*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *長谷院(ちょうこくいん)!多宝塔(二重塔)!

2021-02-18 | Weblog

*長谷院(ちょうこくいん)!*多宝塔(二重塔)!

*住所=清須市桃栄3-80

*長谷院山門!

 

*山門仁王像!(阿像)

 

*山門仁王像!(吽像)

 

*多宝塔(二重塔)!

 

*多宝塔(二重塔)&  神明社!

 

*名古屋商人「杉屋佐助」碑!

 

*堀江山 長谷院(ちょうこくいん)! *説明板!

「堀江の観音さん」と親しまれるこの寺は、14世紀頃、

奈良・長谷寺の本尊十一面観音への熱烈な信仰から、

この地に生まれた真言宗「新長谷寺」が始まり。

奈良・長谷寺本尊と同木同作という十一面観音を本尊とする。

 

*天正12年(1584)小牧・長久手の兵火で堂を失ったが、

消失を免れた本尊は、清須越により名古屋南寺町に、

移転していた浄土・宗阿弥陀寺の一角に、慶長18年(1613)に移された。

そのため浄土宗に改宗し圓宗院と称した。

承応3年(1738)寺名は堀江山長谷院に戻ったが、

元文3年(1738)の大火で、本寺の阿弥陀寺もろとも消失。

この時も本尊は無事であった。

2度の大火をくぐり抜けた十一面観音への人々の信仰は、

尾張三十三観音霊所二番霊所として高まってゆく。

一方、ここ西堀江の人々の熱い願いから、

天保3年(1832)にこの地に戻る事になった。

尾張藩主の名古屋御下屋敷にあった、仁王門、多宝塔、明王堂などが寄付され、

名古屋の商人「杉屋佐助」らの協力で寺観が整えられていった。

*美濃路から分かれた津島街道が境内を通り、名古屋からの観音巡り、

甚目寺・津島への参詣で人を迎え、「尾張名所図会」はその賑わいを描いている。

*その後、震災、空襲、火災等を経ながら、本尊と多宝塔は当初のまま残り、

他の建物もほぼ復旧し、深々とした森の中に、静かな佇まいを残している。

境内には多くの石造物がみられる。  

*美濃路まちづくり推進協議会!   

*説明板より!

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!      *清須城土居之址碑!(松陰神社跡碑!)   

2021-02-17 | Weblog

*清須城土居之址碑!(村社・松陰神社址碑)!

住所=清須市鍋片2-40(鍋片公民館)

 

*松陰神社跡碑 & 清須城土居之址・碑!

 

*清須城土居之址・碑

 

*松陰神社跡・碑

 

*松陰神社由来・跡!

*松陰神社碑文!

「松陰神社跡」

「今の地の歴史は古く清須城外堀土井

 の跡と伝われ約五百年の樹齢と伝わ

 れし景勝の穴松のふもとに松陰神社

 が鎮座せられしが今回松陰神社と山

 神社と合祀し松山神社を設立致しま

 した故に松陰神社跡としてこの碑

 を立てるもので有ります。

    *碑文より!

 

*清洲城土居之跡図!

清須城外土井(居)之跡と伝わる!

「御土居松」とは、

清須城外郭の南側、馬出(山王口)近くに生えていた松である。

当時松陰神社境内にあり、樹齢500年であったという。

「清須城土居之址」の石碑は昭和3年2月11日に建設されている。

「御土居松」はすでに存在しない。かわりに「松陰神社跡」の碑が

建っている。碑の銘は昭和41年10月と記され、

その頃合祀・鎮座したと見られる。

「御土居松」もその頃には枯れていたであろう。

 

*清洲城内外土居跡(現在上は城内・下は城外)

 

*清須城外堀土井(居)之跡・碑! 現在の全景!


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *今川義元塚供養塔! 正覚寺(清須市)

2021-02-16 | Weblog

*今川義元塚供養塔・碑!   

*住所=清須市須ケ口332(正覚寺境内・碑)!

*正覚寺・碑!

 

  

正覚寺参道!    今川塚供養塔(境内)!

 

*今川塚供養碑!

 

*今川塚説明板!

