*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *妙興禅寺(1)!     (愛知県一宮市)

2017-08-31 | Weblog

         

妙興寺山道前碑     山道前

 

     

参道前碑     参道前案内板

 

*妙興寺! 

住所=一宮市大和町妙興寺2438

*妙興寺は、愛知県一宮市にある「臨済宗妙心寺派」の大寺院。

山号は、長嶋山(ちょうとうさん)、寺号は詳しくは「妙興報恩禅寺」と称する。

本尊は「釈迦三尊],開山は「滅宗宗興」で、 周囲には、五つの塔頭がある。

古より「尾張に杉田(過ぎた)の妙興寺」と言われる。

新陰流開祖「上泉信綱」が修行した。無刀取りの発祥の地。

修行道場として僧堂が説置されている。

     

上泉信綱       碑

 

(上泉信綱・無刀取発祥の寺・説明板)

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *浜松城!

2017-08-18 | Weblog

         

浜松城大手道      石垣

 

     

家康公銅像     浜松城天守

*浜松城!

 住所=浜松市中区元城町100-2

*浜松城は、徳川家康が元亀元年(1570)に築城した。

歴代城主の多くが出世していることから、出世城とも呼ばれている。

天守閣には様々な資料が展示され、展望台からは浜松市街を一望できる。

春はサクラ、秋は紅葉の名所として親しまれている。

浜松城登り口


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *龍譚寺(井伊家菩提寺)!

2017-08-17 | Weblog

     

龍潭寺参道   山門

 

  

玄関        前庭(本堂前)

 

     

本堂          庭園本堂裏

 

  

小堀遠州作          案内板

 

     

井伊家墓所碑  墓所      

*龍譚寺! 

住所=浜松市北区引佐町井伊谷198

        

初代供保公出生井戸  井戸入口  

 

       

共保公出生の井戸   碑  

住所=浜松市北区引佐町井伊谷1986

*井伊氏初代・共保はこの井戸の中で、生まれて間もない姿で泣いていたところを、

発見されたと伝わる。

 

(井戸)


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *気賀関所!

2017-08-16 | Weblog

        

気賀の関跡再現     関所門

 

     

気賀の関所     関所内部 

*住所=浜松市北区細江町気賀4577

*気賀の関所は、江戸時代、細江町を東から西に横切っていた街道を、

東海道・本坂越又は本坂道・本坂街道・姫街道などと呼んでいました。

姫街道の要害地であった「気賀上村」に、徳川家康は早くから関所を設けて、

「入り鉄砲と出女」の監視を中心に、通行する人々や荷物の取り調べを行った。

その後箱根にも関所が造られ「気賀の関所」は箱根関所・今切(新居)関所ととも

に、東海道の三関所といわれ明治二年(1869)まで続いた。

平成元年(1989)度「ふるさと創生事業」として、現在する資料を調査して、

寛政元年(1789)初めて瓦葺に改築された「気賀関所」を冠木門、本番所、

向番所、遠見番所、制札場、雪隠、三ツ道具立、槍立、矢来などで、

再建し、等身大の人形を配置して、当時を再現した。(浜松市説明板より)

 (気賀関所・全景!)

*大河ドラマ館!「おんな城主・直虎」

住所=浜松市北区細江町気賀369

(みをつくし文化センターホール)

    

ドラマ館内       ドラマ館内

 

 

ドラマ館      ドラマ館内

                           

    

ドラマ館内      ドラマ館内

 

     

*大河ドラマ館はH29年1月15日(日)平成30年1月14日(日)まで!

入場料  普通券 大人 600円

小・中学生 300円

 

(直虎ちゃん)

 


*村ちゃんの歴史街道!     *羽島市編!      *美濃街道(美濃路)!     *大浦(三ツ屋)の道標!

2017-08-16 | Weblog

          

美濃路(羽島市)            説明板

 

      

説明板      道標碑・個人宅前

 

  

 道標         美濃路(羽島市)

*大浦(三ツ屋)の道標!    

