緑の紙片BLOG

「緑色した軽いもの」に、なりたい。ゲーム日記はネタバレあり。引っ越して、添削中でした。格闘中に、クラスチェンジしました

2012年4月2日。メモ。二次元 vs 三次元は、しょうがない。理由思い出した。死ぬのが、人間

2012年04月02日 23時55分13秒 | ネット生活。
「2次元 vs 3次元」の話を
聞くことが、多いけど。

自分の場合は、
「命なきもの vs 命をもつもの」だ。


--


では

なぜ
自分の場合
「命なきもの」が、必要なのか
というと


理由は
学生時代に、さかのぼる。


--


つまり
ひとが、死んだんだ。

理由は、ない。
事故死だ。


ものすごく、ショックだった。
当人だって、
死ぬ予定じゃなかったろう。

しかし
学生は、事故死した。


納得なんか、できなかった。

・・・
この世に
おいていかれた。
もう、
あの学生は、もどってこない。


--


そういう死を、
思い起こせば、
けっこう、見てたんだ。

小学生のときも
もっと、後も。


だから
「人は、人を置いて逝く」
こういう認識が、できた。


もちろん
死んだ当人は
悪意で、
周囲のひとを、置いて逝ったのではない。

しかし・・・。


--


つらかったんだ。


そして
「命なきもの」だが。

こちらは
当方が、創作しないかぎり
現れないし、動かない。


活動さえ、しない存在だけど。
・・・
周囲のひとを、置いて逝くこともない。


だから

自分は
「命なきもの」を、ある時期から
必要とした。


自分には
「命なきもの」が、必要。


しかし
その
「必要」の理由は
つまり

「命あるもの」が、
ある日
「突然、死ぬ」からだ。


・・・
なんということだろう。
理由が、循環していた。


「命あるもの」が、
「死ぬ」からだ。

「置いて逝く」からだ。


・・・
しかし
彼らは、
裏切ったのではない。

死にたくて
死んだのでもない。しょうがなかった。どうしようもなかった。


・・・
なのに。

置いていかれたほうは
悲しいから。


納得できないから。


--


適度に

生活に、
「命なきもの」を
取り込まずには、いられない。


「命なきもの」
彼らは
「置いて逝く」ことだけは、ない。

・・・
つまり、
そういうことだった。


人が
死ぬからだった。


--


だから

「2次元 vs 3次元」は
もともと
対立なんか、しちゃいない。


三次元が
勝手に
突然、死ぬから
二次元とかが、必要になる。

でも・・・


こういうこと
って
しょうがないよね。

人間は、勝手に死ぬ
というか・・・


事故死、してしまうんだな。
たまに・・・。


--


やりきれん。
思い出したら、悲しくなった。


勝手に、
他人の心臓が、とまってしまうんだよ?
もう
何をいっても、だめなんだ。

そういうときは
心臓が、とまってしまうんだよ?
だって
他人の心臓だ。


・・・
だから

そういうことが続いて
自分は
「命なきもの」が、
適度に身近にないと、だめになった。


つらくなった。


--


人間が、命あるものが
好きだから
「命あるもの」が、つらくなった。


もはや
人間と、
適度に距離をおかずには、いられない。

「命なきもの」は、
・・・
つまり、
自分にとっては、仲介者なんだ。


--


「命なきもの」は
勝手に死ぬ
人間と、
人間の
時を、仲介する。


彼らこそが
自分が、
誰かの死で感じたダメージを
直接うけることを、回避させ

ダメージを ・・・吸収してる。


このような工程が
自分の中にあることに
だんだん、
気付いていったんだけど。


--



学生のときは
ここまで、考えてなかったな?


だけど
誰かの死は、
やはり、つらい。

・・・
学生のときの
誰かの死の、つらさを、
どうにかしようとして
いろんな
工夫をしたんだな、自分。

↑ 衝撃うけすぎ。


・・・
衝撃だろうと
衝撃ではなかろうと

死ぬときは、死ぬよ?
たとえ、学生でもね?


・・・
自分は
自分が
うけた衝撃に、対処しようとして
じたばたしただけ。

それにしても
じたばたしたって
「置いて逝くんだな」という
現実は、全く変わらない。


「命なきもの」が
必要だ。

ある種の、
衝撃吸収剤として
必要だ。


--


もちろん

人間が
突然
理不尽には
「死なない」のが、一番いいんだけどね?


いいんだけど

・・・
それ、無理だから。


--


だから
自分は、
「命なきもの」を、適量取り込んでる。

彼らは
「命なきもの」であるからこそ
生きてないけど
死ぬことも、ない。


たまにおきる
死の衝撃を
自分が
直接受けないよう、吸収することもできる。

まるで、
・・・
かたしろのように。


いつでも
彼らを
自分で、描くことができる。


・・・
自分がいないと、
彼らが、
自分の前に、現れることはないけど

彼らが
自分より先に、死ぬこともない。


(ある種の彫刻についても、たぶん、同じことが言える。彼らが、自分より先に、死ぬことはない。彼らは・・・ 創作者をおいて、先に死ぬことだけは、「ない」存在。)

まあ
理由を、思い出してみると
ただの
置き去り対策、だったわけだけど。


--


人の命が
予定通りに
生きて、死ぬわけではない以上


自分は

今後も
この手の、
この世への、置き去り対策を、
やめてしまうことなど、できず。


じたばたしそうです。


それでも
理由が思い出せて、よかった・・・
というか


本当に、
思い出せて、よかったのかな?
自分。

・・・
そんな、細かいことは
わからないんだな。


--


今後も
じたばたしそうです。


おわり 「人間が、勝手に死んでしまうからだー!」みたいなのは、実は、ものすごく、どうしようもない根源的な理由だ、と思う。それにしても。・・・「命なきもの」は、勝手に、先に、死んでしまうことだけは、たしかに「ない」。もちろん、死なないので、ずーっと、目の前にいて、そこが、面倒といえば、面倒でもあり。・・・「命あるもの」と、「命なきもの」 補完しあってるんだ、って思うよ? 他人の死は、裏切りでこそないけど、衝撃なので。「命なきもの」、自分にとっては、死の衝撃緩衝材です。なんにしても、学生のときは、ここまで考えなかった理由でした。

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