*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *養老の滝&孝子伝説!

2020-11-24 | Weblog

養老の滝&孝子伝説! 

*住所=岐阜県養老郡養老町養老公園!

   

養老寺碑前   養老寺本堂

 

   

孝子・源丞内墓 源丞内墓

*孝子伝説!

 昔、元正天皇のころ、養老山麓に貧しいい父子が住んでいました。

 息子は薪を採り、一生懸命年老いた父を養津ていましたが、

 父の好きな酒までは十分に用意できませんでした。

 ある日、息子が山に働きに出て、滝を眺め「あの水が酒であったらなあ」と、

 思ったとき、あやまって石の上ですべってしまいました。

 その時どこからともなく、酒の香がただよってきたので、不思議に思いあたりを見回すと、

 石の間の泉から本当のお酒が湧き出しています。

 息子は大変喜び酒を「ひょうたん」に汲み帰って父に飲ませたところ、父も大変喜びました。

 この話をお聞きになって天皇は、これは息子の感心な「孝子」の行いを天地の神々が、

 おほめになったものであるとおおせになり、息子を役人にとりたて、このめでたい年を、

 記念しね元号を養老と改めました。 *養老孝子源丞内の会!(説明版より)

   

養老神社    本殿

 

   

養老公園内   養老公園内

                                                   

     

菊水泉  菊水泉

日本名水百選・菊水霊泉!

 

*養老の滝(日本の滝百選)

 

*養老の滝!

 

 

 

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *臥龍山・行基寺!(岐阜県海津市)

2020-11-23 | Weblog

*行基寺! 

*住所=岐阜県海津市南濃町上野河戸1024-1

   

行基寺駐車場 濃尾平野(名古屋駅方面)

 

行基寺参道(石垣)

 

   

山門   本堂

 

濃尾平野(対面の間より)

 

   

対面の間より東側 対面の間より東側

 

濃尾平野展望!(対面の間より)名古屋駅方面

 

濃尾平野(対面の間より)稲沢市方面

 

濃尾平野(対面の間より)一宮市方面

*各書院からは濃尾平野はもとより、南は知多半島・北は日本アルプス連峰を眺めることができる。

*臥龍山・行基寺!

 行基寺は天平の初め頃(729)大仏建立のため諸国を行脚していた「行基菩薩」が、

 聖武天皇の勅使を得て、この地に三国(美濃・尾張・伊勢)の守護霊山場として、

 菩提寺を建立されました。

*元禄年間(1668~1703)約300年前、

 尾張2代藩主「徳川光友公」の次男である「松平義行公」が、

 (徳川家康公の曾孫)が、美濃高須藩の藩主として封ぜられるにあたり、

 当山を「松平家」の菩提寺として宝永2年(1705)に再建しました。

 その後、明治維新に至る160年間は一般庶民の登山は禁止されていました。

*藩主の間!

   

藩主の間    藩主の座

 

*高須藩主の間!

*高須藩「松平家」は、尾張徳川家の連枝、支藩で尾張藩に後継者が絶えた場合に、

 相続人を出す役割がありました。

 尾張17代藩主のうち4代が美濃高須藩松平家の出身です。

 高須藩は3万石の小藩でしたが、御三家を除けば将軍筆頭家門と、

 言うべき家柄で、江戸城における格式は甚だ高く、大大名と同格でした。

 幕末から明治維新にかけて大きな役割を担い歴史に名を残した、

「尾張藩主・徳川慶勝・徳川茂徳・会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬」は、

 美濃高須藩「松平家」の出身の4兄弟である。

*行基寺! パンフより!

 

 

 

 

 

 

 


*村ちゃん歴史ぶらり旅!     一宮市138タワー・ コスモス畑開花!

2020-11-20 | Weblog

*138タワー・コスモス畑! 

*住所=一宮市光明寺浦崎字21-3

*138タワー コスモス畑開花!

 

     

138タワー  138タワー

     

一宮市138タワーコスモス畑開花!


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *史跡! 旧少林寺跡!(岐阜県各務原市川島小網町)

2020-11-16 | Weblog

*旧少林寺跡地! 

*住所=岐阜県各務原市川島小網町2025-32

旧少林寺跡地! 説明板!

 

木曽川本流堤防より!

