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音曲日誌「一日一曲」#441 エスター・フィリップス「What A Difference A Day Makes」(Kudu/CTI)

2024-06-20 08:18:00 | Weblog
2024年6月20日(木)

#441 エスター・フィリップス「What A Difference A Day Makes」(Kudu/CTI)



エスター・フィリップス、1975年リリースのシングル・ヒット曲。マリア・グレヴァー、スタンリー・アダムスの作品。クリード・テイラーによるプロデュース。

米国の女性シンガー、エスター・フィリップスことエスター・メイ・ワシントンは、1935年12月テキサス州ガルベストン生まれ。両親は彼女が10代の頃に離婚して、同州ヒューストンに住む父親と、カリフォルニア州ロサンゼルスに住む母親との間を行き来することになる。

エスターは教会でゴスペルを歌いながら育つ。49年、13歳の時姉の強い勧めがあり、本人は乗り気でなかったが、ロサンゼルスのブルースクラブのコンテストに参加することになる。

それがシンガー、ジョニー・オーティスの経営するバレルハウス・クラブで開かれたアマチュア・タレント・コンテストだった。エスターは優勝して、オーティスの世話によりモダンレーベルと契約、1950年にわずか14歳でレコードデビューを果たす。

それがジョニー・オーティス・クインテットとロビンズをバックに従えたシングル「Double Crossing Blues」である。これがたちまちR&Bチャート1位となった。

デビュー時の芸名はリトル・エスター。オーティスは自分の旅回りのレビュー「カリフォルニア・リズム&ブルース・キャラバン」の一員に彼女を加える。

つまり、昨日取り上げたエッタ・ジェイムズより3年ほど早く、彼女は同じジョニー・オーティスによりその才能を見出され、プロデュースされてたちまちナンバーワン・ヒットを出したということになる。オーティスの目利きたるや恐るべし、である。

同年、シングル「Mistrutin’ Blues」で再びR&Bチャート1位を獲得、安定した実力と人気を印象づけた。その年はなんと、たて続けに7枚ものトップテン・ヒットを出す。

その後、オーティスの傘下を離れて、フェデラルレーベルに移籍したリトル・エスターだったが、これが吉とならず、ヒットはほとんど出なくなってしまう。

さらに問題となったのは深刻なドラッグ依存症だった。彼女はヘロイン中毒に陥ってしまう。突然の成功による生活の激変は心を蝕み、ひとに薬物への依存をもたらすということだろうか。

10代末の54年には父のいるヒューストンに戻って、小さなクラブでシンガーとして働き、ケンタッキー州レキシントンの病院に通う生活を送る。

62年、再び転機がエスターに訪れる。人気シンガーのケニー・ロジャーズが、ヒューストンのクラブで歌っているエスターを発見して、彼の兄リラン・ロジャーズが経営するレノックスレーベルとの契約を手助けしたのである。

同年、シングル「Release Me」でカムバックを果たす。このカントリー・バラード(レイ・プライスのヒットで有名)が全米8位、R&Bチャートで1位のヒットとなり、エスターは息を吹き返す。芸名もエスター・フィリップスと変わったのである。

翌63年以降もポップ・チャートを中心に活躍が続く。代表的なヒットには「I Really Don’t Want to Know」(63年)、「And I Love Him」(65年、ビートルズのカバー)、「When a Man Loves a Woman』(66年、パーシー・スレッジのカバー)などがある。主に当時のヒット曲をカバーするスタイルで、手堅くコンスタントにヒットを出していったのである。

しかし、70年代に入るとその手法もなかなか通用しなくなり、シングルヒットも難しくなってくる。

そこで大きく方針を変更、アルバム中心の制作スタイルに変えていくことになる。

アトランティックから移籍、名プロデューサー、クリード・テイラー率いるCTIレーベルの傘下、クドゥに所属したエスターは、またもや新たな境地を開拓する。

それは、クロスオーバー・サウンドである。

本日取り上げた一曲「What A Difference A Day Makes」は、クドゥでの6枚目にあたる同題のアルバムに収められたナンバーであり、シングル・カットもされた。

これが見事に当たって、全米20位、R&Bチャート10位という、「Release Me」以来ひさびさの大ヒットとなったのである。その波は他国にも波及して、全英6位、全豪38位も獲得した。

本曲は極めて古いナンバーで、1934年にメキシコのソングライター、マリア・グレバーによって書かれている。同年オルケスタ・ペドロ・ヴィアが初録音している。

これに米国の作詞家、スタンリー・アダムズが同年英語詞をつけてジミー・エイグ、ドーシー・ブラザーズなどがレコーディングしている。

その四半世紀後、1959年に人気ジャズシンガー、ダイナ・ワシントン(1924年生まれ)がこの曲をリバイバル・ヒットさせる。全米8位、R&Bチャートで4位となり、最優秀R&Bパフォーマンスのグラミー賞の栄誉を勝ち取ったのである。また、98年には彼女のバージョンで本曲はグラミーの殿堂入りを果たしている。

ダイナ・ワシントンという、エスターにとって11年年上の先輩シンガーは、もちろん大きな目標であった。

ジャズ、ポップス、ブルースといった多くのジャンルをそつなく歌いこなすダイナは、ブルースを出発点としながらも、カントリーやポップスで常に新分野を開拓していったエスターにとって、常に意識する存在であった。

その大先輩の代表作品を、エスターは大胆にアレンジして、カバーしてみせた。

レコーディングメンバーは、当時のクロスオーバー界において新進気鋭のミュージシャンが勢揃いであった。

ギターのジョー・ベック、スティーヴ・カーン、ベースのウィル・リー、トランペットのランディ・ブレッカー、テナー・サックスのマイケル・ブレッカー、アルトサックスのデイヴィッド・サンボーン、キーボードのドン・グロルニック、ドラムスのクリス・パーカーなどなど。

アレンジはジョー・ベックが担当、70年代半ば流行のディスコ・サウンドで往年の名バラードが、華々しく甦ったのである。

エスターの歌声は、かなり個性的でクセが強く、聴く者を選ぶものがある。ひとによってはそのアクの強さがいいというだろうし、それゆえに受け付けないひとも少なからずいる。

筆者もこの曲を初めてFMで聴いた時は、「うわ、えげつないビブラートだな」と若干引いてしまった、正直な話。

でも、何度も聴いているうちに、それが好み、クセになってくるのだな。

その色っぽい囁き(喘ぎ?)も相まって、リスナーを虜にしていく、魔性の歌声なのである。

レコーディング当時、エスターは39歳。まさにオンナ盛りであった。こんな見事に熟した女性に「たった一日でこんなにも変わったわ」なんて迫られたら、若いオトコはイチコロかも?

個人的によく思い出すのは、日本を代表するブルースシンガー、永井ホトケ隆さんがエスターの大ファンで彼女に米国まで会いに行って「好きです』と伝えたら、ファンとしてでなく女性として好きだと取られてしまったというこぼれ話だ。いいよね、こういうエピソードって。

日本では、中年女性の恋愛はあまり歌や文学の題材になりにくいけれど、海の向こうでは普通にそれらのテーマとなり、多くの作品が生まれている。

アラフォーのエスター・フィリップスの、このセクシーなパフォーマンスも、彼の地では特に違和感なく受け入れられたのである。文化の違いが感じられるね。

エスター・フィリップスはその後もコンスタントにアルバムをリリースしていったが、結局長年にわたる薬物中毒がたたり、1984年、48歳の若さでこの世を去っている。早逝が本当に惜しまれる。

唯一無二の個性的な歌声を聴いて、彼女の卓抜した歌の才能を、もう一度確認してみてほしい。




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