母の膵臓癌日記

膵臓癌を宣告された母の毎日を綴る

いままでの経緯 (16)

2009年09月26日 01時20分11秒 | 日記
9月21日(月)
朝の母は今までになく気分の良さそうな笑顔だった。
「浣腸のおかげでね、今日はスッキリしてご飯も食べられたのよ。」
母はちょっと来て、と言い奥の6畳間に私を連れて行く。そこには衣類がいっぱいにつまった透明のゴミ袋があった。
「いらない洋服整理したんだけどね、一度も使っていないTシャツもあるのよ。
ほらこれ。あなたパジャマ代わりに着ない?」
と何枚かの真新しいTシャツをごみ袋から出して見せた。
「いらないわー。うちにもいっぱいあるのよ。」
あらそう、もったいないけどしょうがないわね、と言いながら袋を元通り閉じる。
「写真も整理してないのがいっぱいあるのよ。あれも片付けないと」
みんなが後で困るからね…と独り言のようにつぶやくのを聞こえないふりをして私は
「ウチも玄関の靴箱、あれ壊れてるから粗大ごみに出さなくちゃ。一緒に出すものある?」と話題をそらす。

2階に戻って少しするとインターフォンが鳴る。
「この前頼んだ裏庭の掃除、今日できるかしら?」

母は病気になってから極端に早寝早起きの生活になった。
朝は4時頃起きて体操をし、その後朝食までの長い時間をいろいろなことをして過ごしているらしい。
今朝の衣類の整理もそうだが先日は夏の間にぼうぼうに伸びた裏庭の雑草を引き抜いて積み重ねた。
その時抜いた雑草の山の処理とまだ残っている雑草の引き抜きを、夫と二人でやってほしいと頼まれていたのだ。

私と夫が階下に下りていくと
「だめだめ、長袖長ズボンじゃなくちゃ。虫がいるからね。首もタオルで巻いて。」
夫と私は言われたとおりの姿に着替え軍手長靴、埃を吸い込まないようにマスクも着けて完全装備する。
「Kちゃん(夫)、帽子は?頭、蚊に刺されるんじゃない?」と母は農作業用の古い麦藁帽子を出してくる。
「帽子…?」私は思わず夫の、毛の薄くなった頭頂部を見て吹く。「いらないよ、大丈夫。」
夫も母も笑う。

夫が鍬のような農具と熊手で雑草を掘り起こし、抜かれた雑草を私がゴミ袋に詰めていく。太くて長いものはビニールの紐でまとめる。
母は指示しながら自分もせっせと動く。
「もういいから家に入って休んでたら。」と何度も言うが大丈夫、大丈夫と作業を続ける。
伸びきっていた自家栽培のゴーヤや茄子などもすべて取り払い、裏庭の土の部分がまっさらになって
「ああすっきりした。ありがとう。」と母が言ったときには私は額から汗が吹き出てぽたぽた落ちるほどだった。

これまで私たちは庭の手入れに関して父母に任せたきりで、たまに手伝ってと言われると手を貸す程度だった。
しかし猫の額のような庭でも見苦しくないようにしておくのは大変な重労働なのだと気づく。
雑草抜きだけではない。花木の水遣り、防虫、剪定…いろいろな作業がある。
私達にそれらを引き継がせるために、教える意味で手始めに今日、裏庭の掃除をやらせたのだろう。

母は「準備」を始めている。

しかしこの午後、母は抗がん剤を始めてから初めて食べ物を戻したらしい。
やはり午前中動きすぎたので疲れたのだろう。午後は寝室で休んでいた。

9月22日(火)
この日の早朝、母は前日出た裏庭の雑草ゴミの山をひとりでごみ集積所に出したという。
「明日は燃えるゴミの日だから出してね」と私に言っていたのに、朝は体調がいいので動きたくなってしまうらしい。
「サクラソウを植え替えたのよ。見て。」と言うので二人で裏庭に出ると
プランター7~8個に整然と植えられたサクラソウの苗があった。
「ね、これでまた一冬楽しめるわよ。」

サクラソウは寒さに強い。昨冬は母が種から育てた濃いピンク色のサクラソウが門から玄関までの小道を飾りとても華やかだった。
夏はほとんどがだめになってしまったが、一鉢だけ落ちた種がびっしり芽を出した。
それを7~8個の長いプランターに分けて植えたのだ。
きっと年が明ける頃開花が始まって4~5月くらいまで次から次へと咲くだろう。
(その花は絶対に自分で楽しんでね)と私は内心思う。

午後も母は調子が良さそうだったので、私は久しぶりに長女のY子と一緒に飼い犬のぽろりを連れて近くのドッグ・ランに出かけた。
私が留守にしている間に弟が子ども3人を連れ母の様子を見に来て、1時間くらいで帰ったそうだ。

夕方家に帰り、階下をのぞくと母が天ぷらを揚げている最中だった。
最近食欲が落ちている母は、夕食のメニューを考えるのも嫌になり父に何が食べたいか訊くと天ぷらが食べたいと言う。
自分は揚げ物などは受け付けないが、それでは、と父のために天ぷらを揚げていたのだ。

しかし油の匂いが鼻について全く食欲がなくなってしまい、自分用に作ったおにぎりも食べられなくなった。
自分の部屋に戻ってそのまま寝てしまったが夜中に少しお腹がすいて、残っている冷たい味噌汁をすすったそうだ。

母は自分の病気を知った頃、
「私は食事が美味しく食べられるからいいわ。食べられなくなったらお終いだものね。」と言っていた。
同年代の友達何人もが、ものが食べられなくなってどんどんやせ衰えていくのを見てきているのだ。
「食べられない」ということが母にとって痛み以上の苦しみなのだということを
私は想像もしていなかったが、翌日知ることになる。

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