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ジェームス・ディーン / 彼ほどに孤独でさみしい人間を他に知らないと或る人の言う

2016年06月26日 12時32分20秒 | エッセイ

 

                         

 

たまたま見たジェームズ・ディーン没後50年を記念して製作されたTV映画、2001年の「James Dean」。その最初に出てきたエビグラフに、先ずは気持をひかれた。いかにも、という印象の意味ありげな引用、というのは手法として当然な、ということになるだろうけれども、それがむかし一時期詩作品を愛読したことのある詩人アレン・ギンズバーグ(1926-1997)の詩句であることを知って、ちょっと感慨のようなものもあった。ただ、この「Song」という詩は、記憶にない。ゲイでもあったギンズバーグではあるけれども、その71行の詩の中の最後の部分の引用に映画作者のこめた思いに何があるのかも、ちょっと考えてみたくなる。ジェームス・ディーンの生涯イメージが喚起する何かしら、重なり合う回帰願望を見るからだろうか。

                                                       yes,yes

                                                   that's what

                                                     I wanted

                                               I always wanted

                                               I always wanted

                                                     to return

                                                   to the body

                                              when I was born

 

                                    "SONG"

                                                     Allen Ginsberg (1954)

 

「生まれたばかりの、その時の自分に戻りたい。いつもいつもそれを願っていた」、というような深い思いを抱いたことはないので感性の違いも思うけれども、この2001年の映画を見る限り、このエビグラフがどういうジミーに重なるのか、自身にはすんなりと入り込んでくるイメージがない。というのも映画の中で明かされるように、ジミーの生まれには父親に関わる難しい部分もあったことになるから、事実を知った後の生まれた時の自身への彼の思いはどうなのだろうかというはかり難さがある。9歳で彼は、母親を子宮癌で亡くしている。それと共に父親を離れインディアナ、フェアモントの叔母夫婦にあずけられる。母親の遺体と共に、列車で一人だけで向かった。父親は、妻の葬儀にも姿を見せていない。フェアモントでの成長。戦後父親は再婚。彼がまだ10代半ばの頃のこと、姿を見せない父親への思いや、そうした家族変化の、その年代の彼の心に与えた影響の大きかったこと、想像に難くない。

そんなフェアモントでの彼の心の揺らぎを受け止め、相談に乗ってくれたのがメソジストの牧師James DeWeerdで、闘牛、カーレース、あるいは演劇などへの関心を目覚めさせたのもまたその人であったということであるけれども、英文のWikipediaには、思いがけない記述がそのあとにつづく。その牧師DeWeerdとジミーとの間には数年に渡る親密な関係、性的関係があったということ.1994年に出版されたPaul Alexsanderの"Boulevard of Broken Dreams: The life,Times,and Legend of James Dean"に書かれ、あるいは2011年には表に出てきたところでは、共演したエリザベス・テーラーに母親の死後2年間ほど牧師に性的なabuseを受けていたと打ち明けたことがある、ということなど、いくらか隔たりのあるような記述が出回ってあれこれとあるようながら、ともかく当時のジミーにそうした体験のあったことは事実なのではないかと思える気になる。

 

                 高校時代はスポーツでも活躍 

            

             

自身にとってジェームス・ディーンといえば「エデンの東」、あるいは「ジャイアンツ」の彼。何度も見る機会のあったその二本の印象が強く、特にプライベートな部分が知識として入り込んでくることもなかったし、彼のセクシュアリティのことなど考えたこともなかったというのが事実。2001年のテレビ映画をたまたま見たことで、亡くなって間もなくの1958年の彼のドキュメンタリーを初めとしていくつかのビデオ、あるいはさまざまな記事等、覗いて見ることになって、改めて亡くなった後も変わらず関心を向けられているものだと思わされたようなわけだけれども、ひとつには彼が24歳という若さで亡くなっていることか。彼が演技イメージとしてモデルと考えたマーロン・ブランド(1924-2004)は、中年、老齢とその変わりゆくさまを見せてきたのに対して、ジミーには24歳の先がない。永遠にその年齢までの若い姿しか見せない。