*今川塚供養碑!

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長は、

今川義元を討ち取りました。「信長公記」によると、

清須城外の須ケ口に義元塚(今川塚)を築いて丁寧に弔ったとされています。

その後,寛文元年(1661)に正覚寺六代三誉上人と、

念仏講同行14名の名前が刻まれた生前供養のための、石碑を建立しました。

これが、今川塚供養碑と言い伝えられています。

美濃路沿いの須ケ口2334-3の山内伊之彦氏所有地内に、

建てられていたものを、平成19年(2007)現在の(正覚寺境内)に、移設しました。

「南無阿弥陀仏為 念仏講同行14人 正覚寺六代

 三誉上人 逆修(十四名記名) 設敬」

「当寛文元暦 辛丑八月十五日 春日井郡 清須外町」

*清須市教育委員会! 説明版より!

 

*大雄山正覚寺(浄土宗)!

関ケ原の戦いの功で清洲城主となった松平忠吉(徳川家康四男)が、

亡母西郷局(後に宝台院という)の菩提寺として、

前任地の忍(埼玉県行田市)にあった大雄山正覚寺を慶長8年(1603)に、

ここ清須外町に移したのが当寺の始まり。満誉上人を開山とした。

忠吉は寺野村で百石の寺領を寄進するなど、保護に努めたが、

慶長12年(1607)27才の若さで跡継ぎもなく江戸にて逝去した。

家康の命により葬儀は増上寺で営まれた、位牌は当寺に安置された。

翌年の一周忌法要は、家康制礼のもと、21日間という長行が当寺行われた。

慶長15年(1610)に始まる清洲越で、当寺は忠吉の法名から、

大雄山性高院と改名して名古屋に移され、忠吉の菩提寺となった。

一方、その後すぐ清須の旧地にも、旧名のままで再建されたのが、

当寺で、宝台院の菩提、性高院の霊牌、忠吉に殉じた4名の家臣の、

位牌を護る由緒ある寺院としてこの地に続いてきた。

美濃路に面したこの寺では、忠吉ゆかりの宝物のほか、

忠吉母子の供養塔である宝篋印塔、佛足石桶狭間の戦いで、

倒れた今川義元に関わる「今川塚供養碑」平成19年(2007)移設、

須ケ口一里塚にあった道標など、多くの歴史に出会うことができる。

*美濃路まちづくり推進協議会!  

*説明板より!

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *源平墨俣川合戦場跡!

2021-02-14 | Weblog

*源平墨俣川合戦場跡!    

*小熊山一乗寺!(臨済宗妙心寺派)

住所=羽島市小熊町西小熊4292

 

*小熊山 一乗寺碑!

 

*一乗寺参道!

 

*一乗寺境内!

 

*一乗寺・本堂!

*弘仁10年(819)空海の開基で真言宗の寺院として、境内18町余歩の、

広い区域に七堂伽藍を建立し、大師自ら橋杭で延命地蔵菩薩を彫られ、

七間四方の堂に安置し *「朽残る真砂の下の橋はしら又道かえて人わたすなり」と、

歌を読まれた。当時は寺中に12坊があり、尊信の中心となっていた。

時を経て源頼朝は、この菩提の寄瑞を厚く信仰し、文治3年(1187)、

武運の祈願をしたところ勝利を得たため、本堂を再建したが後に兵火にあい、

寺院建物が全部消失した。このことを霊夢で知った頼朝は、再び伽藍を建築し、

後の世の手当てとして千両目の団金に, *「朝日さす夕日かがやく木のもとに

こがね千両後の世のたから」と、一首の和歌を添えて付与したという。

 

*一乗寺由来・説明板!(羽島市観光協会説明板より)

又、治承・寿永の乱(源平の合戦)における養和元年(1181)の、

墨俣川(現長良川)の戦いでは、墨俣から西小熊(一乗寺付近)が主戦場となり、

多くの戦死者がでた。この時の戦死者を供養するため、誓浄寺と本養寺の二つの

寺が建立され、多くの五輪墓石が作られたが、天正14年(1586)の、

大洪水でこの二つの寺が流され五輪墓石も散逸してしまった。

*境川河川改修工事の際に、川底から多くの五輪暮石が出土したため、

その一部が当寺に無縁暮石として安置され、墨俣川の戦いの激しさを今に伝えている。

 

