し、ちょっと不安と(いえ、大きな不安と)少しのワクワクで(本当にこの時は不安の方が大きかった)2時間、一人で揺られていたのを思いだします。


私も英語がしゃべれない だから留学

2012年11月10日 | 日記

留学したい夢をずっと胸に抱えて女子学生は社会人になりました。

しかし、入社した会社はなんと翻訳会社! 英語が苦手で大学の専攻も同じ文学部でも英文学ではなく、日本文学だった私が、なんともまあ四六時中英語を見ている会社に入社してしまったのです。

世の中不思議です! その辺がきっと線路の切り替えポイントだったのでしょうね。少しずつ道は違う方へ向いて行くわけです。

しばらくして移動させられた部署は国際会議部。 つまり国際会議の裏方をやります。 当然外人とのやり取りも出て来ます。 ここで英語がしゃべれない自分を再認識。 「だめだ、勉強しなくちゃ!」と。

またもや留学の夢がむくむくと。 でも社会人になったばかり・・・・。

3年経った頃、本当に英語力の必要性を切に感じ、語学学校に行こうと思いました。 しかし、1週間に1回では物にならないだろう、全てを英語の環境に自分を置かなければ・・・。

そこで会社を辞めて留学することに。 いよいよ夢の実現です。 思い立ったら早いです。 

なぜ、留学先をあんなにあこがれたアメリカではなくイギリスにしたのか。

答えは簡単。 クィーンズイングリッシュを学びたかったから。 そして日本人のいない所へ行きたかったから。(これは裏切られましたが)

私はブリティッシュカウンシルへ飛び込み、語学を勉強する為の学校の資料を片っ端から調べました。 そしてこの辺でと決めた学校に手紙を送りました。つまりは入学申込み書なのですが。

1カ月ぐらい経つと向うから手紙が返ってきました。(そう、この頃のやり取りは全て手紙だったのです)

入学許可がおりた!

さあ、大変! まずは会社へ辞職願いを。 そしてホームスティ先を決め、足(飛行機)の確保を。

そして何より一番大変だと思ったのは親の説得だと思っていました。 

「女の子は大学など行かず、短大でOK、そして良いお家へ早く嫁に行け」との信念を持っていた父です。その為に名門女子中学を受験させられ、落ちて親の期待を裏切りました。しかたなく公立中学へ行き(私にはハッピーでしたが)、やはり都立に受かりながらも「ごきげんよう~」と別れる女子高へ入った私です。

その学校は短大が付属でついていて親はこれで一安心と思ったに違いありません。 小学校から短大までずっと繋がっているその学校に高校から入った私には違和感の塊でした。 そして案の定、親の期待を裏切り、外部受験をして浪人しました。 ま、こんな娘ですからね、だいぶ諦めていたのでしょう。

すべて準備が整ったところで両親に「すいません、しばらくイギリスへ留学して来たいので許して下さい」と打ち明けました。

あっけにとられたのは両親でしたが、今思い出しても大反対された覚えもありません。 この子は云いだしたら聞かないし、全てが(飛行機まで)お膳立てされているのだから仕方ないと諦めたのでしょうね。

それから数カ月して私は成田を飛び立ちました。 未知の世界へ向けて。

その頃、女子の結婚適齢期は24歳~25歳。 それを過ぎると「25日のクリスマスケーキ」と言われていました。つまりは売れ残り。

私がやっと留学を決意した時は26歳になろうとしていました。 「今、外へ出て行けば結婚の時期は外すかもしれない。それでも行きたいかどうするか」自問自答の結果、私は行くことを決めたのです。

だから成田を飛び立つ時、大袈裟に言えば、結婚は諦めていました。(それまでに回りの友人はほとんど結婚していましたから)

それでもこれから始まる見知らぬ世界にワクワクしていたものでした。


あの娘は英語がしゃべれない! 

2012年11月08日 | 日記

ウィルビーの安藤優子さんのインタビューから、面白くて「あの娘は英語がしゃべれない」をむさぼるように読んでしまった。

彼女の16歳のアメリカ留学体験のエッセーである。

彼女と私は2歳違いだと知った。 同じジェネレーションなのだ。彼女が高校1年生で留学しようと思った時、私は高校3年生で留学は諦めていた。 私も同じようにアメリカにあこがれ、いつか行ってみたいと夢見ていた。

しかし、私は高校生活を1年遅らせて、戻った時に1年下の下級生の中に入る勇気が無かった。だから高校生での留学は諦めていた。 

と云うよりも、留学するどころか、私は英語が苦手科目の1つだったのだ。

数学では学年1番を取れたくせに、英語は後ろから数える方が早かった。 暗記が苦手なのだ!英単語が覚えられない、だから長文を読んでもチンプンカンプン。 よって成績も悪い。 だから英語が苦手の意識が芽生える。

でもアメリカは行きたい。英語はしゃべりたい。

学校の英語の授業は苦手でも、外人としゃべることは好きだった。

高校生での留学は諦めても、やはりアメリカへは行きたかった。 それで大学3年生の春に思いきって1カ月のアメリカ留学を申し込んだ。 それは勉強というより遊びのような留学だった。

アメリカ人の家にホームスティさせてもらい、たっぷりアメリカの空気を吸い込んだ。 そこはロスのハンティングトンビーチ。

昨年30数年ぶりにロスの空港に降り立った時、あのヤシの木を見ても、初めて降りったった時の「アメリカだ~」という空気はどこにも感じることが出来なかった。なんだかとてもヤシの木がしょげて見えた。

30年の間にあの強気の元気のアメリカが陰ったような空気をヤシの木に感じてしまった。

大学生で長期で留学しなかった、いえ出来なかったのには訳がある。 私は2浪していたので学年をダブると就職できなくなる可能性があった。ただでさえ、女の子の浪人生なんて数が少なかった時代である。

安藤優子さんのアメリカ体験記を読んでいたら、色々思い出されて私も留学体験記を書いてみたくなった。私の場合はアメリカでなくイギリスだけど。 

そう私が日本を飛び出したのは、就職して3年目、26歳の時であった。彼女より10年近く遅れてであった。