その若さでの、アカデミー男優賞に2作ノミネートされるという活躍の只中での突如の死。その役柄に見せた彼の個性に特別なもの、抜きんでたものがあったということにもよると思う。その生き方にも?  という24歳までの彼の奔放とも思える、特有な自然体の印象を与える行動性。演技に出ているのではないだろうか。型にとらわれない、自分の思う通りの、感情、感覚につき動かされるがままの動き、表現。それに徹することができたことが彼の若さでもあるし、また能力であったことを思うし、彼の中の先行者としてのマーロン・ブランドイメージの刺激も、その意識を強化する支えになったのではないかと想像する。それと日常の中の自身と役における自身に境界のないような、どちらも同じイメージの中での自然体、それを自分の在り方としているかのようなジミー特有の、他とは異なると感じさせる流儀。

                                   

                              

                                              Marlon Brando (1924-2004)

                                    

  

 2001年のテレビ映画の中、エデンの東の撮影現場に最初にジミーが現われた時のシーン。父親役のレイモンド・マッセイ(1896-1983)に監督のエリア・カザンがひきあわせるのだが、ジミーは他の者から離れ、ひとりの世界に入り込んでいるかのような様子を見せていて、紹介された大先輩マッセイにも「あんたはおれの父親役には、老けすぎている」などと、当のマッセイを唖然とさせるようなことを相手も見もしない斜めに構えた、非礼さむき出しの態度で言う。演出があるとしても、実際にそのようであったのではないかと、ジミー役の演技に思わせる場面なのだが、監督のカザンは、非礼云々を超えて、ナイーヴで屈折した心を持つエデンの東のキャルに重ねて、その様子を見ていたことが、うかがえる。そうしたタイプとして見ていての、キャスティング。見方によっては、ジェームス・ディーンは日常においても個性派の「ジェームス・ディーン」を演じていたのではないか。そのディーンとカメラの前のディーンに、意識下では境がないかのように、ということを思わせる。

 

                                Raymond Massey                             

                          

 

                       

                        

 

没後ほぼ60年の2014年9月30日に書かれた"7 Facts About James Dean"という記事には、父親の問題、彼の悪習、マーロン・ブランド目標、ビリー・ザ・ッドになりたかった等のことが挙げられているのだけれども、5つ目に"He Confused Ronald Reagan"というのがあって、後に第40代アメリカ大統領になる当時はまだ俳優だった、最初のスタートはスポーツアナのドナルドレーガンの名が出てくる。テレビでの共演のあるレーガンも(例えば1954年の"dark,dark hours"で)、ディーンには困惑させられた、と。他の共演者も同様で、その脚本逸脱のジミーの自分流(spontaneityとある)はきらわれていた、ということ。いわば暗黙の裡の協調のようなものが、期待できないタイプ。異分子。そうした雰囲気が解るようなエピソードでもあるけれども、いわば他に迎合しない自分の演技スタイルを自ら選び、通すことにした彼のその感性ゆえにこその、獲得できた位置。そのことが思われる。

実際の撮影においても例えば先のエデンの東の父親役レイモンド・マッセイ。父の助けにとレタスで稼ぎ出した金を受け取ってもらえないキャルの嘆きの場面など、ジミーの過剰とも受け取られる感情の演技にマッセイが戸惑う場面など、テレビ映画のシーンには出てくるけれども、いわばたましいが演技をさせているということにもなるのだろうか。その心、たましいのことを思わせるのがジミー                                                          というような気もする。                                                                       これまた数を合わせるようにして2011年2 月、1931年2月生まれのディーンの生誕80年目に書かれた記事"80 Things You Didn't Know About James Dean"には、エピソード等彼についての諸々のことが書かれているのだけれども、その最後、80番目には、"A friend of Dean's,David Diamond,once said Dean was the "loneliest person I ever knew" ということが挙げられている。最後に置かれたことに、込めるものがあったようにも思われる。

 

                            David Diamond(1915-2005)                   

          

 

 

