骨董品収集品の記録

自分の集めたアンティークを載せてます

大聖寺伊万里本

2024-04-27 08:18:00 | 日記
最近購入した本の紹介です。


文庫サイズの本です。
大聖寺伊万里を200点近く図録にしています。特に品に関しての解説はないのですが
記載のものは大聖寺のものだけのようです。
少し中身をご紹介します。転載お赦しを。

左の君は分かりやすいな。

君は古伊万里でいけるな!

普通に上手

柿右衛門ですね。。

最後の4点くらいは明らかに江戸前期だろうと思います。
この辺大聖寺という根拠は載っていないので何故有田ではないのかは分からなかったですが大聖寺なんですかね。

続きましてこの本同じ著者で造るにあたっての下絵を集めたものです。



鍋島

こういう
鉄釉の古九谷柴田コレに載っていたような。。


ブルータスお前もか!
有名な藍九谷の虎図も作ってたんですね。。

この本によると1650年頃から元禄くらいまでは九谷で窯があったこととなっています。其の後文化年頃から再興九谷が始まるとのことです。
やはり古九谷は大聖寺でも焼かれいたのは通説になってきているのでかなと。

上記にあげた写真は古伊万里写しのものも多々あります。
著者によるとこれはイミテーションではなく産業政策の一環としてとのことです。
伊万里が中国磁器を模倣したような感じなのかなと。
そう考えるとこれら大聖寺伊万里も十分に価値のある良い美術品だよなあと思います。
大聖寺というと伊万里の贋作みたいな偏見を持ってしまっていましたが決してそうではないんじゃないかと思います。

とはいえ私は伊万里を集めたいですが(⌒-⌒; )

最後に面白い記事がありましたので下記にリンクを貼りました。
上手く貼れてなければすみません。
2023年の記事ですがまだまだ古九谷論争は続いているようです。


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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ぽぽさんへ (Dr.K)
2024-04-27 11:17:55
幅広く勉強をしていますね。
私は、大聖寺伊万里に関する本は、石川県九谷焼美術館編集の「『本歌取り九谷の華 大聖寺伊万里展』図録」(開館記念企画展第3弾図録 平成14年発行 53頁)というものしか持っていませんで、大聖寺伊万里のことはよく分りません(~_~;)

大聖寺において、江戸期にも、現在古九谷様式と言われているものも写されていたのかどううかは私には分りません。私にとっても、今後の研究課題です。

現在も、古九谷産地論争は、なお、続いているようですね。
江戸期にも、九谷に窯はあったし、上絵付け用の赤絵窯跡も発掘によって確認されていますから、焼かれていたのは確かでしょうけれど、そこでどのような物が焼かれていたのかが問題ですね。
これもまた、更なる研究が待たれますね。
古九谷はいまだに謎に包まれていますね。


この図録によりますと、
「大聖寺伊万里は、明治から昭和にかけて主に江沼郡大聖寺町内において上絵付けされた染錦手伊万里を本歌取り(写し)した九谷焼の呼称である。
 素地は山代の大蔵窯、栄谷の北出窯、松田窯、勅使の東野窯等で生産した。素地は山代町方面、上絵は大聖寺町という徹底した分業体制が九谷焼の卸商らのプロデュースにより見事に大聖寺伊万里の大量生産でその実を結実した。」
とあります。

また、
「九谷で伊万里写しが製造された時代背景には、国の殖産興業政策や大量の欧米需要に応えるため全国の窯業地がフルに生産力とその技術力を発揮することが求められたことを理解しなければならない。、、」
ともあります。

そのようなことから、私も、大聖寺伊万里は、贋作作りで作られたものではなく、「産業政策の一環として」作られたものだろうと思います。
返信する
ぽぽさんへ (遅生)
2024-04-27 11:22:33
大聖寺伊万里の本、出版された時に、これは買わねば、と思っていたのですが、いつのまにかそれっきりになっていました。これを見ていると、何が伊万里で何が大聖寺か、だんだんわからなくなってくるようですね。

古九谷に関しても、新しい資料が出てきて、再注目ですね。「古九谷」の響きは、独特です。ロマンのかたまり。論争はまだまだ続きそうですね。
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ぽぽさんへ(その2) (Dr.K)
2024-04-27 11:26:27
(↑ の記述の順序がバラバラになったようです。これでは、意味が通じませんものね。それで、もう一度、改めて投稿します)


幅広く勉強をしていますね。
私は、大聖寺伊万里に関する本は、石川県九谷焼美術館編集の「『本歌取り九谷の華 大聖寺伊万里展』図録」(開館記念企画展第3弾図録 平成14年発行 53頁)というものしか持っていませんで、大聖寺伊万里のことはよく分りません(~_~;)