 住所=羽島市正木町大浦(金刀比羅神社)

*大浦(三ツ屋)の道標は、大浦・金刀比羅神社前から、西に進んで、

  美濃街道(美濃路)は、旧木曽川堤防上にあがっていた。

  徳川将軍たちが通行した「船橋川戸」へは更に1キロ程南下しなければならない。

  定渡船場からあがった大多数の旅人たちは、この地点で堤防にのぼり右折れしていた。

  そこにあった道標が、現在は「旧堤防跡地」に建つ個人宅の門前に、

  当時の美濃街道(美濃路)を示して残されている。

  これは昔、江戸の御典医が旅の途中、起宿で倒れて亡くなり、

  その医師が世話になったお礼として残していった路銀で、

  この辺りの医師達が相談して建てたものだと伝えられている。

  碑文には「右いせみち、左おこし舟渡、寛延三庚午年(1750)、

  医師講中」と、記されている。        

*羽島市・歴史・史跡検証委員会・説明板より。

*美濃街道(美濃路)!  稲沢市編・一宮市編   

(完) H29・8・16

 


*村ちゃんの歴史街道!     *羽島市編!     *美濃街道!     *起渡船場跡(定渡船跡・美濃側)!

2017-08-15 | Weblog

    

木曾川堤渡船場跡    岐阜羽島側堤下

 

   

堤下説明板     説明板

 

    

金刀比羅社(羽島側)  碑

 

美濃路

 *起渡船場跡(一宮市側)~ 定渡船場跡(羽島市側)! 

*住所=羽島市正木町大浦(金刀比羅神社)

  美濃街道(美濃路)は、起渡船場より木曽川を越えて美濃の国に入る。

  ここには上・中・下の三ヵ所の渡し場があり、それぞれ定渡船場・宮河戸・

  舟橋河戸と呼ばれており、西国大名の参勤交代を初め大多数の通行人は、

  この定渡船場を使用していました。この起の定渡船場に対応する、

  美濃側の船着き場から上がって広い川原を通り、大浦輪中の、

  懸け回し堤防を越えた場所が、大浦の「金刀比羅神社」である。

  起・金刀比羅神社と共に通行人の安全を、願って祀られたものであるが、

  この神社は対岸の起渡船場にあったものが、出水でここに流れついたとも、

  伝えられています。その頃より、むかしこの辺りに水神である山神社が祀られていた。

  いつの頃か対岸の起・大明神社に合祀されたが、夏の日照りが続き、

  雨乞いがしたくなると、起の村人たちが、打揃って旧宮跡まで、

  雨乞い祈願に来る習慣が、明治末年頃まで続いたと伝えている。

  (羽島市 歴史・史跡検証委員会・説明板より)

 

   

  


*村ちゃんの歴史街道!     *羽島市編!     *美濃街道(美濃路)!     *起渡船場・石灯台!

2017-08-15 | Weblog

    

渡船場・石灯台    石灯台

 

   

*渡船場石灯台    説明板 

*住所=羽島市正木町新井        

*この石灯台は、明和7年(1770)に建てられたものである。

 伝承によれば「竹鼻町伊勢屋」の祖先の力士がある夜、起から木曽川を渡り、

 新井(羽島市)の堤防へあがろうとしたが、道も方角もわからず大変困ってしまった。

 そこで堤防の上に「石灯台」並びにその油代として田二反(1990m2)

 をも併せて寄付されたものです。

     

渡船場跡        説明板

 

   

渡船場「正木の本堤防」 

*住所=羽島市正木町新井

 起渡船場(羽島市)は、尾張藩の御船手奉行の支配下におかれ、

 渡し船は常時2艘のほか旅人の多い時に備えて置船1艘、合わせて3艘常置されていた。

 羽島市正木大浦地区は、以前は、大きく「く」の字型に屈曲する木曽川右岸境の外にあった。

 川側に大浦中堤小堤防としてあったものの、木曽川洪水の際には、

 決壊し、度々惨害を被っていた。 大正十年より始まった木曽川上流改修では、

 当初「く」の字の旧本堤うぃお拡張する計画であったが、大浦輪中水害予防組合のたび、

 重なる要望と木曽川河道の線形を考慮し、川側の大浦輪中堤を新たに本堤として、

 拡張することとした。 工事は昭和七年十一月に着工し、昭和十三年十月に、

 約三千メートルの新堤防を完成した。 この施工により大浦地区は堤防内となり、

 家屋四十三戸(当時)及び耕宅地約七十五町歩は積年に亘る水害の脅威から開放され、

 また廃堤となった旧堤敷、廃川敷約二十町歩が新たに耕地として利用できることとなった。

 この事跡を永く後世に伝える為、大浦輪中水害予防組合は、

 昭和十六年、木曽川堤坊の脇に「本堤改修・碑」が建てられた。

 (国土交通省・説明板より)

  

  

 


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!     *起渡船場跡・定渡船場跡(上)!

