10月30日(金)
今日は金曜日、毎週診察を受け、抗がん剤を投与しにいっていた日だ。
先週M先生から抗がん剤の中止を告げられ、次は2週間後でも良いですがどうしますかと訊かれ
「来週来ます。先生の顔も見たいから。」と言い次週の予約を入れた母だったが
旅行の後だし、明日には叔母二人が見舞いに来るので体力温存のため今日はキャンセルすることする。
とはいえ小康状態は続いており今日も食事はとれている。固形物が飲み込みにくいのは変らないが
味が多少なりともわかるようになり美味しいと感じられることが母の気持ちを明るくするようだ。
しかし肉や野菜とくに生野菜は食べるのに工夫がいるので今日は野菜ジュースを作ってみた。
りんご、トマト、にんじん、レモンに水を少量加えミキサーにかけ、まず二人で試飲してみる。
繊維もとれるように果肉を除かないままだが、水分が少なくどろどろして飲みにくいので水を足しキャベツも足す。
ところがまた試飲すると母は「青臭くなって味が落ちた」と言い飲めなくなってしまった。
失敗。今度から葉っぱは入れないようにしよう。
薬が一週間分しか出ていなかったので弟が夜届けてくれる。
仕事の後で疲れているだろうに、片道1時間かけて届けに来てくれるのはとてもありがたい。
10月31日(土)
先週の診察でCTの結果を見たM先生から母の余命を「11月内かもしれない」という診断が下った。
これを受けて兄に「親戚に知らせてまだ母が普通に話ができるうちに家に来てもらった方が良い」と促され、
母の妹のJ叔母に私からその旨を連絡した。もちろん私から知らせたことは母に内緒である。
そして今日、都内に住む母の二つ上の姉と埼玉に住む11歳下のJ叔母の二人が見舞いに来ることになった。
J叔母から見舞いに行くという電話をもらったときの母は
「来てもらってもあまりいい話ができないのよ…」と、あまり嬉しそうな反応を示さなかったのだが
さすがに実の姉妹二人が家に着いて顔を見ると笑顔を見せた。
この二人と母は今年の7月お盆に実家の墓参りで会っている。
その頃はたった3ヵ月後にこのような形でまた会うことになるとは誰も想像しなかっただろう。
ある程度年を重ねた兄弟が会ったときの常で、3人はお茶を飲みながら昔話に花を咲かせる。
そして37年前に亡くなった自分たちの母親―私の祖母の話にいきあたる。
その年3月に祖父が心筋梗塞で急逝した後祖母は前の年の夏からときどき痛みを訴えていた腹部に激痛を発するようになる。
それからの病気の進行は早く、全く食べることができなくなり入院して点滴で命を繋ぐものの痛みの激しさが尋常じゃない。
その頃も麻薬などはあったのだろうに、病院で注射する痛み止めは僅かな時間しか効力がなく目覚めているほとんどの時間
祖母は耐え難い痛みにさいなまれていた。
当時専業主婦のJ叔母が中心となって付き添い、フルタイムで働いている長女の叔母と次女の母が休みの日などに行って交代した。
祖母は痛み止めが切れて激痛が来るとJ叔母に看護士のところへ行って痛み止めの注射を頼むように言うのだが
叔母が祖母の言うことを看護士に伝えると「痛み止めはさっき打ったばかりだからできない」と怒られる。
病室に戻って祖母にできないと伝えると「私が直接頼む」と歩けもしない状態なのにベッドから降りようとして暴れる。
そんな毎日が続きJ叔母は心身ともに疲れ果てギリギリの状態だった。
もともと線の細い祖母は日に日に目に見えてやせ衰え目は落ち窪み、骨に皮が張り付いているような状態、
地獄絵などで見る餓鬼そのものだったらしい。
年齢はまだ64歳だったが80をとうに過ぎた老婆にしか見えなかったという。
「今晩がヤマ」と何度も言われるが心臓がとても強かったためになかなか逝くことができず
