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今野雄二「きれいな病気」を今読んでみる

2013年02月06日 08時57分10秒 | 文学

                     

                                                                                              

少し前、その名を知っている50台のあるラジオ局の人物が自殺死をしたということを、何かで知って、とても意外に思った。番組を聴いた記憶も定かではなかったが、イメージとして自殺をするような人とは思えなかったということがあったと思う。ネットで画像を探して見てみると、私の好みに入る顔立ち。何が彼を自殺というような行動に向かわせたのか?  そんなことがあって、他にも私が知らないそうした自殺による死を選んでしまった意外とも思えてしまうような、その名を知る人がいるのではないかと、ネットで見てみることになった。眼に入った中のひとりが、今野雄二。初めて、知った。首吊りによる自殺をしたというのが、2010年の8月、66歳だったということ。現在からは、2年半程前のことになる。テレビなどで見ての記憶にあるのは、70年代以降、90年代辺りまでなのではないかと思えるけれども、彼と66歳という年齢のイメージが、どうもうまく重ならない。多分50代以降の彼というのは、見ていないのではないか。その彼と自殺という最後を、どのように結びつけたら良いのか、想像するのもむずかしい。

                                                                                                                                            

そうした事実を知ってから、Wikipediaを見ていて「きれいな病気」という小説集のタイトルを眼にし、そうしたもののあったことを思い出した。この作品集が出たのが1989年の11月。だが、そこに収められている7つの短編作品が書かれたのは、最後のものでその3年以前の1986年の雑誌「野生時代」ということで、1984年から発表の始められたことが「あとがき」から分かる。多分、私は雑誌の方で、チラリ程度に見たものと思う。別の分野にいたと思っていた彼が小説を書いているというので、ついにそういうことも始めることになったかと、その才能の幅のことなども思ったものだけれども、チラリとしか見なかったのは、内容に対してはさして関心を抱かなかったということからだと思う。登場する人物たちも、とくに知りたいと思うような方面の人間たちでもない。設定なども彼の感性流に従っていかにも現代のそれらしきエリアの、といったふうにこちらが勝手に抱いたイメージをもって、関心向かないものと、敬遠してしまっていたようなところがある。

                                                                                                   

小説と言えば、同じ頃、私はゲイの雑誌に幾度か、連載の形で小説を書いたりなどしていた。一回について400字詰50-60枚見当という処で、4回ほどで終了。4作ほどを、そのような形で連載。他にも色々と書いたりなどしてきたものだけれども、もちろん、それは、ゲイの雑誌のこと。対象とする読者が、一般雑誌とは全く異なる。ただ、70年代辺りでは、私も一般風俗雑誌の類に普通の男女絡みの読み物を書いていたということもあるので、今度今野雄二の「きれいな病気」の各短編を通して読んでみながら、書く側の心理面の反映などにも自然と眼が向いたのだけれども、もちろん成り立たせている処の、異なる種という面のことは思いつつ。読者に誘う要素の違い。色濃く性絡みのものを含んでいるけれども、大野のそれらの作品には、それを突き抜けた向こうに、別の讀み方をさせること、あるいはすることを狙っているような意味の重層を意識させる表現に仕立てている、と思わせるものも含まれている。通常の、感覚、感情移入をして入れる世界とは、異なるスタイルを持ち込んでいると、今度読んで感じたりなど。

                                                                                                

メデイァに登場した彼の若い時代から、そのSexualityがGayであるはずというイメージで自身などは見ていたけれども、これらの小説を書いた時には、既に40台に入っていたというわけで、カミングアウトしていたのかどうかは記憶にないながら、周辺などでも衆知の、公然と認めているにひとしい状態にあったものか。例えばのこと、臆することなく男色行為を赤裸にストレートに突き出し見せている思い切りの良さは、なかなか他には見ないものではなかったか、それは現在の日本に於いても変わりないような、と思わせる。ということの背後には、そうしたSexualityによって云々される次元を超えた先に、狙いのkeyとなるものを置いている、という知的な確信、自信があってのこと、などということを思ったりするけれども、進んだ意識、日本人的ではない、アメリカ的な感性の濃い影響。そうしたことも、浮かぶ。選んだ大学がICU(国際基督教大学)である彼のことだし、人とのつながり、文化、風俗多々、作品の何処かに反映されることになる筈の、それら背景のことなども思わせる。

                                                                                               