2017-08-15 | Weblog

     

渡船場跡       渡船場跡

 

   

金比羅宮        金比羅宮説明板

 

     

渡船場跡・説明板    金比羅宮前

 

   

木曽川堤渡船場跡    渡船場堤跡

*起渡船場跡(上)・定渡船場跡!     

住所=一宮市起字堤町38

 美濃街道(美濃路)の定渡船場跡には、上流から上・中・下の三ヶ所の渡し場があり、

 定渡船場・宮河戸・船橋河戸と呼ばれていました。 常時多くの人々に使用ていたのは、

「定渡船場」である。

 江戸時代初期から、渡船場には「定渡船場」2艘・置船1艘・御召船1艘の、

 合計4艘が尾張藩御船手役所から預けられ、他に鵜飼船や馬船も置かれ、

 人々の往来を支えました。旅人だけでなく、西国の大名の参勤交代や、

 京都の公家の往来にも使用されました。渡船場の実質的な管理は起宿の、

 船庄屋が行い、船頭20人がいました。

 昭和31年(1956)に現在の「濃尾大橋」が完成するまで、

 この「渡船場」は、岐阜県(美濃国)と愛知県(尾張国)を結ぶ、

 重要な交通手段であった。    

(一宮市教育委員会・説明板より!)

 

 

 


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!     *起渡船場跡(中)・宮河戸跡・福島正則・駒繫ぎ跡・碑!

2017-08-14 | Weblog

     

宮河戸神社前碑      宮河戸境内

 

    

大銀杏       説明板

 

     

神社鳥居前     本殿

 

    

福島正則駒繫ぎ説明碑 木曽川堤

*起渡船場跡・宮河戸跡!

*福島正則駒繫ぎ・碑!

*大明神社内に・碑) 

 住所=一宮市起堤町字138-1

*福島正則(東軍・木曽川を渡る)!

  慶長五年(1600)八月二十一日、福島正則等は、家康の到着を待たずに、

       行動を開始した。

  軍勢を二手に分け、福島正則・黒田長政・細川忠興などの軍勢一万六千は、

  美濃街道(美濃路)を南下し、起から木曽川を渡り「竹鼻城」を攻め、

  池田輝政・山内一豊・一柳直盛などの軍勢一万八千は清州から北上し、

  一宮・黒田を通り河田から岐阜に向かいました。

  起の「大明神社」に「福島正則」が馬を繋いだとされる、

  巨木(杉)が昭和二十年代まで、あったそうです。

  現在その巨木はなくなり、石碑のみが残されています・ 

  福島正則の軍勢は、起から渡ろうとしましたが、木曽川の砂浜に足を取られて、

  思うように前進できず、対岸から銃撃を受けました。

  そのため、下流の加賀野井から渡りました。

  この時に福島正則を、案内したのが、後の「起宿本陣」となる、

     「加藤家」とされています。

  竹鼻城は二十二日の午後四時頃、落城しました。

  


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!     *起渡船場跡・宮河戸跡(中)!

2017-08-12 | Weblog

       

宮河戸大明神碑前   大銀杏 

  

     

木曽川堤より神社 木曽川堤より対岸羽島市方面                                       

*起渡船場跡・宮河戸跡! 

*住所=一宮市起字堤町138-1

*起渡船場には、上・中・下の三ヶ所の渡しがあった。

 大明神社の西にあるの「木曽川」を「宮河戸(中)」俗に「八尾清河戸」と称した。

 もとは「御手洗場」でもあったが、船荷の揚げ下ろしがされていた。

 対岸の渡船場は、美濃国中島郡新井村(現岐阜県羽島市正木町新井)の、 

 燈明河戸と呼ばれていた。 宮河戸は、大藩の木曽川渡船など、

 金刀比羅社のある定渡船場(上の渡し)だけでは渡船場が困難な時に使用された。

 たとえば文久元年(1861)の皇女・和宮の下向は当初、美濃街道の通行が、

 計画されており、その時この宮河戸の使用も計画されていた。    

(一宮市教育委員会・説明板より)


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!     *江戸時代・木曽川を渡る象行列!

