*「光明寺」旧鎌倉街道沿い(あま市)!
*住所=あま市中萱津道場114
*光明寺碑!
*光明寺山門&鐘楼!
*光明寺本堂!
*光明寺境内より山門&鐘楼!
*光明寺は寺伝によると創建は弘安五年(1282)に、
一遍上人の直弟子「遊行二世他阿真教」を開祖とする。
その後72僧寮が立ち並び萱津道場として栄えた。
鐘楼門は寺記によれば、京保八年(1723)萱津屋武兵衛の寄付で建立された。
*豊臣秀吉が8歳~10歳までここ光明寺に預けられたと言う。
*「光明寺」旧鎌倉街道沿い(あま市)!
*住所=あま市中萱津道場114
*光明寺碑!
*光明寺山門&鐘楼!
*光明寺本堂!
*光明寺境内より山門&鐘楼!
*光明寺は寺伝によると創建は弘安五年(1282)に、
一遍上人の直弟子「遊行二世他阿真教」を開祖とする。
その後72僧寮が立ち並び萱津道場として栄えた。
鐘楼門は寺記によれば、京保八年(1723)萱津屋武兵衛の寄付で建立された。
*豊臣秀吉が8歳~10歳までここ光明寺に預けられたと言う。
*あま市の鎌倉街道&寺院!
*住所=愛知県あま市上萱津車屋1
*旧鎌倉街道!(あま市)
*旧鎌倉街道!(あま市)
*正法寺碑!(旧鎌倉街道沿い)
*正法寺山門前!
*正法寺は、天平勝宝年中(749)萱津神社の正僧といわれている。
その後、元和元年(1615)峰慶呑和尚が中興となり、曹洞宗に改めたとされる。
萱津の宿を北進した鎌倉街道は、萱津神社南にある「正法寺」を東に折れ堤防に進むとされる。
境内 本堂
*妙勝寺前!(旧鎌倉街道)
*妙勝寺碑!
*妙勝寺山門!
境内 境内
*妙勝寺!
*妙勝寺!
*初めは真言宗の密勝寺という寺であったが、弘長元年(1261)に、
日蓮との問答の末、日蓮宗に改宗し、寺号を「妙勝寺」に改称した。
応永7年(1400)、坂東総本山となり隆盛するが、
天文年間(1532~)に兵火により七堂伽藍を焼失した。
その後、織田氏・福島氏・徳川氏の庇護をうけた。
明治24年(1891)の濃尾地震で被害を被るも復興して現在に至る。
山門は鎌倉から室町時代のもので、庫裡は「福島正則」が寄進したものと伝わる。
(あま市観光ナビ)より!
*萱津神社!(香物祖神)
*住所=あま市上萱津車屋19
*萱津神社鳥居前!
萱津神社前 萱津本殿
香の物境内・碑 香の物境内
*香の物殿!
*萱津会館!
*古墳時代、大和政権成立期のころ、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、
東征の帰途、萱津に立ち寄り、里人の供した食膳の「塩つけもの」を喜んで食べたと言う伝承がある。
この「塩つけもの」は、海水から手作りの塩と野菜を神前の瓶に入れたものが、
相和し風味豊かになったもので、漬物の起源と言われている。
そのため「萱津神社」は「漬物祖神」として全国の人々から尊崇されている。
*毎年8月21日に催される「香の物祭」は、全国唯一の漬物の神様の祭と言うことで、
あま市無形文化財に指定されている祭礼である。
萱津は古墳時代のころまでは海岸端であり、鎌倉・室町時代のころまでは尾張の代表的な、
宿場町であったと考えられる。その名残りとして、神社の前を通る「旧鎌倉街道」沿いには、
今でも多くの寺院が残っている。
*萱津の合戦! *織田信長X坂井大膳!
*住所=あま市上萱津八剱50(付近)上萱津区自主防災倉庫・西側碑!
*萱津古戦場跡・碑!
*萱津古戦場跡・碑!
*萱津古戦場跡・碑!
清洲城からは、坂井大膳に次ぐ実力者の「坂井甚介」が出陣。
両軍は午前8時頃、萱津ヶ原(現、あま市)で激突した。
数刻に及ぶ激闘の末,清洲勢は主だった者50人が討ち取られ、
さらに主将の「坂井甚介」が柴田勝家と中条家忠に討たれると、
一気に崩れた。萱津の敗報は直ぐに深田城、松葉城にも伝わり、
両城の清洲勢が戦場に駆けつけてくるが、信長軍はこれも撃退。
結局、敵勢はすべて清洲城に逃げ帰り、深田、松葉の二城は、
信長の手に戻った。信長はさらに清洲城に迫り、城下を焼いて裸城にする。
この萱津の戦いの勝利は、信長が侮れない武将であることを、
守護代だけではなく、国中に印象づけたことになった。
*追記!(*萱津ヶ原は現在碑より南西700米周辺と言われている。)
*萱津古戦場・碑文面!
いましえの
萱津ヶ原に
名をとどむ
もののふどもの
夢のまた夢
*(萱津古戦場碑より)