*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *国宝犬山城・天守内部!

2021-01-30 | Weblog

*犬山城!  *天守内部! 

*住所=犬山市大字犬山字北古券65

   

天守梁          天守階段

 

   

付け櫓より大手門       付け櫓説明板

 

   

天守内部        上段の間

 

  

初代城主成瀬正成  12代成瀬正俊

*江戸時代元和3年(1617)尾張藩付家老「成瀬正成」が城主となってから、

 成瀬氏が代々受け継いで幕末を迎えました。

 明治維新に犬山城は廃城となり、天守を除いて櫓や門の大部分は、

 取り壊され公園となりました。

*明治24年(1891)の濃尾震災で天守は大きな被害に見舞われました。

 同28年(1895)、愛知県から修復を条件に旧城主である、

 「成瀬氏」に譲渡されました。

 お城(天守)が平成の時代まで一個人(成瀬氏)の所有でした。

 現在犬山城天守は「犬山城白帝文庫・成瀬氏」の所有となり、

 犬山市が管理を行われています。   犬山市パンフより!

天守より(南)城下・小牧山城・名古屋城方面(尾張国)

 

天守より(北西)岐阜城方面(美濃国)

     

天守より(西)木曽川・伊木山城(美濃国)

*織田信長が「とろろ汁」(山芋)を自ら家来に振る舞った伊木山城跡!

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *国宝犬山城!

2021-01-29 | Weblog

*国宝犬山城!     

*住所=愛知県犬山市大字犬山字北古券65

*国宝犬山城!南西より

 

   

犬山城碑     大手道

 

   

大手道石垣    大手門前石垣

        

   

大手門     犬山城天守

 

*国宝犬山城天守!

*犬山城は織田信長の叔父である「織田信康」が、天文6年(1537)に、

 木之下城を移して築城したと伝えられています。

 そののち江戸時代初期にかけて城主はめまぐるしく入れ替わりました。

*天正12年(1584)小牧・長久手合戦の際には、羽柴(豊臣)秀吉は大軍を率いて、

 この城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。

 

 

*国宝犬山城!*木曽川!

*(北側より・岐阜美濃側より)

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!    *織田信長の居城!小牧山城!

2021-01-22 | Weblog

*織田信長居城!  *小牧山城!     

*住所=小牧市堀ノ内1丁目1

*小牧山城天守!(歴史資料館)!

*永禄六年(1563)織田信長が美濃(岐阜)に進出する大志とともに、

 地の利を得たこの山に目を付け、清州城から移ると共に、山全体を、

 要害にするため、山頂から麓まで五段の塁濠をつくり、山頂に屋敷、

 南側に大手道、北側の搦め手道を作りました。

 

      

主郭登り口 徳川家   天守入口

 

   

天守より濃尾平野  天守裏側石垣!

 

*天守裏側石垣!(信長時代石垣)!

*小牧山の中腹には馬場を作ったり、井戸を掘ったり、また要所に重臣の、

 邸宅を置きました。当時は、北側は池沼で自然の要害であったため、

 工事は省かれましたが、南側は原野であったため大工事であって、

 あちこちに堀を作りましたが、それらは今なお山中に見られます。

 その後信長は美濃に攻め入って、岐阜稲葉城に移り住んだので、

 この山は自然廃城となりました。

 そして小牧・長久手の戦いで再び歴史の舞台に登場してきます。

                   小牧市・説明板より!

*天守東側・発掘調査中!

 

*天守西側転落石&説明板!

 

*天守東側より!  御嶽山遠望!

 

*小牧山城大手道(信長時代)!

 

*徳川源明公墓碑!

*尾張藩中興の祖と言われた「尾張徳川家九代藩主・徳川宗睦源明公」の、

 墓碑である。 元々は、尾張徳川家の菩提寺である、名古屋市東区の、

 建中寺にあったが、昭和二十八年に行われた区画整理のため、

 移転を余儀なくされ、徳川家に縁が深い小牧山のこの場所に、

 移設されたものである。 昭和二十二年十二月  

             小牧市教育委員会! 説明板より! 

*徳川家九代藩主・徳川宗睦(むねちか)源明公墓碑!

 

*旧小牧市役所跡地! 説明板!

 

*旧市役所跡地! 

*現在土塁再現!

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!    *長宗我部盛親陣跡・山頂編(関ケ原合戦)

2021-01-14 | Weblog

*長宗我部盛親陣跡・山頂部(関ケ原合戦)! 

*住所=岐阜県不破郡垂井町栗原

*竹中半兵衛・閑居の地!(頂上)

*栗原連理の木!(頂上)

*九十九坊!(途中)

*清水寺公園!(麓陣跡)入口!