2017-08-10 | Weblog

     

象渡り日程表      象渡り説明板

 

象渡し説明板

1)佐渡川(揖斐川)        

  あらかじめ象船が用意されていましたが、川の水が比較的浅かったので、

  象は気持ちよさそうに歩いて渡りました。

  しかし、残りわずかなところで象は深みにはまってしまい、沈んでしまいました。

  象は自力で這い上がり、なんとか渡りきることができました。

2)墨俣川(長良川) 

  水量が多く、佐渡川(揖斐川)のように歩いて渡ることができないので、

  「象船」が用意されました。

  しかし象は機嫌が悪くなかなか船に乗ろうとしませんでした。

  足に綱を巻つけて、20人がかりで象を引っ張り船に乗せたものの、

  渡りきったところで対岸の大勢の見物客の歓声に驚いて逃げ出してしまいました。

  全力疾走した象は村の外れまで来て、ようやく捕えることができました。

3)小熊川(境川)

  この川にも象船が用意されていましたが水が少なかったので

  浅瀬を選び歩いて渡りました。

  墨俣川(長良川)のような事件もなく4つの川の中で一番楽に

  渡ることができました。

4)起川(木曽川)

  今までの河川とは規模が異なり、墨俣川(長良川)の二の舞にならない様に、

  細心の注意が払われました。 墨俣川(長良川)での経験を活かし、

  象使いの「てんてんほんほん」の掛け声に合わせて象を船に乗せ、

  落ち着いた象は川を無事に渡りました。

  こうして、美濃街道(美濃路)最大の難所を越える事が出来ました。

 

    

船で木曽川を渡る像   起宿を歩く象

 

  

起宿を歩く象      象行列

*江戸時代の象!  (尾西歴史民俗資料館内)

 江戸時代の中頃、8代将軍「吉宗」は、象を大陸では軍用しているという話聞いて、

 興味を示し、象を見てみたいと言いました。その事を知った清国(今の中国)の商人の、

 「鄭太威」はベトナムから牡牝一頭ずつ合わせて2頭の象を連れて享保13年(1728)

 に長崎にやって来ました。 牝象は長崎の「唐人屋敷」で死んでしまいましたが、

 牡象は翌年3月13日に長崎を出発し、江戸までの長い旅が始まりました。

   長崎街道・山陽道を通り、京都で天皇に拝謁しました。

 その後、草津宿から中山道に入り、 垂井宿を経由で美濃街道(美濃路)に入りました。

 木曽川を船で渡り「起宿」に到着したのは5月3日の事でした。

 起の本陣敷地内あ「象小屋」が建てられ、そこに象が一泊しました。

 翌4日、次の宿泊予定地である「清州宿」に向かいました。

 象行列は象使いをはじめ30数人の役人村役人が同道した記述が、起宿にも残されています。

 その後、象は5月25日に「江戸」に到着、将軍・吉宗にお目見えして、

    その役目をは果たしました。

 

 

 

  

                                                                                                               

 

 


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!    *船橋!   

2017-08-08 | Weblog

    

御召屋形船内部    説明板

 

御召屋形船内部

*起渡し場には、常時3隻の定期船のほか、鵜飼船17隻・馬船14隻がおかれ、

  20人の船頭がいて「尾張藩」より扶持米が与えられていました。

  渡し場は藩の御舟手奉行のもとに「船庄屋」と「船方肝煎」がいました。

  藩との関係の深い通行者には、船2隻の上に屋形を組み、「御召船」としました。

  内部は畳3枚分の広さです。 大名などが船に乗り降りのさいには、

  船が揺れないように「船押人足」が、川中から背中で船を両面を押さえました。

     

船橋架け        船橋架け

 

       

