*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!     *高木一里塚!

2017-07-30 | Weblog

    

美濃路        高木一里塚

 

  

一里塚跡     一里塚説明板

 

高木一里塚碑

*高木一里塚跡! *美濃街道!  

*住所=一宮市萩原町高木字中道58

*高木一里塚は、江戸時代に東海道と中山道を結ぶ「美濃路・美濃街道」に、

  架けられた十三ヶ所の一里塚の内の一つです。

  慶長九年(1604)に、江戸幕府は、江戸日本橋を拠点とし、 

  一里(約4キロ)ごとに一里塚の設置を命じました。

  その後、一里塚は、全国に普及し旅人たちの旅や運賃の目安なると共に、

  「榎」や「松」等の大木が植えられ、その木陰では旅人が休息をとることもできました。

  高木一里塚にも、明治初年頃まで街道の両側に塚が設けられ、

  その上の「榎」が植えられていたと伝わっています。

  一宮市内には、高木一里塚の他、「岐阜街道」の「一宮一里塚」

  「美濃路・美濃街道」の「富田一里塚」が設けられました。

  明治時代になると各地の一里塚は徐々に姿を消し、

  高木一里塚も昭和三十七年(1962)に設立された記念碑を残すのみとなった。

(一宮市教育委員会説明板より)

*追記!

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!     *中島城跡!

2017-07-30 | Weblog

   

中島城付近       中島城碑

 

中島城・碑

*中島城! *美濃街道! 

*住所=一宮市萩原町中島城跡

*平安時代末期に中島氏によって築かれたと伝わる。

  中島氏は「嵯峨源氏」の後裔で尾張大介職を世襲し、代々「中島蔵人」を称したという。

  一時は中島郡一帯に勢力を持っていたが、室町時代になって衰退した。

 

     

中島廃寺跡碑   廃寺跡碑

住所=一宮市萩原町中島字白山12

*中島廃寺は、奈良時代から平安時代初期にかけての軒丸瓦や鬼瓦が出土している。

 

*追記!

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!     *長隆寺!

2017-07-29 | Weblog

        

長隆寺前碑       長隆寺碑

 

 

長隆寺山門    長隆寺境内

 

        

長隆寺本堂       長隆寺説明板

 

      

本堂説明板    中島蔵人光敏公・碑     

 

長隆寺本尊・阿弥陀如来像

(一宮市博物館内・保管)

 

長隆寺本尊・阿弥陀如来像

(一宮市博物館内・保管)

*長隆寺! *美濃街道! 

*住所=一宮市萩原町中島1686

*長隆寺は、平安時代創建と伝えられている古刹である。

  本尊の「木造・阿弥陀如来座像・高さ150cm」は上品下生の来迎印を結び、

  両脇には右に「木造・観音菩薩立像」左に「木造・勢至菩薩立像」

  (ともに高さ178cm)を配している。

  平成元年・二年度に、本尊、平成三年度に両脇侍の保存修理を行い、

  両脇侍から「元享三年(1323)」の制作銘が発見された。

  長隆寺所蔵の文化財は、いずれも「一宮市博物館・一宮市大和町妙興寺2390」 に、

       

 

      委託され収蔵・展示されている。 

*追記!

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!

  

 

 


*村ちゃんの歴史街道!     *一宮市編!     *美濃街道!     *中島宮!   

2017-07-29 | Weblog

        

美濃路・中島宮前    中島宮碑

 

     

中島宮碑               説明板 

*美濃街道! *中島宮!

*住所=一宮市萩原町中島

*中島宮は、天照大神を祭神とする「丸宮神明社」があった。

  倭姫が伊勢国に出立のとき大きな白張り提灯をつけて送ったとの口伝がある。

  この故事により「竹棹」に12~13個の白張り提灯を結び、

  4地区から1本ずつ奉納し、夏から秋、月6回献灯する行事を、

  古来から受け継いできた。

 

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!

  

 


*村ちゃんの歴史街道 !      *稲沢市編!     *美濃街道!     *木全村・石橋村!

2017-07-18 | Weblog

  

 美濃路        木全・石橋村付近

*美濃街道! *木全村・石橋村! 

