2023年1月25日(水)
#434 KUWATA BAND「NIPPON NO ROCK BAND」(ビクター音楽産業/Taishita VDR-1225)
日本のロック・バンド、KUWATA BAND(以下KB)のファースト・アルバム。86年リリース。KBによるプロデュース。
KBは、1年間という期間限定で結成されたプロジェクト。サザンオールスターズが桑田佳祐の妻、原由子が産休に入るため活動休止となったので、その間に桑田がずっとやってみたかった計画を実現させたのである。
それは、完全に英語詞のみによるロック・バンドだ。
サザンは日本語と英語がチャンポンのサウンドだが、あくまでも英語表現のみの「純ロック」に挑戦したのである。
それが当時の桑田には、自分のロックが向かうべき、正しい道に見えていたからだという。
アルバムに先行したシングル「BAN BAN BAN」「MERRY X’MAS IN SUMMER」などでは日本語詞も含まれていたが、これはセールスも勘案してのことだろう。このファースト・アルバムではすべての歌詞が英語である。
作詞の担当は、コーラスでも参加しているゴダイゴのトミー・スナイダーだ。
メンバーはドラムスの松田弘以外は、スタジオ・ミュージシャンなどに声をかけて集めた。
ギターの河内淳一、ペースの琢磨仁、キーボードの小島良喜、パーカッションの今野多久郎。いずれも実力派ばかりである。楽曲の作曲・アレンジも全て、彼ら自身によるものだ。
オープニングの「SHE’LL BE TELLIN’ (真夜中へデビューしろ!!) は、ノリのいいハード・ロック・ナンバー。
とにかく押しの強さだけで女をモノにしようという、深く考えていない歌詞がロックっぽい。
ロックとは本来、そういうチャラい、ナンパな世界を描くものなんだろうな。
でも、サザンの音楽を愛聴して来たリスナーたちに、すんなりウケるかというと、「?」である。
「ALL DAY LONG (今さら戻ってくるなんて) 」はメロディ的に従来のサザン・スタイルを感じさせる一曲。
でも、それに英語詞がかみ合うことでちょっと不思議な感覚が生じる。違和感とも言えるかもしれない。
聴いているだけでは歌詞の意味が全然頭に入ってこないという向き(そういう人が大半だと思う)は、桑田自身による訳文(対訳というよりは意訳、あるいは超訳)があるので、それを読まれたし。
家を出て行ったはずの恋人が突然戻ってきて困惑する男の心情を歌うナンバー。サザンの一連の歌詞世界とは、かなーり違うな。サザンの歌に出てくる男なら、節操なく喜んで迎えそう。
「ZODIAK (不思議な十二宮) 」はメンバー全員によるコーラス「ゾーオーオーオーオオオゾーオーオーディアック」が印象的なロック・ナンバー。
KBはリード・ボーカルはもちろん桑田だが、他のメンバーもコーラスとして歌っている。
英米のバンドと日本のバンドを比較すると、日本はひとりのボーカリストに歌を任せっぱなしのケースが多いが、それではライブでの歌に厚みや迫力が出にくい。
英米のバンドに多い「全員参加型」を見習って、KBもあえてそれを表に打ち出しているのだろうな。
「BELIEVE IN ROCK’N ROLL (夢見るロック・スター) 」は、小島のシンセサイザー・サウンドが特徴的なエレクトロ・ポップ。いかにも当時の流行を反映したサウンドである。
あてもなくロック・スターになる日を夢想する男のストーリー。そこに、歌い手の桑田の心情はほとんどシンクロしていない。強いて言えば、過去の自分の振り返りとしてか。
「PARAVOID (彼女はパラボイド) 」は、河内の激しいギター・プレイをフィーチャーしたハード・ロック。
パラボイドとはもちろん、スナイダーによる造語だろう。パラノイアで空っぽな女ってところか。そんなしょうもない女にひたすら生活をかき乱される男の話。
サザン世界なら、また違う歌詞になりそうなシチュエーション。やはりトミー・スナイダーの作品なのだ、これは。
「YOU NEVER KNOW (恋することのもどかしさ) 」は、よくわからない思いびとの態度に「???」となっている恋愛下手な男が主人公の、ロック・ナンバー。
音量抑えめの曲調で、AORっぽい仕上がり。アルバムでは、異色のナンバーだ。むしろ、歌詞にしても本来のサザンの路線に近い。
「RED LIGHT GIRL (街の女に恋してた) 」はブルース・ロック調のナンバー。夜の女に心を狂わされてしまった哀れな男を描く、あるあるなナンバー。
曲調も歌詞も、安心して聴けるフォーマットの一曲。
ゲストの包国充のむせぶようなサックスが、雰囲気作りに一役かっている。
「GO GO GO (愚かなあいつ) 」はボブ・ディラン・プラス・ストーンズなナンバー。本盤では一番元ネタが分かりやすい。友情がこの曲のテーマで、ダメになってしまった友を気遣う話だ。
サザン・バックの常連、八木のぶおのブルース・ハープが、サウンドにスゴみを加えている。
「BOYS IN THE CITY (ボーイズ・イン・ザ・シティ) 」は、社会不安に目を向けた一曲。
暴力は暴力でしか対抗出来ないのか? これもまた日本ではほとんどテーマにされないが、英米ロックでは頻繁に取り上げられる問題だ。
ハードなサウンドの背景にある、社会の「闇」にリスナーの関心は果たして向くのか?