一般にある程度受け入れられる以前から、ゲイとして知る人ぞ知るという人であったアメリカの著名な作曲家David Diamondなのだけれども、1951年には作曲家の登竜門のようなローマ賞を受賞他、それ以前から受賞歴のあるような有望な作曲家だったのが、ジミーと友人になったという当時ということになる。20代前半のジミーの16歳年上。ということからして、その「友人」という言葉には、精神的にも庇護的な、あるいは"それ以上の関係"のあったことも感じられるが、そのDiamondが、「彼ほどに孤独なさみしい人間を知らない」、と上記のように、ジミーについて語ったという。それからまた、マーロン・ブランドの伝記作家Peter MansoにDiamondが話したところによれば、「ジミーは非常に自己破壊的で、壜を割ってそれで手首を切ろうとしたことさえある。何度も自殺未遂のようなことがあって、マーロンも警戒していたくらいなんだ」、ということなど。そうした事実。心の問題。振幅がありすぎるとさえ思える、ジミーの生きた日々。

先に触れた"80 Things  You Didn't Know About James Dean"の6番目には、このようなことが書かれている。"彼が有名になる以前のこと、住む部屋を確保できない時には自分の車を寝る場所にしていて、ゲイの男とのデートで食費無しで済ませていたことがあった" 。セクシュアリティの表向きについて言えば、1950年代の俳優にゲイはいなかった時代。クラーク・ゲーブル、スペンサー・トレーシー、ゲイリー・クーパー、モンゴメリー・クリフト、ロック・ハドソン、タイロン・パワー、ロバート・テイラー等々、ホモセクシュアルとは無縁の、女性憧れの異性愛者であり、結婚は当然のこと、映画会社はメディアを通じてもイメージづくりをする。じつは同性愛、バイセクシュアルなどということが表に出れば、俳優としてその先はない、ということが自明なほどに縛られた時代。というようなことからも、ジミーのことにしても、そのセクシュアリティ、身近にいた人間たちからのリアルな部分が表に出てきたのはずうっと後の時代。その身近な親しい関係にあった者に、ウィリアム・バストがいる。

 

                       William Bast(1931-2015)

                  

           

 

ジミーが演劇を学ぶためにUCLAに入り、一学期間在学した時に知り合い、同じアパートの部屋で暮らし、亡くなるまで親しい関係にあった彼は後にシナリオ作家として知られるようになるのだけれども、ジミーが亡くなった翌年、"James Dean"というタイトルで早々に伝記を書いている。むろんその中で互いの間のセクシュアルな部分などに触れるわけはないけれども、1994年にPaul Alexanderがジェームズ・ディーンについて書いた著書の中で、バストとの性的な関係についても触れた。それにたいしてバストは事実無根、と著者Alexanderを名誉毀損で訴えるということになった。今回、そのAlexanderの著書のことを知る前に、ウィリアム・バストのwikipediaを見た時に、パートナーとしてPaul Huson(1942-)の名がそこにあることに気づいた。その関係が49年にも及ぶことを他の記事で知り、つまりはゲイであると示されている彼。そして西海岸の街で、そしてニューヨークでも一緒に生活したジミーと、亡くなるまでの5年の間、彼が当時どういう関係にあったか、誰しも気になるところということになるはず。

その後にバストはある条件を示して訴訟をとり下げることになるのだが、2000年以降ホモセクシュアリティに対する人の受容意識も変化して2004年にはマサチューセッツで同性婚が合法化される、というような時代に。その後は歌手、俳優、ニュースキャスター等々のカミングアウトを見るようになって、事情はかつての時代とはすっかり異なる状況と変わり、そうした時代変化を背景に、バストもジミーとの性的な関係を認めるに至った。そのことでは、UCLAの学生の頃からか、同じ部屋に住むバストはゲイであることが知られていた模様で、何故そういう相手と同じ部屋に住むのかと、他の者たちにジミーは不審がられたりもしていたというようなこともあったようである。それはともかく、ジミーにはニューヨークでの、ジェラルデン・ペイジ。ハリウッドに移ってからのピア・アンジェリ、アーシュラ・アンドレスなどの女性関係も知られていることからの、バイセクシュアル面のこともある。どこまでどうなのか。関心がもたれるのも自然といえば自然。また、当然のことでもあるようで