*史跡! 旧少林寺跡地!

  鎌倉時代の応長元年(1311)この地に、竜慶山少林寺が建立された。

  ここは臨済宗南禅寺派属し、無学祖元の流れを汲む、

  夢窓国師・疎石の開山になるものである。

  栄枯盛衰は時の流れとともに移り変わったが、

  その当時の寺郭伽藍は広壮で、法灯が少林寺一帯に輝き、

  仏教文化の殿堂として、200余年栄えたのであった。

  たまたま木曽川の水魔の悪戯激しく、衰亡廃寺となる。

  現在はその証跡として僅かに、少林寺の一角を残すにすぎないが、

  寺郭の大部分は木曽川の本流の川床となっている。

*追記!

  室町時代、明応8年(1499)薄田祐貞は少林寺の中興を図り、

  臨済宗妙心寺派の僧・東陽英朝を開山として、新加納に再興する。

  のち、戦国の兵火にあい焼失したが、江戸初期・領主旗本「坪内氏」の

  再建するとことろとなり、坪内家の菩提する。

  現在の新加納「少林寺」は是なり。

  本町小網には現在も多くの檀徒を有す。

*岐阜県川島町文化財保護審議会!

*説明板より!

 

*現在坪内陣屋跡・碑

 

*現在の少林寺境内! 

*住所=各務原市那加納町2104ー1

 

*少林寺! 

*旗本坪内家墓所!

 (少林寺境内)

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!      *うだつの上がる町&美濃和紙の里&旧有知小学校舎!(美濃市)

2020-11-11 | Weblog

*うだつの上がる町&美濃和紙の里! 

*岐阜県美濃市1883 

*うだつの上がる町並み! 住所=美濃市1883

 「うだつ」とは屋根の両端を一段高くした防火壁!

 と同時に、富の象徴するもので、古くから商人にの、

 町として栄えた美濃市の町は、

 今も数多くの「うだつ」が見られます。

   

町並み1    うだつの町並み1  

 

  

町並み2    うだつの町並み2

 

*市指定文化財! *旧今井家住宅!

  江戸時代中期の建築で、古い形式の「うだつ」造り。

  美濃の代表的商家の一つである。

  間口15.8メートル 奥行15.8メートルで、

  8畳間9つどりを基本型にした最大規模の家風である。

  江戸時代から和紙の原料商として繁栄をつづけ、

  江戸末期には庄家を、戦前には町の譜役を務めた名家である。

  度々改造はあったが古風さが残り、かって富裕さを偲ばせる。

  中庭の水琴窟は、環境省の残したい「日本の音風景100選」に選定されている。                                    

  * 説明板より!

 

*宝勝院庫裡(くり)!(旧有知学校舎)

   

宝勝院     庫裡前

   

宝勝院庫裡説明板 旧有知舎学校案内版

 

*宝勝院庫裡(くり)(旧有知小学校舎)!

  宝勝院庫裡は明治初年の洋風建築!

  宝勝院庫裡は明治9年に建てられた、

  旧小学校の本館を移築したものである。

  当時の小学校の設計図が市役所に残されているが、

  図面と全く同じである。

  美濃小学校は、小倉山公園内の現在の図書館のある位置位置に、

  建てられ下の広場が運動場として、使用されてきた。

  明治35年に現在の梅山に移転したが、その際、

  宝勝院が譲り受けたものである。

  一階の柱頭(ちゅうとう)飾りや2階手摺に、

  西洋建築のデザインを取り入れ、当時としては極めて、

  進歩的なものであった。 *説明板より!

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *小倉山城!(岐阜県美濃市)

2020-11-08 | Weblog

*小倉山城! *城主=金森長近公    

*住所= 岐阜県美濃市泉町

*小倉山城登り口!

