Log @daily life

記録。
ふつうのいちにちの中で、神様といっしょにすごすせいかつの中で、
感じたこと、思ったこと。

こま付き自転車

2009-01-23 16:18:31 | Weblog
認めてもらう-自分を価値あるものだと思ってもらうこと-
それを動機として動いてきたことが 今までにどれほどあるか
はかり知れない
それが自分の中でいかに重要なことであったかと思うと
がくぜんとする

そこから自由になる方法があるのだろうか
でもそれは 発想を間違えている気がする

こま付きの自転車で こまが要らなくなる瞬間があるように
僕もどこかでそれがなくてもやっていく術を 身に着けるというか
バランス感覚は 頭の中で求めて手に入るものではない
それは自転車をこいでみて 初めて身に着けるもの

であるなら 人から認めてもらうというこまが無くてもいいような
生き方をすればそれでも歩いていけるはず
前輪と後輪だけで走っていくようなことができるはず

2009/01/07

2009-01-07 12:10:32 | Weblog
自分の中で 色々な思いが
玉突きのように 走っては跳ね返ってくる

そのことには もう結論を出していたはずだというものまで
いまさらのように かえってきて
同じ自分なのに いろんな声が聞こえてくる
このまま反響が続けば ハウリングを起こさないだろうかなんて

自分はもっと単純にできていたはずだと思っていたのに
いったい自分がどうなりたいのか分からない
このまま自分がどうなるのかも分からない

何かに突き動かされるって
この球のうちのひとつに
心が引きずられていくことなのかなって 考えたりもして

忙しく働けば
その目先のことで少しは軌道もそれるのかもしれないけれど
それよりかは
今はそんな自分の声たちに耳を澄ますことができますように

言い訳

2009-01-05 10:16:33 | Weblog
暮れから、悶々としていた。

年が明けたからといって解消するわけではなく、それはちくちくと刺してきて、
まるで”悶々としたもの”に取れ巻かれているような感じだった。

それは多分、自分は中途半端だ、と思っているからだと思う。
自分ではこうしたい、と思っていることが、中々思うようにいかない。
そのことのためにしゃにむに力を注げばもっと早く事態は進んでいる、
ということもあるのだろうが、
そういうスタンスで取り組むということには及び腰なのだ。
というかそうしてしまうと、かえって自分が自分でなくなってしまうような気がする。
それは言い訳かもしれないけど。

わき目もふらず「何もかも犠牲にして」するほどの理由は、実は無いのだ、多分。
それはただ「かなうならしたいなー」ぐらいにしか思っていない、
ということになるのだろう。
それぐらいの思い入れしかないのなら、悶々とすることもないだろうに、とも思うのだが
そこは自分の身勝手さというか、あれもほしいこれもほしい、ということなのか。

ただ、こうも思う。
自分の今の「悶々」はつまるところ、目に見える環境や自分自身が自分の思い通りには
なっていないことに対する不満だ。
そして突き詰めると、目に見えるもののうちで、何を持っているかそうでないかということである。

だが、目に見えるもので、大切なものはどれだけあるのだろうか?

目に見えるもので、決定的に重要と言えるものがそうあるのだろうか。
その重要と言えるものについては本当に今持っていないと言えるか。
反対に、見えないが僕にとっては大切で、
実は自分が今の自分であることで持っていると言えるものの方がよっぽど多いのではないか?

ええ、これは自分の気持ちに対する言い訳だと思いますが。