*織田信長が岐阜在住の時、この菩薩の霊威のあるを知り、

永禄11年(1568)菩薩を岐阜に移したが、天正2年(1574)3月の、

初めのある夜、この菩薩が枕頭に立たれ、元の地に帰りたいと告げられた。

帰す事を惜しんだ信長は、尊像を留めてその地名を小熊と改め今にその地名を残している。

その後一乗寺は一時衰退したが、万治元年(1658)に臨済宗妙心寺派の寺として、

江西長老により開山された。当寺に現在安置してある地蔵菩薩は慈覚大師の彫刻で、

開山した江西長老が尾張国田嶋村から請い受けて空堂に安置したものである。

さらに、貞享2年(1685)冬の頃、当山第3世月空紹長老に、

「汝我を信ずる事久し其心何ぞ空しからんや、先の尊像は彼地に在りといえども

神此処に在す弥供養を怠る事なかれ」という霊夢があった。

よって不二冥合の尊像と崇め、諸堂ことごとく再建した。

時に元禄10年(1697)でこの寺の中興の開山と称している。

*羽島市観光協会! *説明板より!

 

 

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *源平墨俣川の合戦!

2021-02-13 | Weblog

*源平墨俣川の合戦!    

*住所=大垣市墨俣町下宿1

 

*義円公園!

 

*源義円供養塔!

 

*源平墨俣川古戦場跡碑

 

*源平墨俣川の合戦! 説明板!

*養和元年(1181)3月10日長良川を挟んで源平の大激戦がここで展開された。

世に言う源平墨俣川の合戦である。 同年2月4日「平清盛」が病死する。

*東国源氏は勢を得て京へ攻め上る。これを迎え討つため、平重衡(しげひら)を、

総大将として維盛・通盛・忠度・知度・盛綱・盛久等の武将7千余り騎、杭瀬川を渡り、

右岸の墨俣側(上下宿)に陣す。

*一方源氏の将、行家(新宮十郎蔵人)は千余騎を率いて左岸の羽島側(小熊)に着陣す。

源頼朝は行家の応援のため弟の「源義円」をつけ西上させたが、義円は行家に合流せず、

二町を隔てて軍を整えた。義円は行家に先陣されては兄頼朝に合す顔がないと考え唯一人馬に乗り、

敵陣側の西岸にひそみ夜明けとともに「義円は今日の大将軍なり」と名乗って先陣のさきがけをしょと、

白む夜明けを待っていたところ、見廻り夜警兵の見とがめられ、

「兵衛佐頼朝の弟で伯爵卿の公義円という者だ」というが早いか勇敢に戦ったが武運つたなく、

力つき「平盛綱」に討たれた。

*源氏戦利あらず、尾張源氏の泉太郎重光兄弟は討死し、行家の子太郎光家兄弟は、

平忠度に捕えられた。討死・溺死する者690余人に及んだ。

敗れた源氏は尾張に退き又、矢作川(三河国)の東岸まで退き、東国源氏の大兵来ると、

宣伝し勢いを盛り返して、再び平家と戦い義経公・弁慶などの活躍となる。

その後、壇ノ浦の戦いで遂に源氏に平家は亡ぼされる事となった。

*源義円は頼朝の異腹の弟で義朝の妾・常盤御前の子・義経と同腹の兄にあたる。

兄の挙兵を聞き、比叡山の僧兵のごとく坊主頭を頭巾に包み、墨染の衣を着て鎌倉へ、

駆けつけたと思われる。 墨俣川の合戦で悲運の生涯を閉じた、「25才」であった。 

里人義円地蔵を刻み堂を建て、毎年3月10日に供養を続けている。

*ここより150メートル西に義円の墓がある。

昭和56年3月10日に、800年祭が行われた。

*(源平盛衰記・平家物語・吾妻鑑より)  

*説明板より!

 

*源義円墓所

 

*義円墓所!