終末期には痛みのための幻覚なのか
「そこにいるお坊さんをどこかにやって」と病室の誰もいない方向を指差し、看護するものを気味悪がらせた。
苦しみぬいて亡くなった時の顔は恐ろしい形相で、母は自分の母親ながらことあるごとにその死に顔が目に浮かび震えがきたと言う。
祖母の病名は当時の医学でははっきりとはわからなかったが、祖母の死後医師は「恐らく膵臓癌だったと思われる」と家族に話した。
祖父の死のわずか4ヵ月後祖母の葬儀を終え、何日か経ち疲れがどっと来る頃、J叔母は熱を出し腹痛を訴え1週間寝込んだ。急性膵炎だった。
母が膵臓癌と宣告されたとき最初に思い出したのはこの祖母のことだった。
遺伝的なものがあって自分も発病したのかと思ったのだが、医師にそのことを尋ねると
「膵臓癌に関しては遺伝はないとされている」という答えだった。
しかし、祖母の兄弟は全員胃がんで亡くなり
母の兄弟の長男も64歳のときに同じく胃がんで亡くなった。
癌家系なのだということは親族の誰もが思っている。
現在66歳のJ叔母は64歳の1年間は自分も死ぬのではないかと思い毎日が怖かったと話す。
J叔母はいままでに膵炎を何回かやっていて最近もお腹や腰が痛むこともあるというので
母は自分が発見したときには手遅れだったこともあり、J叔母に検査に行くように勧めたが
J叔母は兄弟の誰よりも祖母の苦しむ姿を目に焼き付けているからか、怖くて検査に行けないという。
しかし、母の見舞いに来るからには検査しようと決心して病院に検査の予約をとったそうだ。
膵臓癌は発見するのが困難で、母のように判明したときには転移していて手術もできないケースが多い。
しかし、そうとわかっていてまめに検査を受けていれば早期発見も可能かもしれない。
J叔母は子供ができなくて、代わりに甥や姪をとても可愛がってくれた。
私も小学生の頃は夏休みに半月もお泊りに行ってたくさん遊んでもらった楽しい思い出がある。
そんなJ叔母にはぜひ長生きしてほしいと私も思う。
駅まで送る車中、二人の叔母はSちゃんがいて母は幸せだと話す。
J叔母は子供がいないし、もうひとりの叔母は息子二人なのでお嫁さんに看取って
もらうことは期待していないという。
二人とも将来的には老人ホームに入所するつもりでそれなりの蓄えをしているそうだ。
駅の改札口でお母さんをよろしくね、と言われ別れる。
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今日は金曜日、毎週診察を受け、抗がん剤を投与しにいっていた日だ。
先週M先生から抗がん剤の中止を告げられ、次は2週間後でも良いですがどうしますかと訊かれ
「来週来ます。先生の顔も見たいから。」と言い次週の予約を入れた母だったが
旅行の後だし、明日には叔母二人が見舞いに来るので体力温存のため今日はキャンセルすることする。
とはいえ小康状態は続いており今日も食事はとれている。固形物が飲み込みにくいのは変らないが
味が多少なりともわかるようになり美味しいと感じられることが母の気持ちを明るくするようだ。
しかし肉や野菜とくに生野菜は食べるのに工夫がいるので今日は野菜ジュースを作ってみた。
りんご、トマト、にんじん、レモンに水を少量加えミキサーにかけ、まず二人で試飲してみる。
繊維もとれるように果肉を除かないままだが、水分が少なくどろどろして飲みにくいので水を足しキャベツも足す。
ところがまた試飲すると母は「青臭くなって味が落ちた」と言い飲めなくなってしまった。
失敗。今度から葉っぱは入れないようにしよう。
薬が一週間分しか出ていなかったので弟が夜届けてくれる。
仕事の後で疲れているだろうに、片道1時間かけて届けに来てくれるのはとてもありがたい。
