*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *「光明寺」旧鎌倉街道沿い!(あま市)

2021-03-11 | Weblog

*「光明寺」旧鎌倉街道沿い(あま市)!

*住所=あま市中萱津道場114

*光明寺碑!

 

*光明寺山門&鐘楼!

 

*光明寺本堂!

 

*光明寺境内より山門&鐘楼!

*光明寺は寺伝によると創建は弘安五年(1282)に、

一遍上人の直弟子「遊行二世他阿真教」を開祖とする。

その後72僧寮が立ち並び萱津道場として栄えた。

鐘楼門は寺記によれば、京保八年(1723)萱津屋武兵衛の寄付で建立された。

*豊臣秀吉が8歳~10歳までここ光明寺に預けられたと言う。

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *実成寺(織田信長曾祖父改修・織田敏定肖像画)

2021-03-08 | Weblog

*実成寺!(織田信長曾祖父・織田敏定肖像画) 

 住所=あま市中萱津南宿254

*実成寺山門前!

 

*実成寺山門!

 

*実成寺参道    

 

*境内

*実成寺本堂!

*実成寺は元応元年(1319)創建されている弘安六年(1283)9月26日付け寺領の

寄進の古地図〈富田庄古図)に明記されており元応元年(1319)より古くなると言われる。

本堂は織田敏定(織田信長曾祖父)が改修したと伝わる。

*また山門(四脚門瓦葺)は「福島正則」が「清洲城より移築」寄進と伝わる。


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *鎌倉街道&寺院(愛知県あま市)!

2021-03-06 | Weblog

*あま市の鎌倉街道&寺院!    

*住所=愛知県あま市上萱津車屋1

*旧鎌倉街道!(あま市)

 

*旧鎌倉街道!(あま市)

 

*正法寺碑!(旧鎌倉街道沿い)

 

*正法寺山門前!

*正法寺は、天平勝宝年中(749)萱津神社の正僧といわれている。

その後、元和元年(1615)峰慶呑和尚が中興となり、曹洞宗に改めたとされる。

萱津の宿を北進した鎌倉街道は、萱津神社南にある「正法寺」を東に折れ堤防に進むとされる。

  

境内         本堂

 

*妙勝寺前!(旧鎌倉街道)

 

*妙勝寺碑!

 

*妙勝寺山門!

 

  

境内         境内

 

*妙勝寺!

 

*妙勝寺!

初めは真言宗の密勝寺という寺であったが、弘長元年(1261)に、

日蓮との問答の末、日蓮宗に改宗し、寺号を「妙勝寺」に改称した。

応永7年(1400)、坂東総本山となり隆盛するが、

天文年間(1532~)に兵火により七堂伽藍を焼失した。

その後、織田氏・福島氏・徳川氏の庇護をうけた。

明治24年(1891)の濃尾地震で被害を被るも復興して現在に至る。

山門は鎌倉から室町時代のもので、庫裡は「福島正則」が寄進したものと伝わる。

(あま市観光ナビ)より!

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *萱津神社(漬物祖神)!

2021-03-04 | Weblog

*萱津神社!(香物祖神)    

*住所=あま市上萱津車屋19

*萱津神社鳥居前!

 

  

萱津神社前     萱津本殿

 

  

香の物境内・碑   香の物境内

 

*香の物殿!

 

*萱津会館!

*古墳時代、大和政権成立期のころ、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、

東征の帰途、萱津に立ち寄り、里人の供した食膳の「塩つけもの」を喜んで食べたと言う伝承がある。

この「塩つけもの」は、海水から手作りの塩と野菜を神前の瓶に入れたものが、

相和し風味豊かになったもので、漬物の起源と言われている。

そのため「萱津神社」は「漬物祖神」として全国の人々から尊崇されている。

*毎年8月21日に催される「香の物祭」は、全国唯一の漬物の神様の祭と言うことで、

あま市無形文化財に指定されている祭礼である。

萱津は古墳時代のころまでは海岸端であり、鎌倉・室町時代のころまでは尾張の代表的な、

宿場町であったと考えられる。その名残りとして、神社の前を通る「旧鎌倉街道」沿いには、

今でも多くの寺院が残っている。

 

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *織田信長・萱津の合戦!

2021-03-02 | Weblog

 *萱津の合戦!   *織田信長X坂井大膳!  

*住所=あま市上萱津八剱50(付近)上萱津区自主防災倉庫・西側碑!

*萱津古戦場跡・碑!

 

*萱津古戦場跡・碑!

 

*萱津古戦場跡・碑!

清洲城からは、坂井大膳に次ぐ実力者の「坂井甚介」が出陣。

両軍は午前8時頃、萱津ヶ原(現、あま市)で激突した。

数刻に及ぶ激闘の末,清洲勢は主だった者50人が討ち取られ、

さらに主将の「坂井甚介」が柴田勝家と中条家忠に討たれると、

一気に崩れた。萱津の敗報は直ぐに深田城、松葉城にも伝わり、

両城の清洲勢が戦場に駆けつけてくるが、信長軍はこれも撃退。

結局、敵勢はすべて清洲城に逃げ帰り、深田、松葉の二城は、

信長の手に戻った。信長はさらに清洲城に迫り、城下を焼いて裸城にする。

この萱津の戦いの勝利は、信長が侮れない武将であることを、

守護代だけではなく、国中に印象づけたことになった。

*追記!(*萱津ヶ原は現在碑より南西700米周辺と言われている。)

 

萱津古戦場・碑文面!

 いましえの

  萱津ヶ原に

 名をとどむ

  もののふどもの

 夢のまた夢

*(萱津古戦場碑より)