『たいへんよく生きました ぬか風呂サロン闘病記』

2月5日発売 論創社刊 (1800円+税)
※装丁&表紙デザインは、版画仲間のアーティスト池田忠利さんにお願いしました。
故パートナーの闘病記を書こうと決めて、2007年08年から準備、
09年に書き始め、10年夏にあがった枚数が970枚。
関係者や友人の編集者に読んでいただき、感想やアドバイスを整理・反映させました。
文字量を減らしながら3年越で出版社を探すも、なかなかむずかしく、
nonaka-san の紹介で、論創社で出していただけることになり、
担当の matsunaga-san をプッシュしながら、枚数を530枚ほどに減らしました。
この度、ようやく出版のはこびとなり、関係者各位に深く感謝申し上げます。
削除したエピソードや1990年代ロシアの写真など、おいおい掲載していきます。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
序章 ハッピー・ゴー・ラッキー
また、今日も泣いてしまった。泣くきっかけはどこにでもある。しかも突然やってくる。車窓から見えた空が真っ青だったから。ほどよく冷えた生ビールが美味しくても。Mが書いたメモを見ても、民間療法の記事を読んでも、薬の名前を耳にしても、テレビでの蟹座の運勢が流れても、胸が詰まる。愛用していたうがい薬を見ても、鰻の蒲焼の匂いを嗅いでも。自宅のトイレで、地下鉄や新幹線のなかで。夢を見て、泣いて目が覚めることもある。
悲しいのか、可哀相なのか、なにかの刺激で涙が溢れ出す。視界がぼやけ、後頭部がジンジンしびれる。いったい、いつまでこんなふうに泣くのだろう。
Mが亡くなって13年が経つ。1997年8月に右頬の内側、上咽頭に腫瘍が見つかった。9月8日の摘出手術を皮切りに、続く3年半のあいだにMは大きな手術を4回受け、最後の8ヶ月余りを壮絶な闘病ですごし、2001年4月16日、53歳9ヶ月で逝ってしまった。
私は50歳だった。亡くなる5日前に入籍したので未亡人になる。25年間一緒にいたが子どもをもつことはできなかった。Mと出会ってからずっと、いつも慌ただしかった気がする。癌を発症してからは闘病に追われ、経済的な不安に苛まれた。亡くなってからも事後処理に忙殺された。
M(正垣親一・1947年7月20日生まれ)は、1960年代末からソ連・東欧の反体制派運動を支援し、東京外国語大学ロシア科を卒業後、家業だった乳酸菌飲料事業の延長でクロレラを扱う食品会社を手伝い、そこが倒産したのち、濃縮乳酸菌飲料やパンやクロレラ麺の製造販売会社を経営するかたわら、反体制派支援や現代ソ連をテーマに講演や評論活動をしていた。1993年からはモスクワの学校や麻薬厚生施設、無料食堂を援助する活動も始めた。雑誌に連載や取材記事を書き、テレビ取材のコーディネート、ときどきコメンテーターとして文化放送や民放テレビ局に出演した。
「Mさん、短くても、人の何倍も充実した人生だったでしょう。全力疾走だったよね」と友人知人の多くは言う。
「人は生きたように死んでいくって……。でも、親ちゃんには酷な言い方かもしれないわね」とは、辛い時期を看病してくださったトウ子さん(※M母方の叔母でMの2歳上)。
「親一が20歳になったときに実印を作ってあげたの。そのときの判子屋さんに、この人は50歳までだね……って言われたのよ」とは、微笑しながらのM母。
「人は病気で死ぬんじゃありません、寿命で死ぬんですよ」とおっしゃったのは糠風呂の顧客・堀越さん。これが一番慰めになったかもしれない。
そう、誰も自分の死ぬときを選べない。それだけじゃない。子どもは生まれてくるときに親も選べなければ、場所も時代も選べない。皮膚や髪や瞳の色も、容姿も性的志向も運動能力も、何ひとつ選べないのだ。そして生まれてきたからには、唯一無二の個体として、与えられた身体でやっていくしかない。
私は、Mが40代で病を得て死んでいったのは、M家族のなかで与えられた役割に起因するストレスのせいだと確信している。もちろん、見栄っ張りでイイカッコシイというM自身の性格や行動様式もある(※この性癖や傾向も、自分で選んでいない)。Mは、家族の期待に応えようと、最後までいい息子で通そうとしていた。
「親が一番なんて、残酷な名前よね……。親を補完し、親と一体の人生じゃない」と言うと、Mは力なく笑った。
私がMの親子関係をあれこれ分析してみせると、Mは困ったり面白がったりしながら、
「じゃあ、いつか僕のこと書いてよ」と言った。
Mは新聞や雑誌によく文章を書いたし、ロシア情報のファクス通信を送り、熱っぽく講演をし、メディア相手に企画を通すのは天才的にうまかった。しかし、単独取材や署名記事の執筆はともかく、複数で動いた企画の原稿書きや、番組用にインタビューをまとめたりする作業は嫌いだった。
たぶん、自分のことは書かない。
「でも私が書いたら、きっと悪口だらけになるな……」と言うと、笑っていた。
私は、Mの闘病中から、Mの発症で頓挫したロシアでの活動報告と、その特異な闘病の記録を書くぞと宣言し、タイトルも『ラッキーはハッピーか』に決めていた。
英語に happy-go-lucky という単語がある。「お気楽な(人のほうが物事うまく運ぶ)」といった意味合いだ。行動様式や生活態度を指す形容詞・副詞で、特段軽蔑的なニュアンスはない。「笑う門には福来(きた)る」にも似ている。でも、『イソップ物語』では、夏のあいだハッピーに歌っていたキリギリスには、寒い冬の到来で不幸な結末が訪れる。
では逆に、lucky-go-happy なのだろうか。つまり、恵まれている人は最後まで幸せでいけるのか。いやいや、そう単純でもない。美人に生まれても異性に敬遠されたり、逆に嫌いな相手につきまとわれたり、大金が転がり込んで身を持ち崩したり、出世して欝病になったり。かならずしもラッキーがハッピーな展開をもたらすとはかぎらない。これは深遠な問いかけである。と同時に、ほとんどの人が体験的に知っていることだ。
lucky や unlucky がどんな規模でどのタイミングでくるかは予測できない。lucky でもunhappy になるし、 unlucky でも happy でいることもできる。
Mは、いつも陽気だったが、本当にハッピーだったのだろうか。
本書をまとめたのは、ほかでもない私のためだ。Mとの25年間、とくにその終盤は、M家の矛盾とMの欺瞞が爆裂し、すさまじい数年だった。私はその渦中にいながら、いったいこれにどう決着がつくのだろう、いつかは終わるのだろうか……と途方に暮れていた。難破船から逃げ遅れた私は激流に翻弄され、日々の重労働に疲労困憊しながらも、事態を観察し、自分が置かれている立場を考えずにはいられなかった。
本書は、世の中の大半を占める幸せな人たちにとっては陰鬱な物語かもしれない。しかし、かならずしもラッキーばかりではなかった人たちには、共感をもってもらえると思う。それに、本書をまとめないことには、M関連の書類や写真を処分できない。私は先へ進めない。