言葉、について何度か書いています。
いつの頃から「言葉」を意識し始めたのかな・・?と考えてみると中学時代の二つの本が思い浮かびます。
一つは、高橋和己の邪宗門。
その中の 「幼くして親無しを孤といい、老いて子無しを独という」という一説です。
孤独とはどちらもいないことなのか・・・と考え込んだ記憶があります。
そういえば「孤児」は幼くして親無し、「独居老人」はそのまま老いて子無しだな・・っと。
同時に、今現在両親がいる自分は「孤独」ではないのだ・・・・・「孤独」という感傷的な言葉遣いは良くないのだな、とも思いました。
もう一つは、三好達治の測量船の詩の一節。
「あわれ花びらながれ
おみなごに花びらながれ
おみなごしめやかに語らいあゆみ
うららかの跫音 空にながれ
おりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるおい
廂々に 風鐸のすがたしずかなれば
ひとりなる わが身の影をあゆまする甃のうえ 」
この唐招提寺をうたった詩は、言葉の美しさに、ただ唖然とする他なかった。
以後、自分に文章力が無いことは嫌と言うほど思い知らされていたし、一方、他の文章の良し悪しを見る目は養われてきたと思う。
こういうと、言葉を細かく詮索するかのように思われがちだけれど、それはありません。
僕ら・・・普通の人がどんな言葉遣いをしようが、言葉は常に変化するものですから、耳障りが悪くてもそれは仕方がないことです。
ただ・・・言葉のプロ、例えば文章書き、マスコミ等の場合はちょっと腹が立ちます(笑)
例えば、堺屋太一が連載中の一説。
赤線の部分、意味がわかりません。もしかして関西弁????
でもこの歌、美しい歌詞が美しいメロディに乗って、一度覚えたら病み付きになってしまいます。
是非、そのCD聴いてみたいですね。
探してみます。