10月31日(土)
先週の診察でCTの結果を見たM先生から母の余命を「11月内かもしれない」という診断が下った。
これを受けて兄に「親戚に知らせてまだ母が普通に話ができるうちに家に来てもらった方が良い」と促され、
母の妹のJ叔母に私からその旨を連絡した。もちろん私から知らせたことは母に内緒である。
そして今日、都内に住む母の二つ上の姉と埼玉に住む11歳下のJ叔母の二人が見舞いに来ることになった。
J叔母から見舞いに行くという電話をもらったときの母は
「来てもらってもあまりいい話ができないのよ…」と、あまり嬉しそうな反応を示さなかったのだが
さすがに実の姉妹二人が家に着いて顔を見ると笑顔を見せた。
この二人と母は今年の7月お盆に実家の墓参りで会っている。
その頃はたった3ヵ月後にこのような形でまた会うことになるとは誰も想像しなかっただろう。
ある程度年を重ねた兄弟が会ったときの常で、3人はお茶を飲みながら昔話に花を咲かせる。
そして37年前に亡くなった自分たちの母親―私の祖母の話にいきあたる。
その年3月に祖父が心筋梗塞で急逝した後祖母は前の年の夏からときどき痛みを訴えていた腹部に激痛を発するようになる。
それからの病気の進行は早く、全く食べることができなくなり入院して点滴で命を繋ぐものの痛みの激しさが尋常じゃない。
その頃も麻薬などはあったのだろうに、病院で注射する痛み止めは僅かな時間しか効力がなく目覚めているほとんどの時間
祖母は耐え難い痛みにさいなまれていた。
当時専業主婦のJ叔母が中心となって付き添い、フルタイムで働いている長女の叔母と次女の母が休みの日などに行って交代した。
祖母は痛み止めが切れて激痛が来るとJ叔母に看護士のところへ行って痛み止めの注射を頼むように言うのだが
叔母が祖母の言うことを看護士に伝えると「痛み止めはさっき打ったばかりだからできない」と怒られる。
病室に戻って祖母にできないと伝えると「私が直接頼む」と歩けもしない状態なのにベッドから降りようとして暴れる。
そんな毎日が続きJ叔母は心身ともに疲れ果てギリギリの状態だった。
もともと線の細い祖母は日に日に目に見えてやせ衰え目は落ち窪み、骨に皮が張り付いているような状態、
地獄絵などで見る餓鬼そのものだったらしい。
年齢はまだ64歳だったが80をとうに過ぎた老婆にしか見えなかったという。
「今晩がヤマ」と何度も言われるが心臓がとても強かったためになかなか逝くことができず
終末期には痛みのための幻覚なのか
「そこにいるお坊さんをどこかにやって」と病室の誰もいない方向を指差し、看護するものを気味悪がらせた。
苦しみぬいて亡くなった時の顔は恐ろしい形相で、母は自分の母親ながらことあるごとにその死に顔が目に浮かび震えがきたと言う。
祖母の病名は当時の医学でははっきりとはわからなかったが、祖母の死後医師は「恐らく膵臓癌だったと思われる」と家族に話した。
祖父の死のわずか4ヵ月後祖母の葬儀を終え、何日か経ち疲れがどっと来る頃、J叔母は熱を出し腹痛を訴え1週間寝込んだ。急性膵炎だった。
母が膵臓癌と宣告されたとき最初に思い出したのはこの祖母のことだった。
遺伝的なものがあって自分も発病したのかと思ったのだが、医師にそのことを尋ねると
「膵臓癌に関しては遺伝はないとされている」という答えだった。
しかし、祖母の兄弟は全員胃がんで亡くなり
母の兄弟の長男も64歳のときに同じく胃がんで亡くなった。
癌家系なのだということは親族の誰もが思っている。
現在66歳のJ叔母は64歳の1年間は自分も死ぬのではないかと思い毎日が怖かったと話す。
J叔母はいままでに膵炎を何回かやっていて最近もお腹や腰が痛むこともあるというので