*清水寺公園入口!(長宗我部陣跡・麓陣跡)*説明板あり!

*長宗我部陣跡入口!(頂上陣跡)

*竹中半兵衛閑居地入口!(頂上)

*栗原連理のサカキ入口!(頂上)

*九十九坊入口!(頂上途中)

 

*長宗我部陣跡!(左・頂上部)・ (右・清水寺公園・麓陣跡)

 

*長宗我部陣跡!案内板!(頂上部)

*栗原九十九坊!(途中)

*栗原連理の榊!(頂上)

 

*栗原九十九坊!

 

*長宗我部盛親陣跡!(頂上部)

 

長宗我部陣跡!(頂上部)

*四国の覇者として名高い「長宗我部元親」は、関ケ原の戦い前年に没し、

 子・盛親が土佐一国(高知県)を継いでいた。

 当初は東軍に与しようとしたが、近江国水口(滋賀県甲賀市)で、

 東下の進路を阻まれ、やむなく西軍に属する。

 その後は西軍主力にの一翼を担い、伊勢方面の攻略で活躍した。

 決戦当日は毛利秀元ら諸隊とともに南宮山に布陣したが、

 東軍への内通した吉川広家に阻まれ参戦できず、西軍の敗色を見て、

 戦わずして帰国した。戦後、領地は没収され、浪人として京都に潜伏する。

 その後大坂の陣では、豊臣方として活躍したが、敗北後に捕らえられ、

 斬首された。  *説明板より!

 

*栗原連理の榊!

 

*このサカキは、推定樹齢四百年の古木で、幹が根元で二つに分かれおり、

 一方の幹から出た枝が他方の幹にゆ着して、連理の状態なっている部分が、

 数多く見られる。このことから、古来「縁結びの榊」と、

 言い伝えられている。垂井町教育委員会! 説明板より!

 

*竹中半兵衛! 閑居地・祠!

 

*竹中半兵衛!  *説明板!

  栗原山

  竹中半兵衛

  重治公閑居地

*推定記念樹  *説明版より!

*竹中半兵衛が斎藤家を去り、浅井長政の世話になった後に、

 戻って、ここに隠棲した地と言われています。

 連理のサカキは樹齢四百年なので大体合いますが、

 半兵衛を家臣にする為に、信長の命で秀吉が誘いに行きます。

 三度目にして信長ではなく「秀吉」ならと了承します。

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *長宗我部盛親陣跡(関ケ原合戦)!

2021-01-12 | Weblog

*長宗我部盛親陣跡 

*住所=岐阜県不破郡垂井町栗原

   

長宗我部陣跡(麓) 説明板

 

   

おかげ様地蔵祠 淡墨桜記念樹碑

 

*長宗我部盛親陣跡(麓陣跡)!

*長宗我部盛親は土佐二十二万の領主!

  盛親は関ケ原の合戦に西軍に属し、ここ栗原山麓に六千人の兵と、

  ともに陣を敷きましたが、吉川広家の内通により傍観軍となり、

  西軍の敗色を見て戦わずして帰国の途につきました。

  途中、牧田川の金屋にて、松ノ木城主「徳永寿昌」の軍六百人、

  今尾城主「市橋長勝」の軍三百人の東軍勢との間に戦いがありました。

  帰国後は、領地を没収され浪人となり、大坂夏の陣では、

  豊臣方で活躍したが,捕らえられて、斬首されました。

*垂井町教育委員会! 

*説明板より!


村ちゃんの歴史ぶらり旅!      *長束正家(関ケ原合戦)陣跡

2021-01-11 | Weblog

*長束正家(関ケ原合戦)陣跡! 

*住所=岐阜県不破郡垂井町栗原79

 

   

長束正家陣跡全景 正家陣跡祠

 

   

陣跡より濃尾平野 濃尾平野

 

*長束正家陣跡!

 

*陣跡説明板!

*長束正家は、石田三成らとともに五奉の一員として、

 豊臣政権下で活躍した。行政手腕に優れ、特に算術に秀でていたという。

 関ケ原の戦い当時は、近江国水口(滋賀県甲賀市)で12万石を領した。

 関ケ原の戦いでは西軍に属し、三成らと毛利輝元を西軍に引き込む等の

 活躍を見せる。決戦当日は南宮山のふもとに布陣し、

 東軍の池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、東軍への内通した吉川広家の、

 妨害により攻撃に出られなかった。

 敗戦後は水口城へ帰城したが、城を攻めた池田輝政の弟・長吉に欺かれ、

 切腹させられた。 

*説明板より!