この図録によりますと、
「大聖寺伊万里は、明治から昭和にかけて主に江沼郡大聖寺町内において上絵付けされた染錦手伊万里を本歌取り(写し)した九谷焼の呼称である。
 素地は山代の大蔵窯、栄谷の北出窯、松田窯、勅使の東野窯等で生産した。素地は山代町方面、上絵は大聖寺町という徹底した分業体制が九谷焼の卸商らのプロデュースにより見事に大聖寺伊万里の大量生産でその実を結実した。」
とあります。

また、
「九谷で伊万里写しが製造された時代背景には、国の殖産興業政策や大量の欧米需要に応えるため全国の窯業地がフルに生産力とその技術力を発揮することが求められたことを理解しなければならない。、、」
ともあります。

そのようなことから、私も、大聖寺伊万里は、贋作作りで作られたものではなく、「産業政策の一環として」作られたものだろうと思います。

大聖寺において、江戸期にも、現在古九谷様式と言われているものも写されていたのかどううかは私には分りません。私にとっても、今後の研究課題です。

現在も、古九谷産地論争は、なお、続いているようですね。
江戸期にも、九谷に窯はあったし、上絵付け用の赤絵窯跡も発掘によって確認されていますから、焼かれていたのは確かでしょうけれど、そこでどのような物が焼かれていたのかが問題ですね。
これもまた、更なる研究が待たれますね。
古九谷はいまだに謎に包まれていますね。
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Unknown (ぽぽ)
2024-04-27 13:18:57
Kさんへ
色絵を見るようになってからや大聖寺もやはり知っておこうと思い最近本を読んでいますが、歴史見解はなかなか難しいですね(⌒-⌒; )
私はてっきり古九谷有田で決着しているものかと思っていましたが、まだまだ論争は続いてるように見えます。※九谷でも少し焼かれていたとも思っています。何が焼かれていたが確証が欲しいですが。。。
こういったところも遅生さんのおっしゃる通りロマンがあり、面白味を感じます。
それにしても大聖寺伊万里の技術の高さは改めて凄いなと思います。
この辺りブログでも触れた通り堂々と九谷の銘が入っていれば評価が定まると思うのですが、問題は江戸前期の古九谷を始めとし古伊万里と混同されてしまう所なんだろうなあと思います(^^)
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Unknown (ぽぽ)
2024-04-27 13:28:32
遅生さんへ
遅生さんもこの本が気になっておられましたか!?
基本的に図録の写真集というような構成でした。
手にとったのは今のところは伊万里蒐集をしたいのでまず敵を知らねばという感覚でした。
ですが技術力は高く時代も幕末明治頃であれば今後その価値は見直されるのでは!?
と改めて思いました。
おっしゃる通り幕末あたりはどちらが本歌あたりか分からないくらいの出来ですね(⌒-⌒; )
古九谷は分からない所が多くそれもまた魅力だろうと思います。
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ぽぽさんへ (酒田の人)
2024-04-27 23:14:11
どんどん知識を仕入れているようですね!
ワタシは大聖寺に関しては書籍を持っていませんので
自分の手持ちの品でしか判りません。
有名な藍九谷の竹虎文皿の大聖寺版ですが
今から20年近く前にヤフオクに出品された記憶があります。
当時、結構なお値段で落札されて記憶があります。
(ま~、あんな名品の本歌はヤフオクには出ませんが)
その時に骨董系のサイトで大聖寺の写し物が存在することを知りました。
安かったら大聖寺のい写しでもいいんで入手したいもんではあります。

しかし大聖寺は悩ましいですね
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Unknown (ぽぽ)
2024-04-27 23:34:58
酒田さんへ
ヤフオクでは色絵は結構混ざり込んでる印象ですよね!?
この本を読んで思ったのは分かりやすい大聖寺手もありますが伊万里と見分けがつかないようなものも多々あるということでした(⌒-⌒; )
酒田さんも以前おっしゃっていたように染め付けの色は幾分見分けやすいような気もします。
特に藍九谷あたりの時代の染め付けの再現はなかなか難しいんじゃないかと勝手に思っています。
そういう意味でも藍九谷あたりの品が素人ながらも見分けがつきやすい気がしてヤフオクでも比較的安心して手が伸びます。
ただあの虎図の皿まで作っていたとなるとそう安心もできないのかなと。。。
幕末明治の九谷の名品と評価したいものもあまり出来が良すぎて贋作としてみると評価は一変しますよね。
実に悩ましいですね。(⌒-⌒; )
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