*住所=稲沢市木全5丁目

*稲葉宿内を西に進んだ街道は「魦橋・いさざはし」を過ぎて右に折れ、

  木全村(高・二百五十六石二斗 四升七合・家数三七軒、人数二百六人)に入る。

  往還通は一町二十二間(そのうち家居が一町ほど、並木が三十二間で、

  木全村がそのうち八十二間(左十二間・石橋村地内)を、掃除していた。

  美濃街道は木全村地内で再び左に折れて西に向、次いて石橋村(高・三百五十一石

  五斗二升七合、家数三十五軒、人数百六十七人)に入る。

  村内の往還通は五町十三間(そのうち家居二町余、並木三百十三間(左側

  百二十六間西御堂村地内)続き、このうち五十四間を石橋村が、百三十七間を、

  舟橋村が三十二間を桜木村が、四十間を下屋村が、更に四十五間(左側

  二十五間西御堂地内)を竹腰村がそれぞれ掃除を受け持った。

*天保十二年(1841)の村絵図によると、木全村から石橋村に入った美濃街道は、

  用水を渡ったところで右に折れて北進し、一旦カギ型に曲がって西御堂村との、

  境を再び北に進んでいる。現在の西尾張中央道の辺りと思われるが、

  この間の経路は土地改良により今は失われており、詳細は分からない。

 

*追記!

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!

   


*村ちゃん歴史街道!      *稲沢市編!   *美濃街道!   *禅源寺墓所(琉球王使節・随員之墓)!     

2017-07-17 | Weblog

      

薩摩藩山之内墓     薩摩隼人墓

 

     

 隼人の説明板          五輪塔婆(江戸時代)

 (琉球王使節・随員の墓)

*禅源寺墓所! *琉球王使節 随員の墓! 

 *住所=稲沢市稲葉1丁目

*琉球王使節 随員の墓!

  天保三年(1832)琉球王が徳川幕府に貢物を献上の時、

  その水先案内役として、江戸へ下る途中「稲葉宿」に止宿。 

  当時流行の琉球風邪に罹り死亡。 脇本陣「吉田氏」の墓に葬られた。

 ①「薩摩藩士・伊集院・山之内角兵衛之墓」

 ②「薩摩隼人の墓」 *文化十年(1813)江戸へ下る途中「稲葉宿」の本陣に、

   止宿、時に病を得て客死。 脇本陣「吉田氏」の墓に葬られた。

   讃州 多度津 京極壱岐守家中「長浜仁右エ門之墓」」

 ③禅源寺大檀越 「吉田家の墓所」

   この辺りは、禅源寺の大檀越である「吉田一族」のお墓のあった所である。

   吉田家は江戸時代には、美濃路・稲葉宿の脇本陣を務め、

   稲葉宿で起こった出来事や「禅源寺」の発展のために代々奉仕したと伝えられ、

   そのため墓所内には珍しい貴重な墓が残っている。

  * 一石彫 成砂岩の五輪塔婆

  *逆修の墓

  *薩摩隼人の墓

  *琉球王使節随員の墓

  *高貴な家柄から嫁をとった婦人の墓! など。

 

*追記!

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!

 

   


*村ちゃんの歴史街道!     *稲沢市編!    *美濃街道!     *禅源寺!

2017-07-13 | Weblog

    

禅源寺碑       参道

 

  

(山門)     説明板

 

  

  勅使門        説明板

*禅源寺! *美濃街道! 

*住所=稲沢市稲葉1丁目6-2

*禅源寺は臨済宗の寺院で、寛永十一年(1634)に、将軍「徳川家光」が、

  上洛した際に宿泊し、その旅宿となり、不快の病が治癒し、葵の御紋を、

  使用を許されたことで知られています。

  県指定文化財となっている、鎌倉時代前期の作と言われている、寄木造りの

  阿弥陀如来坐像があります。

*明治二年(1869)雪が積もった十二月に、この寺の鐘の音を合図に、

  中島・海東両群、現在の稲沢市・一宮市・津島市の諸市を含んだ、

  広い地域の人々決起する「農民騒動(稲葉騒動)」がおこっことで知られています。

 

*追記!

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!


