きょうはひさしぶりのところでの仕事。
なんと4か月ぶり。
無事にすんでよかったけど、3時間くらい歩き回って疲れたし、
帰りの車の中でどしゃ降りになってびっくりした。
せんたくものは外に干したままだし、かさも持ってないし。
ガレージにつくころには小降りになってよかった。
ついでにやっぱりひさしぶりにショッピングモールに行ったら、
お店とかも変わっててびっくりした。
あと、もっと驚いたのはイスが減らされてること。
通路にはイスがいっぱいあってどこで休憩できるようになってたのに、
ほとんどのイスがなくなってた。
まあ、密になったり、長居されても困るってことなのかもしれないから、
しょうがないのかな。
あいかわらず、みんなマスクをしているし、消毒も検温も自主的にやってるみたい。
「withコロナ」は現実として避けようがないのだし、
今のところそうするしかないのだから、極端に行き過ぎることは問題だけれど、
そういうものを逆にファシズム扱いしてしまう人は、
もしかしたら「公共」という概念のことを忘れているのかもしれない。
また、アベノマスクで盛り上がってる人がいるみたいだけれど、
日常的にマスクをする人にとっては、あって困るものではないだろうし、
国内生産に切り替えてはいるけど、
いつマスクが足りなくなる事態がくるかもしれないわけで、
ただただ叩けばいいというわけでもないと思うのだけど。
うちもありがたくいただいたアベノマスク。
まさかの時のために、使わずにちゃんと取ってあるし。
なんでも叩けばいいっていうような人は、
「永遠の贖罪」とかいう銅像を見て喜んでるような人なのかもしれないけど。
これ、ほんと「あいちトリエンナーレ」みたいなところで、
いっぺん展示してみればいいのに。
「100分de名著」きのうのはやっと理解できる話になった。
大衆の原型。
日常の生活をくりかえし、職業的生活の範囲でものをかんがえ、
そしてその範囲でものを解決していくというふうに思考するそういう存在。
でも、たぶんそれは国家と対立するものではなくて、
国家があるからこそ、日常の生活を繰り返すことができると言えるはず。
そして、そういうふだん黙々と働いている人が感じる違和感を大事にする、と。
吉本さん自体がそういう人であろうとしたのだし。
啓蒙家と思想家の違い、というのもわかる。
職業革命家や扇動者への批判。
漱石のくだりで感じたのは、
日々の暮らしをせいいっぱい生きている人たちが、
それ以外のことを考えずにすむようにするために政治家はいるのだし、
政治家はそういうことを考えさせてはいけないのかもしれない。
野党やどっかの都知事のような対立や不安をあおるような、
リーダーは必要ないのだと思う。
伊集院さんが「なぜここにいるのか」っていう話をされてたけど、
出国したら入国できない、とぼやいてた人のことを思い出した。
この日本という国にいる、メリットとデメリット。
『外国人にもコロナ支援の手を差し伸べているのは非常に素晴らしいことだ。
韓国でも外国人には支給していなかったし、
アメリカの給付金も留学生の多くが対象外だったらしい。』
と、書いている外国人の方もいるわけで。
自分のような弱い人間にとっては、
国家というのはあくまでも弱い個人を守ってくれる存在であって、
否定するべきものとは思ってはいない。
日常のいろんなところに、見えてなかったり、
気づいてないだけで、実は「裂け目」はどこにでもある。
それは揚げ足でもなければ、批判のための批判でもなく、
日常の中にあるちょっとした不安や違和感。
それらをむやみに広げて不安を煽ったり、他人を貶めるために使うなんて言語道断。
でも、そういった「裂け目」のことなんか、
ふだんは考えなくてよかったり、必要以上におそれなくても生きていけるのが、
いい国、ということなのかなあ。