外国語という障壁は、思った以上に高く大きいように感じる。
「DEVIL WOMAN (デビル・ウーマン) 」は英米ロックに数多く見られる「魔性の女」がモチーフのナンバー。サキュバスのような女に魅入られた男の歌。
ヘビーでブルーズィな音が、耳に心地よい。これもわりと安定のフォーマットだな。
「FEEDBACK (理由なき青春) 」はアップ・テンポのシャッフル。
桑田のリードボーカルでなく、河内あたりに任せているようだ。
作曲も桑田とは違うような気がする。そんな異色のメロディ・ライン。
KBは「桑田とそのバック・バンド」というかたちではなく、全員の共同作業により作られており、非桑田的な個性も容認していくポリシーだったのだろう。
サウンドの多様性に、それを伺い知ることが出来る。
この曲でも、包国のブローがサウンドに拍車を掛けていてカッコいい。
ラストの「I’M A MAN (アイム・ア・マン・フロム・ザ・プラネット・アース) 」は、筆者的にはけっこう気に入っている一曲。
デイヴ・メイスン、あるいはデュアン・オールマンばりのメロウなスライドギター・サウンド、そしてメジャーに転調してのコーラスが、見事なコントラストを成している。
アルバム前半に多いハード一辺倒のサウンドよりも、こういうメリハリのある繊細な音に、KBサウンドの可能性を感じるね。
以上、12曲。「英米ロックをよーく勉強して、頑張って、作りました」感がよく出ている一枚だが、それゆえに「ちょっと無理していませんか?」というツッコミを入れたくなるアルバムでもある。
桑田=サザンの本来持つ猥雑さ、チャランポランさ、テキトーさ、そういったものがほとんどアク抜きされて、フツーの真面目なポップスになってしまっている。これじゃ、あかんでしょ。
やはり、いくらネイティブ・スピーカーでないからと言って、英語の歌詞作りを他人に任せていては、桑田らしい世界は生まれて来ないように思う。
英語とかサウンドとかの「かたち」はなんとか「純正ロック」に仕上がっていても、それは桑田自身のロックとは違う。
それはアルバムを完成してみて、桑田自身もいたく感じたことらしい。
意気込んで作ったものの思ったようなものにはならず、「失敗作」だと感じ、以後英語詞ロックへのアプローチを再び試みることはなかったのである。
でも、それはそれで貴重なチャレンジだったのではなかろうか。
ロックとは、常に新たなスタイルを模索していくこと、試行錯誤を繰り返すことだと思う。
だから、このバンドの失敗に近い経験も、桑田の後々の音楽に生かされていったに違いない。
そしてこれはあくまでも筆者の妄想だが、86年当時にこのKBサウンドを引っさげて、英米へ進出するといった世界線も実はありだったのではないか。
当時はまだインターネットがなかったから、英米をはじめとする世界の人々にKBの音を聴かせることは難しかったが、桑田が本気で世界に出たいと思えば、フラワー・トラベリン・バンドのように渡米して現地でライブをやるって選択もあったはず。
もしこのアルバムを、英米人が聴いたら、「これも立派なロックだ」と思うのか、「いや、ロックとは似て非なるものだ」と思うのか。とても興味のわく問題だ。
KUWATA BANDより後の時代には、日本のロック・バンドも普通に欧米で受け入れられるようになっている。たとえば、少年ナイフとか、ハイ・スタンダードとかがそうだ。
インターネット、Youtubeのある現在、日本の音楽は即時的に全世界に発信出来る。
桑田サン自身は断念したとはいえ、筆者は英語詞のロックは日本人には無理だとは思わない。
何より、日本人の英語に関するリテラシーは、この数十年で大きくアップした。
言葉というハードルは高いものの、それを軽々とクリアした「NIPPON NO ROCK BAND」が今後はフツーに現れてくるに違いない。
そうなれば、KBの37年前の試みも、大きな意義を持つのではないかと思うよ。
<独断評価>★★★★
日本のロック・バンド、KUWATA BAND(以下KB)のファースト・アルバム。86年リリース。KBによるプロデュース。
KBは、1年間という期間限定で結成されたプロジェクト。サザンオールスターズが桑田佳祐の妻、原由子が産休に入るため活動休止となったので、その間に桑田がずっとやってみたかった計画を実現させたのである。
それは、完全に英語詞のみによるロック・バンドだ。
サザンは日本語と英語がチャンポンのサウンドだが、あくまでも英語表現のみの「純ロック」に挑戦したのである。