 

    

小倉山公園(P) 公園内1

 

   

公園内2     山頂展望台前

 

   

展望台より北側 展望台より西側(長良川)

 

展望台より南側(美濃城下)

*慶長10年(1605)金森長近公によって築かれた城である。

  慶長5年(1600)に関ヶ原合戦で東軍に属して、

  「郡上八幡城」などを攻めた功により、「飛騨高山城主・金森長近公」は、

  美濃国武儀郡などに2万石の加増をえた。

  長近は、飛騨高山に養子の「金森可重・よししげ」に譲り、

  自身は小倉山城に築城して別家を興した。

*慶長13年(1608)長近が没すると、次男の「金森長光」が継いだが、

  慶長16年(1611)わずか6才にて没して、無嗣改易となり、   

  上有知藩はわずか2代で廃藩となった。

  その後は天領となり、元和元年(1615)からは、

  尾張藩領となって代官所が置かれた。

 (追記)

*西側にある「清泰寺」は「鉈尾山城主・佐藤清信」が、

   佐藤家の菩提寺として開山する。

  佐藤清信の墓と「金森長光・(長近・次男)」の墓がある。

*又、領主であった「佐藤家歴代・金森家歴代」の墓があり、

  寺内には「金森長近公」を祀る「金森大明神」がある。

  

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *道三塚!(岐阜市内)

2020-11-02 | Weblog

*道三塚! 

*住所=岐阜市道三町12

*道三塚!

 

   

道三塚全景   道三塚(祠)

 

   

道三塚(墓)  道三塚・説明板

*美濃国の英傑・斉藤道三は、父・長井左衛門将の跡を継いで、

  守護代、斉藤の名字を名乗り、国盗りに向けて勢力を伸ばし来ました。

  天文13年(1544)には、稲葉山城下まで攻め込んできた「織田信秀」の、

  率いる尾張の国中の軍勢を撃退します。

  天文17年(1548)に和睦。 その後に道三と正室・小見の方の、

  娘である帰蝶(濃姫)が、信秀の子である「信長」に嫁ぎます。

  小見の方は、可児郡明智の城主「明智光継」の娘と伝えられており、

  「明智光秀」の伯母にあたります。 

  光秀が道三に鉄砲の指南を受けいたという伝承は、道三と光秀が、

  姻戚関係にあったことと何か関連があるかもしれません。

天文19年(1550)頃、道三は美濃国の守護、「土岐頼芸・よりのり」を、

  大桑(おおが)城から追放し、美濃国の戦国大名となりました。

  天文23年(1え554)には、息子の義龍に家督をゆずり、

  自身は鷺山(さぎやま)城に隠居したと、伝えられています。

  しかし、道三が義龍の弟二人を尊重し、義龍をないがしろにしたため、

  両者は次第に不仲になりました。

  天文24年(1555)、義龍は弟二人を殺すと、道三は仰天し、

  軍勢を集め町を焼き払い、山県(やまがた)郡の山中(大桑・おおが)城に、撤退します。

弘治2年(1556)、長良川の戦いにて「道三と義龍」が対決します。

  4月18日に道三は鶴山に布陣、4月20日に「道三と義龍」は長良川で、

  退陣すると、中の渡しで激戦が繰り広げられます。

  また、土居口という場所で戦いが行われたと言う史料も確認されています。

  合戦は、最終的に「義龍」に軍配が上がり、「道三」は戦死します。

  道三の遺体は、崇福寺の西側(現メモリアルセンター付近)に、

  埋葬されましたが、塚はたびたび長良川の洪水に見舞われたため、

  天保8年(1837)に常在寺の住職によって現在の場所に移されました。  

  *岐阜市教育委員会・説明板より!

 

 

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *岐阜市内・崇福寺(織田信長公・菩提寺)!

2020-11-01 | Weblog

*崇福寺! *織田信長公・菩提寺!     

*住所=岐阜市長良福光2403-1

崇福寺・碑

 

織田信長公・菩提寺(廟所)

 

   

崇福寺山門      中庭

 

信長・信忠墓所&廟所

 

織田信長公・信忠墓所

 

織田信長公父子・墓所・廟所・説明板

 

信長父子廟所

 

 

血天井・説明板

 

血天井(岐阜城の床板)!

*織田信長公の孫・三法市師(秀信)は、慶長5年(1600)の、

  関ヶ原合戦前夜(約1ヶ月程前)に、東軍(徳川方)の、

  攻撃を受け、岐阜城は落城した。

  秀信は高野山に落ち延びたが、三十八名の将兵は戦死した。

  菩提を弔うために、その時の血痕の付着した床板を、

  天井に張りめぐらしたのである。   

*(説明板より)