船橋        船橋                                                 

*船橋、将軍・朝鮮通信使・八代将軍「徳川吉宗の生母」の通行にさいして、

  船橋を架けました。 長さ855mという日本最大の船はしです。

  木曽川の起に架けられた「船橋」は、全長855m前後、船数270艘を越える、

  日本最大の船橋で、当時は「起川船橋」と呼ばれた。

  宝暦14年(1764)の朝鮮通信使の来朝を最後に、架けられる事はなくなったものの、

  「尾張名所図会」は、起川船橋を「海道第一の壮観」と称し、又、

  朝鮮通信使の一行も、舟橋の壮大さを記録に残している。

  ( 説明板=一宮市起堤町168-1)

(起渡船場跡・船橋跡・説明板) 

昭和四42年8月28日指定(一宮教育委員会)より。

 

 


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!     *起渡船場・船橋跡碑!

2017-08-08 | Weblog

    

船橋架け跡地     船橋架け跡碑

 

   

架け跡碑     架け橋跡説明板    

 

    

船橋架け全景     船橋

 

   

船橋       船橋

*起渡船場跡(下)・船橋跡・碑! 

*住所=一宮市起字堤町168

*船橋は、船を並べて繋ぎ止め、その上に板などを渡した橋である。

  美濃街道(美濃路)では、木曽川・境川・長良川・揖斐川の渡船場に、

  「将軍・朝鮮通信使」といった特別な通行のためのみ、「船橋」が架けられました。

  将軍・朝鮮通信使・八代将軍吉宗の「生母」の通行にさいしては、橋船をかけました。

  長さ855mという日本最大の「船橋」です。

  延享5年(1748)朝鮮通信使通行のおりには延べ7578人の人足、

  大小277隻の船を近郷の村々から集めて架設と撤去の作業をしました。

  この年5月16日の一行の帰路通過後、7月4日に撤去を終り、

  約4ヶ月半余の日数をかけました。

 


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!     *起宿!

2017-08-07 | Weblog

   

起宿・脇本陣林家    本陣跡碑

 

脇本陣・林家(史料館)!

*起宿! *本陣跡! 

*住所=一宮市起字下町211

*起宿は、美濃路(美濃街道)の宿場で、愛知県一宮市起にある。

 木曽川沿いにあり、尾張国と美濃国の境にあたる。

 木曽川に架けられた起渡船場は、上(かみ)の「定渡船場」・「中の宮河戸」・

 「下の「船橋河戸」の3ヶ所の渡し船が設置されました。

 船橋川戸には、将軍上洛時と朝鮮通信使が通る時には、

 27隻の船を使用した長さは約800mの船橋が架けられました。

 

*本陣跡=本陣の11代目である「加藤磯足」は、「本居宣長」の門人。

*脇本陣跡=林家、立教大学名誉教授・林英夫の生家である。

(一宮尾西歴史民俗資料館別館)脇本陣は明治24年(1891)の、

「濃尾大地震で崩壊。 現在のは翌年に立て直した物。

 江戸時代後期の建築がほぼ残る建造物である。

 


*村ちゃんの歴史街道!     *美濃街道!(脇街道・駒塚道)!     *羽島市編!     *石河尾張藩家老邸!

2017-08-06 | Weblog

       

駒塚・石河屋敷     屋敷・碑

 

説明板・碑

*駒塚道! *尾張藩家老・石河氏邸! 

*住所=羽島市竹鼻町駒塚272

*尾張藩家老・石河出羽守正章は、美濃・駒塚領主・石川(石河)家・第4代当主。

 名字を石川から石河に改めた。

 貞亨元年(1684)、尾張藩家老「石河章長」の子として生まれる。

 宝永3年((17016)、父の隠居により家督を相続。1万石格の家老となる。

 亨保2年(1717)3月、石河正章が江戸に出府し、江戸城で将軍「徳川吉宗」に、

 拝謁を許される。これが先例となり、代々の当主に受け継がれた。

 享保4年(1719)、従五位下出羽守に叙任。

 亨保11年(1726)、名古屋へ参勤の為に、木曽川に「駒塚渡し」を開設した。

 亨保16年(1731)6月、隠居して家督を嫡男「石河忠喜」に譲る。

 宝暦3年(1753)7月28日死去。  享年70才没。

*追記!

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!