人は、まあとかく価値を決めたがるものだと思う。
そして、自分も、とても簡単にその価値にのっかってしまうものだと思う。
何かを見たとき、これって他の人から見たら何点なんだろう、という風に。
問題は、自分にとってかなり大切な、人生に意味のある決断をする必要があることに関してまで、
それが影響することだ。
そして、果たしてそれが本当にそれだけの価値や意味を持っているか?というと、
つきつめていくと本当はそんなこと全然ない、ということもありえるのである。
でも、自分の人生に関わる一大事なことを決めようとしているときというのは、
きっと微妙なバランスで自分の判断がふれたりぶれたりしていて、なかなか冷静に
物事を決める、というのは難しいのではないだろうか。
そうすると、本当は意味や価値が?な評価であったとしても、
1つの判断基準として無意識の内にそれにすがってしまうということがありえるのだと思う。
そんなことを考えたきっかけは、今日読んでいた聖書の箇所からだった。
「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。」
アサリオンというのはとても小さい単位のお金のことだったと思うけれど、どう考えても
生き物の値段がまとめ買いできるような形で定められるのか?と思うわけである。
そのお金にどれだけの価値があるのか分からないけれど、
なんとなくおかずやご飯を買うくらいの勢いのイメージがしたのだった。
すずめの価値観は人それぞれだと思うけれど、少なくとも僕としてはそんな簡単そうに
まとめ売りなんてされると、そうかなあ?と思うのである。
(だってすずめってよく見たらかわいいじゃないですか。←これも僕の価値観ですが)
そんなことを考えていると、価値っていうのはあてにならず、
人というのはまあ無責任に価値を作り出すものだ、と思ったのだった。
ちなみに、この聖書のフレーズの全文は、こうだ。
「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。
だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
また、その後に、こんな言葉も続いている。
「烏のことを考えてみなさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。
だが、神は烏を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。 」
そして、自分も、とても簡単にその価値にのっかってしまうものだと思う。
何かを見たとき、これって他の人から見たら何点なんだろう、という風に。
問題は、自分にとってかなり大切な、人生に意味のある決断をする必要があることに関してまで、
それが影響することだ。
そして、果たしてそれが本当にそれだけの価値や意味を持っているか?というと、
つきつめていくと本当はそんなこと全然ない、ということもありえるのである。
でも、自分の人生に関わる一大事なことを決めようとしているときというのは、
きっと微妙なバランスで自分の判断がふれたりぶれたりしていて、なかなか冷静に
物事を決める、というのは難しいのではないだろうか。
そうすると、本当は意味や価値が?な評価であったとしても、
1つの判断基準として無意識の内にそれにすがってしまうということがありえるのだと思う。
そんなことを考えたきっかけは、今日読んでいた聖書の箇所からだった。
「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。」
アサリオンというのはとても小さい単位のお金のことだったと思うけれど、どう考えても
生き物の値段がまとめ買いできるような形で定められるのか?と思うわけである。
そのお金にどれだけの価値があるのか分からないけれど、
なんとなくおかずやご飯を買うくらいの勢いのイメージがしたのだった。
すずめの価値観は人それぞれだと思うけれど、少なくとも僕としてはそんな簡単そうに
まとめ売りなんてされると、そうかなあ?と思うのである。
(だってすずめってよく見たらかわいいじゃないですか。←これも僕の価値観ですが)
そんなことを考えていると、価値っていうのはあてにならず、
人というのはまあ無責任に価値を作り出すものだ、と思ったのだった。
ちなみに、この聖書のフレーズの全文は、こうだ。
「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。
だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
また、その後に、こんな言葉も続いている。
「烏のことを考えてみなさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。
だが、神は烏を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。 」