それが当時の桑田には、自分のロックが向かうべき、正しい道に見えていたからだという。
アルバムに先行したシングル「BAN BAN BAN」「MERRY X’MAS IN SUMMER」などでは日本語詞も含まれていたが、これはセールスも勘案してのことだろう。このファースト・アルバムではすべての歌詞が英語である。
作詞の担当は、コーラスでも参加しているゴダイゴのトミー・スナイダーだ。
メンバーはドラムスの松田弘以外は、スタジオ・ミュージシャンなどに声をかけて集めた。
ギターの河内淳一、ペースの琢磨仁、キーボードの小島良喜、パーカッションの今野多久郎。いずれも実力派ばかりである。楽曲の作曲・アレンジも全て、彼ら自身によるものだ。
オープニングの「SHE’LL BE TELLIN’ (真夜中へデビューしろ!!) は、ノリのいいハード・ロック・ナンバー。
とにかく押しの強さだけで女をモノにしようという、深く考えていない歌詞がロックっぽい。
ロックとは本来、そういうチャラい、ナンパな世界を描くものなんだろうな。
でも、サザンの音楽を愛聴して来たリスナーたちに、すんなりウケるかというと、「?」である。
「ALL DAY LONG (今さら戻ってくるなんて) 」はメロディ的に従来のサザン・スタイルを感じさせる一曲。
でも、それに英語詞がかみ合うことでちょっと不思議な感覚が生じる。違和感とも言えるかもしれない。
聴いているだけでは歌詞の意味が全然頭に入ってこないという向き(そういう人が大半だと思う)は、桑田自身による訳文(対訳というよりは意訳、あるいは超訳)があるので、それを読まれたし。
家を出て行ったはずの恋人が突然戻ってきて困惑する男の心情を歌うナンバー。サザンの一連の歌詞世界とは、かなーり違うな。サザンの歌に出てくる男なら、節操なく喜んで迎えそう。
「ZODIAK (不思議な十二宮) 」はメンバー全員によるコーラス「ゾーオーオーオーオオオゾーオーオーディアック」が印象的なロック・ナンバー。
KBはリード・ボーカルはもちろん桑田だが、他のメンバーもコーラスとして歌っている。
英米のバンドと日本のバンドを比較すると、日本はひとりのボーカリストに歌を任せっぱなしのケースが多いが、それではライブでの歌に厚みや迫力が出にくい。
英米のバンドに多い「全員参加型」を見習って、KBもあえてそれを表に打ち出しているのだろうな。
「BELIEVE IN ROCK’N ROLL (夢見るロック・スター) 」は、小島のシンセサイザー・サウンドが特徴的なエレクトロ・ポップ。いかにも当時の流行を反映したサウンドである。
あてもなくロック・スターになる日を夢想する男のストーリー。そこに、歌い手の桑田の心情はほとんどシンクロしていない。強いて言えば、過去の自分の振り返りとしてか。
「PARAVOID (彼女はパラボイド) 」は、河内の激しいギター・プレイをフィーチャーしたハード・ロック。
パラボイドとはもちろん、スナイダーによる造語だろう。パラノイアで空っぽな女ってところか。そんなしょうもない女にひたすら生活をかき乱される男の話。
サザン世界なら、また違う歌詞になりそうなシチュエーション。やはりトミー・スナイダーの作品なのだ、これは。
「YOU NEVER KNOW (恋することのもどかしさ) 」は、よくわからない思いびとの態度に「???」となっている恋愛下手な男が主人公の、ロック・ナンバー。
音量抑えめの曲調で、AORっぽい仕上がり。アルバムでは、異色のナンバーだ。むしろ、歌詞にしても本来のサザンの路線に近い。
「RED LIGHT GIRL (街の女に恋してた) 」はブルース・ロック調のナンバー。夜の女に心を狂わされてしまった哀れな男を描く、あるあるなナンバー。
曲調も歌詞も、安心して聴けるフォーマットの一曲。
ゲストの包国充のむせぶようなサックスが、雰囲気作りに一役かっている。
「GO GO GO (愚かなあいつ) 」はボブ・ディラン・プラス・ストーンズなナンバー。本盤では一番元ネタが分かりやすい。友情がこの曲のテーマで、ダメになってしまった友を気遣う話だ。
サザン・バックの常連、八木のぶおのブルース・ハープが、サウンドにスゴみを加えている。
「BOYS IN THE CITY (ボーイズ・イン・ザ・シティ) 」は、社会不安に目を向けた一曲。
暴力は暴力でしか対抗出来ないのか? これもまた日本ではほとんどテーマにされないが、英米ロックでは頻繁に取り上げられる問題だ。
ハードなサウンドの背景にある、社会の「闇」にリスナーの関心は果たして向くのか?