*村ちゃんの歴史街道!     *稲沢市編!     *美濃街道!     *稲葉宿!

2017-07-11 | Weblog

   

美濃路(本陣跡)    美濃路(山田宅)

                

       

酒蔵          問屋場跡碑

 

      

 問屋場跡碑      一心堂前  

     

     

宝光寺前               山門前

*美濃街道! *稲葉宿! 

*住所=稲沢市小沢2丁目13

*稲葉宿は、平安時代に京都と東国を結ぶ重要な街道として、

  美濃の国府「垂井宿」から尾張「稲葉宿」を経て、旧東海道に結ばれた街道が、

  現在の美濃街道(美濃路)の源流といわれている。

  稲葉宿は、稲葉と小沢両村宿駅業務を行う合宿だった。

  町並みは8町21間あり本陣1軒(小沢村)、脇本陣1軒(稲葉村東町)、

  問屋場3軒、旅籠屋8軒、家数336軒、人口1572人であった。

  小沢村の「原所次右衛門」が代々世襲していた。

*天保三年(1832)十一月三日、琉球王使の一行は本陣・脇本陣では足りなくて、

  寺院や一般民家などに宿泊している。

  この他朝鮮通信使の来日も慶長十年(1605)以降文化八年(1811)まで、

  計十二回に及び、そのうち十回「美濃路」を通行し江戸まで往来している。

  「美濃路」を東下しているのを見てみると、享保十一年(1726)十月十四日、

  オランダ人が、同十二年九月一三日はオランダから馬二疋、鳥類二釣が、

  同十四年(1729)五月三日には象が、同年五月十四日には、唐馬二疋、

  犬三疋などがあった。

 

*追記!

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!

 

 


*村ちゃんの歴史街道!     *稲沢市編!     *小沢一里塚!

2017-07-11 | Weblog

        

美濃路一里塚跡      小沢一里塚跡

 

  

一里塚説明板   小沢一里塚跡

*美濃街道! *小沢一里塚跡! 

*住所=稲沢市小沢4丁目4

*小沢一里塚は、江戸時代東海道と中山道を結ぶ「脇街道」である「美濃路」には、

  三十六町一里の制度により、一里塚が築かれた。

  塚は五間四方の大きさで、道の両脇に築かれ、主に「榎」が植えられた。 

  江戸時代の絵図によると、この周辺にあったと推定される。  

*(稲沢市教育委員会・説明板より)

 

*追記! 

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!

 

 

   


*村ちゃんの歴史街道!     *稲沢市編!     *美濃街道!     *吉田屋敷!             *吉田屋敷(尾張藩鷹匠頭)!

2017-07-10 | Weblog

    

吉田主水屋敷跡     屋敷跡碑

 

  

尾張藩鷹匠頭碑  吉田屋敷跡碑

 

吉田家墓所・吉祥寺

*美濃街道!(稲沢市編)*吉田屋敷! 

住所=稲沢市高御堂二丁目27-1

*吉田屋敷は、吉田主水正家澄が居住した所である。

  名古屋に尾張藩は開かれてから、鷹匠頭の「吉田主水正家澄」は藩主から、

  この「高御堂」の土地を賜り屋敷を構える。

  高御堂町の小沢清一氏の先祖は代々「吉田家」の世話役であり、

  吉田一族が次々この地を引き揚げられたので屋敷跡地を買ってその一部に、

  「稲荷明神」を祭って現在に至っている。

  又、家澄の墓も「吉祥寺」にあって小沢家が守ってきたが、石碑も今は、

  無縁仏となって寺内の一隅に積まれているともこと。

 

*追加!

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!


*村ちゃんの歴史街道!     *稲沢市編)!     *国府宮はだか祭!

2017-07-09 | Weblog

   

国府宮第二鳥居     参道太鼓橋

 

  

国府宮楼門前    国府宮境内

 

    

難追神事柱       町内裸男

 

  

参道なおい笹   なおい笹奉納

 

   

なおい笹奉納(参道) なおい笹(参道)

 

裸祭り神男(中央)ポスター!

*国府宮はだか祭!*美濃街道(稲沢市編)

*住所=稲沢市国府宮町

*追記!

*村ちゃんの妻の「パステル和」アート作品!