母は自分が発見したときには手遅れだったこともあり、J叔母に検査に行くように勧めたが
J叔母は兄弟の誰よりも祖母の苦しむ姿を目に焼き付けているからか、怖くて検査に行けないという。
しかし、母の見舞いに来るからには検査しようと決心して病院に検査の予約をとったそうだ。
膵臓癌は発見するのが困難で、母のように判明したときには転移していて手術もできないケースが多い。
しかし、そうとわかっていてまめに検査を受けていれば早期発見も可能かもしれない。
J叔母は子供ができなくて、代わりに甥や姪をとても可愛がってくれた。
私も小学生の頃は夏休みに半月もお泊りに行ってたくさん遊んでもらった楽しい思い出がある。
そんなJ叔母にはぜひ長生きしてほしいと私も思う。
駅まで送る車中、二人の叔母はSちゃんがいて母は幸せだと話す。
J叔母は子供がいないし、もうひとりの叔母は息子二人なのでお嫁さんに看取って
もらうことは期待していないという。
二人とも将来的には老人ホームに入所するつもりでそれなりの蓄えをしているそうだ。
駅の改札口でお母さんをよろしくね、と言われ別れる。
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いつも応援ありがとうございます
実は私の母も77歳で、この7月に膵臓がんを宣告されました。りりぃさんのお母さまと同じく肝転移のため手術できませんでした。
それまでは病気一つしたことなく、車の運転もし、インターネットでお買い物をして、見た目もとても70歳台にはみえない自慢の母でした。気丈な母と思っていましたが、病気になり抗がん剤治療が始まってからは副作用に苦しみ、みるみる病人になってしまいました。そして一人でいることを不安がってぶるぶる震えるようになりました。ここまででもりりぃさんのお母様ととてもよく似ていて、同じような方がいらっしゃるんだ、、また同じように辛いご家族の方がいらっしゃるんだ、、と、どうして母が、、どうして私の母が、、という気持ちばかりだったところで勇気付けられました。
そうしたところ今日の記事です。ほんとうに驚きました。
母の母、つまり私の祖母も約30年前「背中が痛い」といいながら亡くなったのです。おそらく膵臓がんだったと思います。
あまりによく似た状況なので、おもわず書き込みさせていただきました。
お母様の余命がわずかといわれているようで心痛みますが、どうかそんな余命が当たることなく穏やかな日々が長く続きますように。。心から心からお祈りいたします。
りりぃさまもそばにいるからこそ余計にお辛いことも多いと思います。
私にとって母を亡くすことはどうしようもなく恐怖です。これからどうしようかと思います。お互いほんとうに辛い毎日ですね。
あまりの似通った境遇に驚いて何度も何度もコメントを読み返してしまいました。
つい最近まで元気でバリバリ活躍していて、気持ちの上でまだまだ頼りにしていた母親が
突然弱弱しい病人になってしまう悲しさ…
母がいなくなってしまったらと思うと胸がはりさけそうに寂しいです。
私もemuさんのコメントに勇気をもらいました。
同じ気持ちで頑張っている人がいるというのはとても心強いものですね。
emuさんのお母様は抗がん剤が効いて少しでも長く普通に近い生活ができ
楽しい思い出をいっぱい作られるよう祈っています。
どうぞまたお母様のお話を聞かせてください。
母親はずっとこのままでいるもんだとなぜか思っていました。こちらが頼ったり甘えてばっかりで、都合のいいようにしていたなぁと思うと涙ばっかりでてしまいます。このごろはちょっと突かれてもボロボロ泣いてしまいます。悪意はないとわかっているのに、人の言葉に、ときどきグサっとやられる。ほんとに情緒不安定。