それからまた、1975年、伝記作家ロナルド・マーテイネッティによって書かれた"The James Dean Story"には、1951年、まだ20歳のこれからという俳優だったジミーの援助者となった15歳年上の35歳、ロスアンゼルスの広告会社のエグゼクティヴ、ロジャース・ブラケットとのことが書かれている。身につけるに良いものを買ってやり、素敵なレストランに連れて行き、彼のキャリアに役立つように映画俳優等に紹介してやり、とその関係はと言えばゲイの年長者の、魅力感じる若者に対する愛情含みのもの、ということにもなるだろううか。ジミーはバストと同じ部屋に住んでいたわけで、ある者にはブラケットの愛情をジミーが自分のキャリアの為に利用していると映ったりもしたものらしい。一時期性的な関係があったと思われるのも自然かもしれない。。彼はジミーのニューヨーク行きの手助けをし、ブロードウエーでの最初のステージにも導いてあげている。

 

                       Rogers Brackett

                  

 

ブラケットは、伝記作家のマーティネッティに、「私はジミーを愛し、ジミーも私を愛した。ただの父と息子のような関係だけではなく、もっと二人だけの特別なものも(incestuous)あったね」、と話している。亡くなるまでつづいた関係には、ジミーの父親からは受けられなかった愛情を埋めてくれる何かしらが、年長の相手との結びつきの深さの中にはあったのではないかと思わせる。というその実の父親との間にあった埋めようのない距離というのは、9歳という年齢からの見捨てられたととられなくもない離れての生活、母親の葬儀に来ることもなかった父親へのしこりのような思いと共に、容易にはいかないものになってしまっていたものと思う。2001年のテレビ映画の中においては、むしろ父親の方が頑なに冷淡と思える、ジミーに対する態度。テレビに出演するようになる。電話で番組のことを伝える。見ていないという、返答。それも、関心なさそうな、避ける様子が電話で話す感じで伝わる。「エデンの東」の終了後、監督のエリア・カザンと父親の住む地域を通ったさい、ジミーがちょっとだけ寄らせて欲しいと、監督にお願いする。

そうして寄った、父親の家の玄関前。同行のエリア・カザンを紹介する。父親の後方にはその妻、ジミーの義理の母親。そこでも、実の親子の会話らしきものはない。父親の態度に親しみはないし、どこか訪ねられれたことに迷惑を感じているかのような、距離を置きたい相手に対するかの様子。家の中に迎えられることもなく、僅かな言葉のやりとりだけで、そこを離れることになる。そうした父親が感じさせる不自然さ。むしろ、冷淡さ。何故にそこまで、頑ななまでに突き放すように、実の息子に対するのか。その理由を知る場面が終わり近くになって、やってくる。それが実際のことなのかどうかは、解らない。知る限りの記事の中では見ていない。ともかく、この映画の終わり近いところで、既に俳優としての成功を得ているジミーが夜、父の家のそばでオープンカーの中、彼の現われるのを待つ場面になる。どうしても知らなければならないことがあるという、覚悟をもって待っている。

 

                          

 

現われた父のWintonに胸にあるものを奔出させるジミーの様子は、キャルに重なる。ただならぬやりとりに近隣の住人も出てきたりのことがあって、家の前から場を移してから、「どうして9歳の自分を手放したのか、母の葬儀にどうしてきてくれなかったのか。お父さんは、僕の父親だよ」、とジミー。それに対して、「私は、父親ではない」、と衝撃の過ぎるような言葉が父親の口から洩れてくる。 亡くなる前に妻は告白してくれたのだと。18の頃に知り合った家庭のある男性との間にできた子が、実はジミーであるのだと。父親も事実を知ってくるしみ、それによって9歳のジミーを突き放すことにもなった。以降のジミーの心に刻み込まれていく愛されていないという父親への思い。だがそれを求めずにはいられない心の底の不充足。この映画で示される、「本当の父親ではない」、というのが真実なのかどうかは解らない。ただ、作曲家のDavid Diamondが 「自分の知る限り最もさみしい人間」、と言ったというそのさみしさはどこから、何から生まれたものかということは、思わせる。

父親のWintonは、俳優というような世界に全く関心を示さない人間。ジミーの才能は深く心も通じていた母親から、ということだろう。ただもし、その母親が病死をせずにいたら、俳優ジェームス・ディーンがいたとしても、エデンの東のキャルは演じていなかっただろうし、父親との関係も別なものになっていたのだろう。というような"もし"は、想像だけのことであるけれども、セクシュアリティにしても似たような方向に向かったとはとても思われない。そうした彼の人の心に残る、残像。24歳より先のない、残像。 

 

              

                       

 



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