外国語という障壁は、思った以上に高く大きいように感じる。
「DEVIL WOMAN (デビル・ウーマン) 」は英米ロックに数多く見られる「魔性の女」がモチーフのナンバー。サキュバスのような女に魅入られた男の歌。
ヘビーでブルーズィな音が、耳に心地よい。これもわりと安定のフォーマットだな。
「FEEDBACK (理由なき青春) 」はアップ・テンポのシャッフル。
桑田のリードボーカルでなく、河内あたりに任せているようだ。
作曲も桑田とは違うような気がする。そんな異色のメロディ・ライン。
KBは「桑田とそのバック・バンド」というかたちではなく、全員の共同作業により作られており、非桑田的な個性も容認していくポリシーだったのだろう。
サウンドの多様性に、それを伺い知ることが出来る。
この曲でも、包国のブローがサウンドに拍車を掛けていてカッコいい。
ラストの「I’M A MAN (アイム・ア・マン・フロム・ザ・プラネット・アース) 」は、筆者的にはけっこう気に入っている一曲。
デイヴ・メイスン、あるいはデュアン・オールマンばりのメロウなスライドギター・サウンド、そしてメジャーに転調してのコーラスが、見事なコントラストを成している。
アルバム前半に多いハード一辺倒のサウンドよりも、こういうメリハリのある繊細な音に、KBサウンドの可能性を感じるね。
以上、12曲。「英米ロックをよーく勉強して、頑張って、作りました」感がよく出ている一枚だが、それゆえに「ちょっと無理していませんか?」というツッコミを入れたくなるアルバムでもある。
桑田=サザンの本来持つ猥雑さ、チャランポランさ、テキトーさ、そういったものがほとんどアク抜きされて、フツーの真面目なポップスになってしまっている。これじゃ、あかんでしょ。
やはり、いくらネイティブ・スピーカーでないからと言って、英語の歌詞作りを他人に任せていては、桑田らしい世界は生まれて来ないように思う。
英語とかサウンドとかの「かたち」はなんとか「純正ロック」に仕上がっていても、それは桑田自身のロックとは違う。
それはアルバムを完成してみて、桑田自身もいたく感じたことらしい。
意気込んで作ったものの思ったようなものにはならず、「失敗作」だと感じ、以後英語詞ロックへのアプローチを再び試みることはなかったのである。
でも、それはそれで貴重なチャレンジだったのではなかろうか。
ロックとは、常に新たなスタイルを模索していくこと、試行錯誤を繰り返すことだと思う。
だから、このバンドの失敗に近い経験も、桑田の後々の音楽に生かされていったに違いない。
そしてこれはあくまでも筆者の妄想だが、86年当時にこのKBサウンドを引っさげて、英米へ進出するといった世界線も実はありだったのではないか。
当時はまだインターネットがなかったから、英米をはじめとする世界の人々にKBの音を聴かせることは難しかったが、桑田が本気で世界に出たいと思えば、フラワー・トラベリン・バンドのように渡米して現地でライブをやるって選択もあったはず。
もしこのアルバムを、英米人が聴いたら、「これも立派なロックだ」と思うのか、「いや、ロックとは似て非なるものだ」と思うのか。とても興味のわく問題だ。
KUWATA BANDより後の時代には、日本のロック・バンドも普通に欧米で受け入れられるようになっている。たとえば、少年ナイフとか、ハイ・スタンダードとかがそうだ。
インターネット、Youtubeのある現在、日本の音楽は即時的に全世界に発信出来る。
桑田サン自身は断念したとはいえ、筆者は英語詞のロックは日本人には無理だとは思わない。
何より、日本人の英語に関するリテラシーは、この数十年で大きくアップした。
言葉というハードルは高いものの、それを軽々とクリアした「NIPPON NO ROCK BAND」が今後はフツーに現れてくるに違いない。
そうなれば、KBの37年前の試みも、大きな意義を持つのではないかと思うよ。
<独断評価>★★★★