家族もまさに第2の患者ですよね。
うちの母さんの抗がん剤は効いているのかどうか、、わからないです。効いていてほしい!と切に願っていますが。腫瘍マーカーは微減ですが、痛み止めの量がだんだん増えているところをみると本当のところ、、、と暗い観測をしてしまいます。そして痛みがあるかぎりはもう普通の今までのような生活はできないと思います。そのうえ不安を取り除くお薬でフラ~っとしていますし(涙)
う~ん。またまた暗くなってきた。いけませんね。お互い希望を捨てずに頑張りましょう。
私は多分りりぃさんの娘さん位の年齢になります。
私の母も8月に膵臓癌が発覚しました。還暦を迎える1ヶ月前でした。発覚前の1ヶ月は、とにかく嘔吐、倦怠感の毎日でした。田舎の病院では分からなく1ヶ月も異常なしでやっと他の病院を紹介してもらいました。うちは肝臓ではなく十二指腸、動脈に浸潤していて手術はもちろん不可で1ヶ月の入院後 現在は2時間かけ抗がん剤治療を受けています。父親も同時期に喉頭癌になりましたが今は癌が消滅していますが、毎日酒を飲み、母をすぐにあてにし 母は療養処じゃないんですよ。私も野菜や果物をジューサーにして勧めましたが、無理に飲んでるのを見て勧めるのをやめました。今は調子の良い時に食べてるといった感じです。体重も15キロ落ちました。ブログを読んでいるとりりぃさんのお母さんの方が食べれてるように感じます。私も家族があり遠方で毎週末様子を見にいってますが、まだ痛みは出ていないみたいです。私はやっと覚悟のように受け入れられるようになりました。今まで私を含め兄弟が結婚後も孫のことやら頼りっぱなしで、常に母の存在なしでは成り立ちませんでした。母も医者からハッキリとステージ4aで余命を告げられましたが、どこかでまだまだ生きられる治るのではないかと半信半疑のようです。ただただ後悔のないように会える時に実家に行き 家事を手伝う日々が続いています。当初は膵臓癌=背部痛としか認識なくて、嘔吐などは頭にはなく、男性にばかりなる癌だと思っていただけにショックも大きかっです・・・。なんだか、私の話ばかりなり 申し訳ありません。
『ゆう』でお願いします。
第二の患者というお気持ち、よくわかります。
うちでは父が高齢と言うこともあって母と一緒に弱っていくようでとても心配です。
痛みは最大限取り除けるようにならないものでしょうか。
痛みがあると精神的に前向きになれなくなりますよね。
モルヒネの使い方も病院によってさまざまと聞いていますが
患者が楽に過ごせることを最優先にしてもらいたいです。
ゆうさん
母親くらいの年齢なのに「りりぃ」で恥ずかしいですが^^;そう呼んでくださいw
1ヶ月も膵臓がんがわからなかったとは!私の母も前々から胃痛はあってまめに個人医院に通ってはいたのですが
もっと早く大きな病院に紹介してくれていたら…と思うと悔しいです。
お母様はまだ還暦を迎えたばかりではお若いですし、ご本人もご家族もどんなにお辛いかと思います。
まだ痛みが出ていないということはきっと抗がん剤が効いていると信じて
お母さんと一緒に過ごす日々がずっと長く続くことをお祈りします。
とみこさん
貴重な情報をありがとうございます。
72才の方はそれほど痛い思いをしながら抗癌剤の副作用にも耐えているのはすごいことだと思います。
きっとその気力が大事なのでしょうね。
母は抗癌剤には耐えられませんでしたがまだ闘志が残っているので余命宣告など吹き飛ばしてくれると信じます。
とみこさんもご自身も乳癌ということなのに私の体調まで心配してくださってありがとうございます。
とみこさんもどうか余命宣告など吹き飛ばしてください。
心から祈りの念を送ります。