ブログ“内田樹の研究室”の最新記事「不便さと教育」は実に興味深い。
http://blog.tatsuru.com/2012/03/10_1013.php
「不便さと教育」とはいかにもわかりにくい表題だが、「教育と効率」--教育に効率化はなじまないということを説くために「不便さと教育」という題をつかっている。
教育の「成果」は人によってまちまちで、いつあらわれてくるかもまちまち、だから、教育を効率的にやろうとかすぐに目に見える成果をあげようとかいうのがそもそも間違いで、教育とは実に不便で辛気くさいものだ、そんな意味なのだろうと思う。
特に目からウロコなのは、たとえば、A高校が「東大○○人合格」だったとしても、それは決して、A高校の教育が優れているということを証明するものではないということ。
単に、東大に合格できる学力をもった生徒が○○人あつまっていたということ以外を意味していない。
本当にA高校の教育が優れていることを証明したければ、ランダムに抽出した同レベルの生徒をA校、B校、C校・・・でそれぞれのやり方で学ばせ、それでもA校の東大合格率が突出していればはじめてA高校の教育が優れている(東大合格という受験レベルでだが)ことを証明できることになるだろうという。
これは、競争に駆り立て、懲罰で結果を出させようとする橋下・維新の会の「教育改革」への痛烈な批判である。
定員割れしたことが廃校にされるほどの罪なのか、有名大学合格率が高いことがその高校の教育レベルの高さを意味するものなのか。そのような価値観を突き崩してくれる。
少し長いが、是非一読を勧めたい。
(ハンマー)