 というようなことは、今度読んでみてその印象を強くしたような部分であるのだけれども、80年代当時にチラリと覗いた程度だった時には、一作も通しては読んでいない。ほんの部分からの印象しかなかったことで、今度一応通して読んでみて、それなりに見えてきたところがあったということ。タイトルの「きれいな病気」というのが、中の一篇で女の言っている言葉からのものであることが分かるのだが、本の裏表紙に見える英語で書かれたタイトルがSWEET SICKNESS。日本語のタイトルには見えないニュアンスが、そこから伝わってきてこの方が分かりやすく感じられるとは思うのだけれども、SICKNESSなるものをSWEETととれる感覚が受け止める側にあるかどうかが問題。この場合のSICKNESSは、この短編集の殆どに表われる、ある対象に対する憧憬、崇拝。その性的行為としての、普通にはSMなどと言われる形への発展。隷属し、奴隷となることに悦びを覚えるような行為、関係。例えばの処、その種の行為、絡みのあるようなことをSICKNESSと呼び、良い感覚の愉しみとしてSWEETと感じられるか。今野は、多少の気取りをもってそのようなタイトルとして、提示をすることにしたものか。自身の洗練を、そうした形で表現したい?

 

『 厚い胸板の上で、筋肉の盛り上がった太い腕を組み、傲然と真理を見下ろす、このブーツをはいた褐色の仁王像の股間からは、漆黒の大砲が堂々と天を向いて、そびえ立っていた。 』              

                                                           「strange rainbow」

その股間から発せられる小便や精液の交じり合った悪臭のようなものにも、全身まみれたいと願うほどに恍惚とする真理に、振り下ろされるベルト。快楽のうめき声を上げる。

 

『上半身だけ裸になって便座に腰を下ろし、大きく足を開いた男の足元で、もうひとりの男が膝をつき、長い舌をブーツのつま先にはわせながら、自らの男根を盛んにしごきたてていた。』

                                                                 「perfect sex」

形態諸々。但し、通常のセックスとされるようなものは、そこにはないという世界。

 

『その初めての夜、葉子がほんとうの女の涙を流したのは、正行の武骨な掌が自分の裸の尻っぺたに振り下ろされたときだった。熱い掌が自分の肌にまっ赤な跡を残していくときの、えもいわれぬ痛みに、彼女は脳髄までがとろけていくようなよろこびを味わっていた。』

                                                              「burning hand」

正行は、50に近い成熟したたくましい男。葉子は、それが初体験の17歳。父親コンプレックスの強い彼女と、妻帯する正行との間に、通常の性の関係も思いを受け容れられる余地もなく、くるしんだ末に、アイドルタレントの葉子は自殺する。

 

Sexualityに絡むことにおいて、Gayなどの場合のturn on対象というのは、かなりはっきりもし、限られてくるということが、普通には考えられること。自分の好み、求める形。書く場合においても、関心を覚えない、対象、傾向方向などは選ばないだろうから、「きれいな病気」中の7篇を通して見えてくるものから、作者のturn on傾向がかなり読めてしまう、と此方などは思う。入り込んだ自身の生の感覚を添えつつ、ということなくしては描けないもの、こと性的行為に絡むものに関しては、当然そのようにあるものと見る。ということにおいて、壮年のたくましい男、Daddyイメージ、そうした魅力ある男を求めるに、それに心身共に奴隷のように隷属する形で充たされようとする、被虐的にその魅力の餌食になりたい、その形に於いてこそ尽きない悦びが得られる、というマゾ感覚をモデルを通して形を変えて繰り返し示しているあたり、作者の思いの深い処、かなり見えてきているように思う。あとがきにある、「現実よりも、よほど現実的と思える虚構の世界」という言葉に、自身の内にあるリアルなものの投影が作品の中で成されたことがうかがえる。彼が最も魅せられる、至上の男の魅力に対して自身が斯くありたいという、感覚的位置。彼のSWEET  SICKNESSも、そこから考えられそうにも思えてくる。

というようなことは、実の彼を知るわけではない、作品から受ける想像でしかないけれども、読者に別の讀み方をさせることをも目論んでいる、重層的にも描かれた内容、とも思われる部分も併せ持つ、ということにおいて、作者の意図の大きなところはそちら、という見方もできるということ。ということでは、通俗小説のように、見たままの浅いものではないよ、ということも言えるし、巻頭にエビグラフが置かれているというあたりにも、その意図が感じられること。トーマス・マンの言葉として最も愛する者は敗者である。そして苦しまねばならぬ━━━」、と。どの人物、どのような行為にその最も愛する者のモデルが見えてくるものか、読むことを通して見てみたくなる処だけれども、それから数十年後に自ら死を選んだ彼にもそのエビグラフが向けられるとすれば、などとも考えたくなるのは、イメージとして最も愛する側のタイプの人のように彼が映るから、ということもあるように思う。崇める対象を、追う側の人間。そちらのタイプ。ということの内に沈殿し、重みを増す、苦しみ。そのようなことが彼の人生の時間を通して、どのような形で現実にあったものかどうか、それは解らないけれども。